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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第53号)

発行日:平成16年5月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「子ども」と「児童」 −「半人前」の親と「4分の1人前」の子ども−

2. 「状況変化」の評価方法 −単位のないものをいかに比べるか?−

3. 「翻訳学問」を疑え

4. 雇用多様化時代の生涯学習

5. 「他者の人権」、MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

「状況変化」の評価方法 −単位のないものをいかに比べるか?−


 ● 1 ●  評価基準の恣意性
  第23回生涯学習実践研究交流会は中国・四国・九州の各地から沢山のご参加をいただいて今年も盛況であった。いつもの通り100枚の名刺が消えた。ゆっくりお話する時間はなかったがそれでも問題の発見はいくつもある。長崎県教育委員会の川 英治さんとは2回に渡って話し込んだ。話題は標記の通り「単位のないものをいかに比べるか?」である。川さんが担当しているモデル事業も今年で3年目を迎える。事業に投入した公金に見合った効果は上がったのか?はやりの「アカウンタビリティ」とは公金投資の効果の検証を問うている。公金を費消し、時間とエネルギーを投入するモデル事業はその効果・効用が説明できなければ財政当局は説得できない。果たして学校は変わったのか?そこでお決まりのアンケート調査が登場する。「学校は開かれたか?」、「地域との協働は進んだか?」、「子どもは進化したのか?」、「保護者は満足しているか?」、「教師集団は変わったのか?」、モデル事業が開発したプログラムは継続が可能か?」などなどである。しかし、このような質問をいくら並べたところで誰に聞くのか?評価者の評価基準は設定できるのか?設問に即して言えば、何をもって、「開かれた」というのか?どのような条件が変わったから「協働」が進んだのか?回答者は思い思いの基準で判断する。それらを集計したところでモデル事業の効果を測定したことにはならない。川さんの頭が痛いのはそのことである。懇親・交流二次会の喧噪の中でどこまで説明できたか分らないが以下が筆者の見解である。

 ● 2 ●  「単位」の不在
  筆者の比較基準の研究はアメリカから始まる。比較教育学会への失望から始まる。比較教育学会に出席してみて、発表のほとんど全部が「比較研究」ではない。「外国事情の紹介」である。科学研究の基礎は単位である。単位が設定できればこそ観察も、分類も、実験も可能になる。教育制度研究でも、教育方法の研究でも、教育実践の最大の弱点は試験の「点数」以外の単位がほとんど存在しないことである。筆者が現在かかわっている学校の実践でも体育スポーツのような分野は速さや時間の単位がある。したがって、ある程度の客観的測定は可能である。知識や技術の習得についても試験で点数化できるものは「単位」になる。単位に換算できるものが存在すれば、変化の度合いが測定可能である。しかし、問題は数字化出来ない分野の比較である。子ども達の集中や興味や協力の状況に付いては測定のもととなる単位が不在である。教師の熱意や、保護者の協力についても「単位」はない。比較・評価するためには、単位に変わる「比較の基準」が必要になるのである。その方法が「特性別照応分析」である。筆者はこのことをアメリカと日本との生涯学習支援施策の比較研究の過程で思い付いた。
教育政策にせよ、教育実践にせよ、比較の基準がないから「比較研究」は「比較」にならないのである。外国を論じて我が国との比較をしなければ、外国教育の紹介に過ぎない。日本にとって意味のある比較が出来なければ、外国から学ぶことはできない。しかし、社会科学のような文科系の学問には通常「単位」は存在しない。単位がなければ、測定も、検証も難しい。教育学はあたらしい比較の方法を工夫するしかないのである。

 ● 3 ●  「特性別照応分析」−「背比べ」の考え方
  例えば、ここに二人の人間がいる。この二人の身長を比べようとすれば、ふつう比較の共通基準として「長さの単位」を設定する。「メートル法」はその一例である。AさんはBさんより10cm背が高い、という具合である。教育における比較の困難はこの「メートル」にあたる共通基準を設定出来ないことである。それでは「メートル」に限らずなんらかの共通単位を設定せずに二人の人間の特徴を比較することができるだろうか?身長の場合、われわれが最も一般的に採用するのは「背比べ」であろう。背比べは単位を必要としない。AさんとBさんに並んで壁際に立ってもらえばいいのである。われわれは二人を見比べてAさんが首一つ分だけ背が高いという判断が下せるのである。この場合は「Bさんの背の高さ」を基準にしてAさんが首一つ高いと判断したのである。事は、髪の比較でも、目の比較でも性格の比較でさえも、比較されるべき当事者の特性を基準にすれば他との比較が可能になるのである。もちろん、このような方法の測定/比較は単位に基づく客観的比較にくらべれば精度は格段に劣る。しかし、教育過程や発達状況の「対比的」な理解が可能になるのである。

 ● 4 ●  「合わせ鏡」の論理
  二人の人間の比較はどちらの特性を基準にしても可能である。Aさんにくらべれば、Bさんは背が低いということになり、逆にBさんにくらべればAさんは背が高いということになる。日米の生涯学習を比較しようとして筆者が考えたのは「合わせ鏡」の手法とでも呼ぶべきものであった。女性が使う「合わせ鏡」は一つの鏡を前に置き、もう一つの鏡を後ろに置いて、写し出されるべきもの(比較されるべきもの)を二つの鏡の中間に置き、前後左右からそのものの状況を把握しようとするものである。この手法を日米の生涯学習の比較研究に適用した時、一つの鏡は日本の生涯学習の特性の一覧である。もう一つの鏡はアメリカの生涯学習の特性の一覧である。一つの鏡、即ち、日本の生涯学習の特性に照らし合わせた時、アメリカの生涯学習はどのように見えるのか?逆に、アメリカの生涯学習の特性に照らし合わせた時、日本の生涯学習はどのような特性を持っているのか?二つの鏡を同時に併用することによって日米の生涯学習の特性を同時に把握することができるようになるのである。筆者の説明を聞いて当時シラキューズ大学の主任であったヒームストラ教授は「Characterisitis Mirroring Analysis」と英訳してくれた。一つの「特性」を他の特性の鏡に映してそれぞれの違いを明らかにしようとする方法である。

 ● 5 ●  状況変化の評価
   活動によって状況はどう変わったのか?それを明らかにするためには活動の目標が明らかでなければならない。目標が達成できていれば状況は変わったのである。それゆえ、目標の裏側は常に評価の基準である。目標はどの程度達成できたのか?達成度を測る時も、段階評価は目標に照らして行うからである。モデル事業は何を、何ゆえに達成しようとしたのか。初めの状況はどのようであったのか?そこが明らかであれば、活動によってもたらされた変化も明らかになる。政治も、経済も、人間関係も単位の存在しない分野は目標を細分化し、具体化することで評価基準を設定することができる。状況やシステムの比較の論理は「背比べ」や「合せ鏡」理屈である。数字化出来ない分野は現状を特性別に記録しておいて後の状況と比較するのである。
  例えば、川さんの調査である。「学校は開かれたか?」を評価するには元の実態を明らかにしなければならない。モデル事業開始時期の実態と目標を明らかにできれば、その事実が「比較の指標」となる。「学校を開く」ために何を目標にしたのか?モデル事業を始めた時、学校支援ボランティアは存在したのか?どの程度活躍していたのか?活動の分野は開始時と現在では拡充したのか、否か?ボランティアと学校との関係はどのようであったのか?それが現在ではどのように変わったのか?ボランティアと子どもの接触・交流はどの程度のものであったのか?それがどう変わったのか?ボランティアはモデル事業の活動に満足しているのか。満足の理由と不満の理由は明らかになっているか?これが開始時点を指標とした評価である。合わせ鏡は2枚あるので、当然、目標を指標とした評価も可能である。
  例えば、「学校支援ボランティアを20分野50人に拡大する」事が目標であれば、それが3年間でできたのかできなかったのか?また、「先進地の事例のように、ボランティアは自ら自立して連絡・調整のコーディネートができるようにする」事を目標に謳っていたとすればそれはできるようになったのか否か?「ボランティアによる指導が子どもの成長と意欲にプラスに作用するよう活動を工夫する」事はどのくらい実現できたのか?などなどの視点である。
  筆者の論理は一冊の本にしている。「比較生涯教育」−特性別照応分析手法による日米比較(全日本社会教育連合会、昭和63年発行)である。
 

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