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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第62号)

発行日:平成17年2月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 憧れの先生

2. 「自主学習」時間の時間割 −放課後児童健全育成事業のジレンマ−

3. ゆとり教育の崩壊−プログラムの不在−

4. 第54回生涯学習フォーラム報告

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

憧れの先生
 

■ 1 ■  英語を英語で教えられて当たり前!?
  福岡県穂波町は小学校に「話せる英語」を目標としたプログラムを導入している。そのご縁で穂波に指導者を紹介している英語専門学校の責任者の方にお目にかかる機会を得た。友人の教育長が筆者の英語教育についてのフォーラム論文を英語学校の先生に紹介してくれたのが縁の始まりであった。筆者の講演を傍聴されたあと「試験」に合格したのであろうか、英語教育の指導者に対する講演依頼が廻って来た。当然筆者は英語の専門家ではないが、何ごとも経験である、と考えて引き受ける事にした。
  教育の成果はプログラム次第である。英語が話せないのは英語を話す教育プログラムが悪いからに外ならない。講演の依頼者は話す英語を目的として英語教育の改革運動を展開している松香フォニックス・インスティチュートというところである。主宰の松香洋子さんとそのスタッフの共著である「英語のできる12才」という著書をいただいた。
  "スキーの先生はみんなが憧れるくらいスキーが上手で、ピアノの先生はうっとりするくらいピアノが上手に弾け、水泳教室の先生はかっこよく泳げるでしょう。それと同じように英語の先生も子どもの憧れを生むようなすばらしい英語を使って欲しいのです。英語を専門とする人は英語を英語で教えられて当たり前だと思うし、そうで無い人は英語教師になってはいけないと思います。"(*1)要するに、英語教師もまた英語コミュニケーションの技術において、生徒の憧れの先生でなければ、生徒の英語はものにならないという事である。
 まさしくご意見の通りであるが、そうなると少なく見積もっても公立学校の英語教師の90%は失業することになるであろう。日本が世界の中で生きて行く、と決心した以上、英語は不可欠のコミュニケーション手段である。それゆえ、教育行政は小学校段階からの英語教育に前向きになった。この機会を逃がしてはなるまい。こんどこそ今までのように教員養成大学で英語の教員免許状を取っただけの教師を採用してはならない。条件は簡単である。上記の松香さんのご意見のように「英語で英語を教えられる」先生を採用すべきである。採用方法はしごく簡単である。英語のできる人の前で実演をしてみればいい。かく言うとその種の予備校がまたゾロ出現して、面接用のシナリオを暗記するような対策を取るであろうが、30分も面接すれば実力の無い者は必ず馬脚を表すので心配はない。筆記試験などより評価は遥かに正確である。前々からの筆者の主張であるが、英語のような実技科目は「できる」人だけに免許状を与えるべきである。現状では、文部科学省のトップも、地方教育行政のトップも英語で英語を教えられないことは自明なのだから、この際英語を英語で教えている人々の意見を聞くべきであろう。いただいた本を通読して共感するところが多く、刺戟を受けて小論を展開する気持ちになった。
(*1) 英語のできる12才、松香洋子ほか著、松香フォニックス研究所、2000年、10月、pp.81〜82

 ■ 2 ■  言語は「型」

   作法が礼儀正しい「態度と行為の型」であるように、親切な行為は「思いやりの型」である。当然、言語もコミュニケーションの「型」である。「文型」というのがその証拠であろう。日本語に「型」があるように、英語にも「型」がある。日本語の習得が、日本語の「文型」の習得であるとするならば、英語の習得も同じく、「文型」の習得ということになる。文法の基礎が大事なのは「文型」の成り立ちを理解するためである。もちろん、受験問題に登場するような高度にして難解な「文型」や文法はコミュニケーションの英語には不要である。われわれの日常的コミュニケーションがどの程度の種類と数の「型」を使うかによって、文型もその基礎となる文法も教えればいい。


 ■ 3 ■  学校英語は「型」を習得させていない

  コミュニケーションのできない学校英語の状況を延々100年以上も許して来た文科省はまともではない。現在の日本経済がおかれた怒濤のような国際化の波を思えば狂気の沙汰と言っても過言ではない。普通の日本人は最低でも6年間英語を学んでいるのである。高校進学率が90パーセントを優にこえる世界一の中等教育を擁しながら、中学3年、高校3年の6年の英語教育はほとんど実らない。
  大学を出ても話せないのだから、と国民の多くはすでに諦めている。英語への向学心は消えていないのに、自分が英語が話せるようになるとは期待していない。学校英語は英語の「文型」を体得させていないのである。多くの関係者は、母国語が十分に出来ないのに英語ができるようにはならない、という迷信をまき散らす。しかし、「話す事」と「話す中身」は別の問題である。議論の中身は教養の中身に限定されるが、言葉が「文型」である以上、「型」を学びさえすれば、会話力は基本的に母国語のレベルとは関係がない。外国にはもちろん、日本国内にも、英語教育のモデルはふんだんにある。都市にはいたるところに様々な英語学校があって現実に機能している。これらの学習モデルが学校教育に取り入れられない理由はたった一つである。それは、誰かが「現状でいい」と主張しているからである。現状を容認している根源は教員制度である。換言すれば、英語教員の免許状制度が変革を拒んでいるのである。英語を話せない教員に話せる英語を教えられる筈はないからである。制度改革に着手せず、現状を放置している一方の代表が文部科学省である。他方の代表は、中学から大学までの日本人の英語教員である。多くは、英語を使って十分なコミュニケーションが出来ない教員である。当然、「英語で英語の授業はできない」。残りは、コミュニケーションの英語をばかにして英米文学を専攻している教員である。


■ 4 ■ 「型」の指導の特性

  「型」の教育は意味が後から来る。子どもは「型」を自分では選択しない。「型」は先人の知恵として子どもの興味/関心の以前に「先在」している。子どもの興味・関心の故に「型」をきめるのではない。「型の中身」に価値があるので「型」が採用されるのである。それゆえ、「型」の指導は「子どもの主体性」論と正面衝突するのである。「型」の指導は、子どもの興味・関心を前提としない。それゆえ、主体性を無視した「詰め込み」である、という非難が生じる。反対論の根拠は間違ってはいない。「型」は究極の「詰め込み」である。しかし、「究極の」とは単なる知識の詰め込みではないという意味である。「型」の指導は「体得」の指導である。それゆえ、身につくまで反復練習をくり返す。「型」の指導は「子どもの主体性」をある程度無視せざるを得ないのである。「主体性」や「自主性」は「型」の枠内でしか認めない。学ぶべき「型」の枠の中で『君ならどうする?』と聞くにとどまる。
 「型」の指導の基本は「詰め込み」であるが、必要な基本的能力を詰め込むのは当然である。詰め込んでもらえなかった子どもの不幸を考えて見れば明らかであろう。「型通り」は、確かに「創造」の反対の極にあるが、対抗すべき型枠がなければ、それを打破するような創造性は生まれる道理がない。「創造力」こそは「基本型」に精通した人間による「型」の破壊であり、革新である。「型」の指導は知育ではない。「型」は体験を通した「体得」である。英語を話せないのはコミュニケーションに必要な文の「型」を「体得」していないからである。


 ■ 5 ■  子どもの英語の最大の危険

   日本人の英語の最大の難所は二つある。ひとつは「楽しみ」、他のひとつは「発音」である。「楽しみ」は受験英語が初めから殺してしまう。ひたすら間違えることを恐れ、コミュニケーションのためではなく、知識のため、試験のための学習が楽しい筈はない。第二の鬼門は聞き取りである。聞き取りが出来ないことは、発音が出来ないことに直結している。それは50音の言語の宿命である。特に、現代日本語の50音は、「ヴ」の文字も、「Wi」の文字も消してしまった。『R』と「L」は区別出来ない。さらに、「F」の音も、「TH」の音も存在しない。それゆえ、「F」も、「TH」も発音できず、「V」の音にも「Wi」の音にも、特別の注意は払わなくなった。曖昧母音も当然発音できない。50音に縛られて言葉を学ぶわれわれ日本人には、50音以外の音は聞くことが難しい。聞くことが出来なければ、当然、発音は出来ない。もちろん、このことは日本の子どもが、外国の言語の音を聞く能力を持たないということではない。50音に縛られてそれ以外の音を聞いていないと、聞きとりの能力が減退してしまうということである。その証拠に幼少期から外国で暮らした帰国子女は外国語の音を聞く耳を発達させている。国際結婚の結果、英語を母国語とする外国人の親から幼い時の発音を学んだ日本人の子どもも外国語の音を聞き分けることができる。
   それゆえ、聞き取り能力の最大の問題は、ヒアリングの能力を開発する幼少期-少年期の環境である。中学生の多くはすでに曖昧母音の音を聞き分けることは出来ない。こと、発音の習得に関しては、小学生から始めることが望ましいのはいうまでもあるまい。しかし、問題は日本人教員である。50音の発音しかできない日本人教師に習うのは致命的な失敗である。教師の側もまた幾つかの音を聞き分けることが出来ず、当然、発音することも出来ない。子どもの英語教育は断然英語の発音のできる外国人教員によらなければならない。話す英語に重点をおくならば、ポイントは、楽しみとヒアリングと発音である。東後は英語学習の観点から子どもの特質を次のように要約している。東後はこれを「天性」と呼ぶ。天性を英語学習に活用しない方はない。

  • 子どもは素直

  • 子どもは耳が敏感

  • 子どもは物まねの天才

  • 子どもは恥ずかしがらない

  • 子どもは好奇心のかたまり

  • 子どもは人の言葉をよく聞く

  • 子どもはすぐに行動に移す

  • 子どもは身体で覚える

  • 子どもは外国語を意識しない

  • 子どもはくり返しを嫌わない(*2)

   東後の指摘を、アメリカの子どもの英語の覚え方を研究したシグリッド・H・塩谷の観察と比較してみると共通点が多い。塩谷の観察結果の中から一般化できそうな項目を列挙すれば以下のようである。(*3)

  • アメリカ人も英語を間違いながら覚える

  • 周りの音は何でも真似してみる

  • ものや人の名前を最初に覚える

  • 少ない語彙で必死に表現する

  • 子どもには英語も日本語も同じ

  • 動きが目に見える動詞は速く覚える

  • 意味に幅のある動詞はたくさん聞いて覚える

   東後も、塩谷も、子どもは真似をすることで覚え、使うことで身につける、と言っている。当然、「物まねの天才」に不適切なモデルを与えることは最悪である。不適切なモデルとは、50音に制約された発音、正しい言い方だけを教えようとする指導法、英語を使わない環境の三つである。小学生の英語教育を日本人教員で始めることは、話す英語の自殺行為である。

(*2)  東後勝明、子どもの英語いま、こんなふうに、BL出版、1998年、pp.20〜21
(*3)  シグリッドH・塩谷、アメリカの子どもはどう英語を覚えるか、はまの出版、1991年


 ■ 6 ■  ささやかな挑戦

  筆者の英語は残念ながら一昔前のジャパングリッシュである。田舎の育ちであるから英語の正しい発音など習えるはずはなかった。しかし、アメリカの田舎の英語環境で苦労して覚えたので、相手が注意して聞いてくれれば十分通じるのである。アメリカの大学の講義でも学生達は理解した。それゆえ、いささか迷惑の押し売りの感はあるが公民館の英語講座をボランティアで担当している。目的はいろいろあるが、その一つは自分の英会話学習/英語教育の考え方を証明するためである。いまのところ学習者の大部分は成人の市民である。皆さん50音との違いを意識していない分だけ発音はひどい。また、学校英語の学習法に慣れていて、英会話のクラスであるにも関わらず、話したり、聞いたりする以上に必死にノートを取る。それゆえ、たびたびノートを取る事を禁じて会話に集中させる事になる。最近、寺子屋の手法に倣って、音読、暗唱、朗誦、ストーリーテリング、英語劇などを取り入れてもっぱら実践的な会話練習に集中している。日本語を使う事は全面禁止である。筆者の方法は上記の通りである。50音に制約された発音を是正する。正しい言い方をひとつだけを教えようとする指導法は取らない。たえず英語を使い、日本語は厳禁する。ようやく中年および熟年学習者が英語を話すようになりつつある。来週はささやかながら、初めてのスピーチ・プレゼンテーションを行う。4月からの新学期は、いつでも、誰でもの原則には反するが、クラスをこれまでのように分散せず、学習者を限定して継続的なスピーチのトレーニングを始めてみたい。「英語のはなせる12才」が実現できるなら「英語のはなせる熟年」も実現できるはずである。来年の今頃は「風の便り」紙上にスピーチ・プレゼンテーション大会のご案内を載せたいと夢見ている。

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