ゆとり教育の崩壊−プログラムの不在−
1 「教育力」の概念
以前にも論じたが、教育力の要素を大別すると、「教育環境」と「学習プログラム」になる。従来、筆者は、教育環境が「全体」で、そこから生み出される学習プログラムが「部分」であると考えて来た。しかし、「全体」と「部分」を逆転する発想も可能である。なぜなら。教育意志を実現するためには、いかなる教育環境も、学習プログラムの提供に始まる。学習プログラムの反復によって、教育環境が醸成されたのである。教育環境が初めにあったのではない。このように考えれば、「教育意志」が出発点であり、意図的な教育「プログラム」が初めにある筈である。換言すれば、「環境」も、「風土」も、「人間関係」も、具体的な学習プログラムの実施過程で生み出された条件である。もちろん、ひとたび出来上った教育環境は、それを土台にして次なる新しい学習プログラムを生み出すから、一度学習環境が醸成されると、学習環境が「親」で、学習プログラムが「子ども」になるような関係が生じる。両者の関係は、双方向である。プログラムと環境の「弁証法」である。然るに、子ども次第で親が変わることはいくらでもあり得る。「プログラム」のあり方が「教育環境」を変えるのである。
当然、「環境」と「プログラム」の間には「「偶発性」と「計画性」の違いがある。教育プログラムは意図的であるが、教育環境や人間関係の中で発生する学習は偶発的である。既存の「教育環境」、「教育風土」、「人間関係」などから自然発生的に生じる学習はあくまでも偶然で、気紛れである。それゆえ、偶発的に行なわれる「学習」を、意図的、計画的に行なわれる教育行政の指標に含めるべきではないと考えたのである。そこで、「教育環境」、「教育風土」、「人間関係」など、重要ではあるが、包括的で、漠然とした概念を教育力の構成要素からはずして考えてみた。
2 「ゆとり」と「充実」の条件
教育力の基本がプログラムであると言う考えに立てば、土曜日の教育力とは、土曜日に提供される子どものための学習プログラムの総体である。当然、教育成果はプログラムの中身と方法次第である。したがって、学校週5日制を導入しても、「ゆとりと充実」が同時に実現できることにはならない。それゆえ、学校5日制を「ゆとりと充実」のスローガンで飾ることは「まやかし」に近かったのである。
実態としての学校週5日制は教職員の週休5日制の言い換えであり、子どもにとっては、単に、土曜日が休みになるということを意味しているに過ぎなかった。それは、子どもにとって、これまであった土曜日の学校プログラムが消失するということである。プログラムが教育力の核心であれば、土曜日の「学校プログラム」が消えた分だけ、「教育力」が低下するのは当然である。土曜の学校プログラムが過密の原因であったすれば、土曜を休みにすることは確かに「ゆとり」に繋がる。しかし、選択肢の中には、「過密の学校」を「過密でない学校」に変えるという方法もあった筈である。後者を選ばず、土曜を休みにしたのは、「学校のゆとり」が本来の目的ではなく、教職員の週休2日制が目的だったからである。世間を刺戟しないように「教職員の週休2日制」を"差し障りのないように"言い換えただけだからである。また、従来の学校の土曜プログラムが子どもにとって役に立たないものであったすれば、ここでもまた、「役に立たないプログラム」を「役に立つプログラム」に改善するという選択肢はあった筈である。しかし、そうした選択は行なわれなかった。理由は、「ゆとりと充実」が目的ではなく、「週休2日制」が目的だったからである。
それゆえ、もちろん、新しい「休み」が「ゆとり」や「充実」に繋がるかどうかは、子どもを取り巻く「プログラム」次第である。したがって、これまであった土曜日の学校プログラムに代わるすぐれた活動・学習プログラムを補完しない限り、「ゆとり」も、「充実」も生まれない。分かりきったことではないか!
3 プログラムの欠落−「ゆとり教育」の崩壊
「教育力」とは、具体的な「教育・学習プログラム」の総体である。この前提に立てば、家庭の教育力とは、家族の生活に顕在化している教育の意志と働きかけを意味する。換言すれば、家庭の教育力とは、家庭の中の計画された学習プログラムの意味である。箸のもち方も、衣服の着脱も、言葉遣いも、家の手伝いも、すべてのしつけは「教育プログラム」である。したがって、家庭の教育力がないということは、家庭に「しつけのプログラムがない」ということである。
家庭における「教育プログラム」を回復できない時、子どもは家庭では十分に育たない。社会は当然、自衛策を講じ、家庭を説得しようとするが、すべての親を説得できるわけではない。地域の場合も同じである。学校が休日になった土曜日の「穴」を埋める地域のプログラムはまったく不十分である。そこに行政が対応すべき政策根拠がある。取り合えずは、土曜日のプログラムを創造することである。それゆえ、教育政策とは「どのようなプログラムを提供すれば、教育力を保持できるか」を判断することである。当然のことであるが、プログラムの成否は教育政策の成否を意味する。
地域の生涯学習政策とは、実現すべき目標の為に、どのような「学習プログラム」を配置するかということである。したがって、学校5日制に伴う土曜日の有効活用を図ろうとすれば、土曜日の「活動メニュー」を準備することである。それが土曜日の教育力であり、土曜日の為の教育政策である。メニューの内容と方法は子どものニーズと関心によって異なることはいうまでもない。様々な「土曜スクール」、様々な「活動メニュー」が必要となるのはそのためである。
繰り返して論じるが、教職員の週休2日制は労働条件の改善である。それゆえ、社会は制度の導入を歓迎して当然である。しかし、この事実を正面から論じなかったために、土曜日の教育力の空白に対する対応策が遅れたことは間違いない。全部の家庭が土曜日の子どもたちに対応できるとは限らない。「土曜留守家庭」の存在はその象徴である。また、多くの地域はいまだ「土曜の空白」を埋める手立てを講じていない。したがって、家庭も、行政も、失われた「土曜日の学校」に代わる「新しいプログラム」を創造しなければならない。それこそが学校5日制が提起した課題である。新しい土曜プログラムを創りだせなかった以上、「ゆとり教育」が失敗する事は目に見えていたことである。
また、学習指導要領の改定によって導入された「総合的学習」の目的は、「ゆとり」の理念を全面に掲げて「生きる力」を育てることであった。しかし、プログラムが適切でなければ、総合的学習もまた失敗に終わる事は時間の問題であった。なぜなら、総合的学習の大部分は「生きる力」を育てる「プログラム」にはなっていないからである。農業のままごとをやっても、環境調査のままごとをやっても、国際交流のままごとをやっても、「生きる力」が向上する筈はない。くり返し論じた通り、「生きる力」の構成要素は、体力と耐性を土台として、その上に学力、道徳的実践力、思いやりややさしさの感受性の組み合わせである。体力の向上には身体運動を、耐性の育成には困難プログラムへの耐えざる挑戦をプログラム化しなければならない。体力と耐性の土台ができれば、子どもは学力のトレーニングに耐えうる。ルールに従い、切れずに我慢ができるようになる。そのあとは親切ややさしさの実践プログラムを組めばいいのである。「ゆとり教育」が軽んじたもの、「総合的学習」が忘れたもの、それが体力と耐性の鍛練である。教育行政が理解しなかったことは、「『体力と耐性』なしにあらゆるトレーニングはなりたたない」ということであった。「ゆとり教育」をしくじり、総合的学習」に失敗する事は自明の事だったのである。
4 補完プログラムの不在 −熱意の不在−
土曜教育力が土曜日の活動・学習プログラムの総体であるとすれば、夏休みの教育力という言い方も可能である。夏休みの教育力とは、長期休暇中に提供される活動・学習プログラムの総体である。ゆとり教育で学力が心配ならなぜ我が公立学校ではサマースクールを実施しないのか!?
夏休みの子どもは休業である。多くの外国の教員も夏は休業である。それゆえ、休み中の給料はでない。しかし、日本の教員は夏休みも勤務中である。給料も出ている。子どもが休業しているのは、学業である。その他の活動は別である。地域の教育力が低いと言うのであれば、地域における夏休みの子どもプログラムを提供しなければならない。林間学校も、海浜学校も、外国の「サマースクール」はそのようにして始ったのである。教育行政は、夏休みの教育力の創造を何故言わないのか?補完プログラムは誰が提供するのか?補完プログラムで何をするのか?「生きる力」を構成するのは「学力」だけではない。答はおのずから自明であろう。土曜日の教育力も、夏休みの教育力も必要なのである。
「生きる力の教育力」とはなにか、「たくましさの教育力」とはなにか?教育機関の教育力が問われ、季節の教育力が問われ、曜日の教育力が問われるのであれば、特定の目標のための教育力も問われなければならない。学力が心配なら「学力」を向上させる総合的なプログラムが不可欠である。「やさしさ」が足りないのであれば、やさしさの実践プログラムが必要なのである。「社会性」の陶冶についても同じである。責任感の体得についても同じである。教育力の低下はプログラムの補強によって補う事ができる。「教育意志」は教育プログラムによって実現するのである。それゆえ、補完プログラムの不在こそ日本教育界における熱意の不在の証明である。
「タフな子どもを育むための実践モデル事業」−長崎県壱岐市ー霞翠小学校の最終発表会−
2005年3月9日(水)は霞翠小学校のPTA総会に合わせて、モデル事業最後の子ども達の発表会を行います。堀川薫PTA会長、久田清文校長にお話をして外部の皆様の見学・参加の許可をいただきました。教員集団が結束し、中身と方法が適切であった時、子どもがどのように変わるか、是非とも直にご覧いただきたいと思います。当日、博多中央埠頭発一番の快速船(ヴィーナス)に乗ると発表に間に合うようにプログラムを組んで下さるとお知らせをいただきました。島の早春はまた格別、奮ってご参加下さい。資料の準備もありますので、ご参加の場合は霞翠小学校教頭三浦小栄子先生またはkasu12@luck.ocn.ne.jpまでご連絡下さい。
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