「子ども」と「児童」−「半人前」の親と「4分の1人前」の子ども−
◆ 1 ◆ 教育の戦場
「子ども」と「児童」は異なる存在である。諏訪哲二さんの論文から教えていただいた(*)。両者を区別することによって、長年の「子どもの質」、「しつけの質」についての疑問が一挙に氷解した。「子ども」が「児童」になっていないことが学校問題の核心である。
期せずして、5月4日のNHK衛星テレビは英国のBBCが同様の問題を取り上げていることを紹介した。英国では、「校長組合(School
Masters
Union)」が学校教育の妨げになる「子ども」の増加を指摘し、「しつけ」を怠ってきた親の責任を厳しく追求したと報じたのである。「校長会」は「しつけの悪い子どものために授業を犠牲にはできない」と主張する。「学校は『児童相談所(Social
Worker)』でもなければ、『母親の代理(Sorrogate
Mother)』でもない」。「最小限、学校環境に適応できる子どものしつけは親の責任である」と手厳しい。要するに、児童になれるだけのしつけをしてから学校へ寄越してくれということである。これに対して、当然、保護者が組織する団体は猛反発している、とのことであった。
諏訪さんが気付いたように、英国の「校長会」もきっと事実の核心に気付いたのである。核家族の時代に「半人前」の親がしつけをいい加減にすれば、「4分の1人前」が出来上る。これらの子どもはおいそれとは「児童」になれない。児童でない子どもが大挙して学校に押し寄せれば、授業は崩壊する。学校はその主要任務である教科教育を遂行出来ない。荒れた教室や荒れた学校の出現は、「児童」や「生徒」になれなかった子どもが主たる発生原因である。児童や生徒になろうとしない非社会的な子どもが作り出す教室や学校は教育の戦場である。
教育を「工業」に例えると、まためくじらをたてる人がいるであろうが、学校は教科教育を専門とする「加工業」である。特別に生活指導プログラムを掲げる私立学校ででもない限り、通常の学校は、「加工」前の「素材」の質を吟味して入学させることはできない。もちろん社会が望むならば、「加工業」の底辺を拡大して学校が「素材産業」になることも不可能ではない。しかし、「しつけ」まで学校機能に包含するのであれば、カリキュラムも、指導方法も大幅に改定しなければならない。指導者も、大幅に増員しなければならない。従来の学校機能の全社会的な見直しが必要になる。加工が困難な素材を預かっても今の学校では素材そのものの改良まで手が廻らないのである。
◆ 2 ◆ 学力低迷の真の原因
学力向上の方法には、「学力そのものの直接的トレーニング」と「学習能力を向上させるトレーニング」の二つがある。どちらも重要である。学習能力とは、意欲や構えや体力や集中力の総合である。子どもの学習の構え、子どもの勉強条件が整っていなければ、学力の直接指導もやりようがない。学校が当面している問題の大半は子どもが学習の基本条件を欠如していることである。
ダメ教師も話題にはなるが、総体として、学校は授業に努力している。授業の努力が実を結ばないのは努力が足りないだけではない。ゆとり教育も総合的学習もその大半は間違っているが、問題は指導方法が間違っているだけではない。根本は、子どもの学習の構えが足りないのである。体力も、集中力も、恐らくは意欲も不足している。それを育てるのが教師であろう、という声が聞こえてきそうであるが、この問題には二つの段階がある。現行の社会システムでは第一段階の子どものしつけは親と家庭の責任である。基本的生活習慣を確立して、基本的ルールを遵守させ、大人の指示に従う。そこまでできていれば、子どもは学校という環境の枠に入っただけで「児童」になる。「児童」の季節を6年間続ければ、中学校へ行ってもほぼ自然に「生徒」になる。「児童」は学校へ勉強しに来る。それが分かっているから、鐘がなったら教室に入る。先生が見えたら席につく。教科書をあけるように指示があったらおしゃべりを止めて教科書を開く。しかし、「児童」になっていない「子ども」はこれらの事ができない。現代の子どもは、授業や学校が成立しないまでにしつけが粗悪なのである。今になって思えば、わが子が中学生の頃の学校が荒れに荒れていたのも、小学校で「児童」になっていなかった「子ども」が中学校へ来ても当然「生徒」になろうとはしなかったからである。「生徒」になろうという意識もなく、図体だけが大きくなった少年はすでに当今の教師の手には負えない。
◆ 3 ◆ 学校にどこまで要求するか?
入学した段階でもともとの子どもの「しつけ」の質が悪いのである。児童中心主義や子どもの人権主義にかぶれて、しつけの本質を忘れた親や「半人前」の親が多いのである。したがって、学校のちょっとやそっとの努力では、「児童」にならないのである。世間が小学校入学前の「鍛錬学校」の設立を認めて、筆者のような教員が社会の視点に立って、ひたすら『恐怖と秩序と将来展望の6か月トレーニング』を許可されるのであれば、一気に子どもを「児童」にすることができる。しかし、文部科学省も、地方の教育委員会もそれは認めまい。法律もあらゆる体罰を禁止している。ルールに違反し、教師を侮辱する者を正座させることも、立たせる事もできない。指導の天才はともかく、通常人は対象の尻一つ叩けないで「動物」を「人間」にすることはできない。もちろん、子どもが児童になってから後のトレーニングはたしかに学校の責任である。「学力」の低迷はもとより、授業が混乱するのも、学級が崩壊するのも、学校に対する子どもの「構え」と心身の「耐性」が欠如しているからである。学校も教師もこの根本原因に目をつぶっている。恐らくは、子どもの主体性論に発想を呪縛されて、「半人前」の親、「4分の1人前」の子どもの現実から目をそらしているのである。学力の向上を目指すのであれば、「基本的なしつけ」、「心身の鍛錬」から始めなければならないことに気付いていないのである。英国の「校長会」は初めてそのことを公に指摘したのである。現代の子どもの多くは、授業や学校が成立しないまでに悪いのである。鐘がなっても教室に入らなければ、授業は始められない。授業を始めてもおしゃべりが止まらなければ、子どもは聞こうとはしない。学ぶ「構え」ができていなければ、授業は混乱し、学校の規範は崩壊するのである。一切の体罰を禁止した日本の学校には暴れまくる粗野な子どもをコントロールする方法がない。
教師としての職業上「子どもが悪い」と言うことは辛いだろうが、事実は事実である。学習の前提条件を確立しない限り、現代日本の「学校教育」は論じられない。プロの教師達も恐らくは漠然と気付いている。世間も正面から議論すればいずれ分かってくれるであろう。今や、学校は昔の学校ではない。児童・生徒も昔の児童・生徒ではない。恐らく通常のやり方では授業は成り立たないのである。教師は職業柄自分の指導力を棚に上げて、子どもの「質」が悪いとは言えない。しかし、真の原因はそこにある。なぜ、子どもが悪いと言わないのか?なぜ、学習の前提条件の確立に取り組まないのか?文科省の幹部も県教委の幹部も一週間でいいから荒れた中学校の教壇に立つべきである。何が欠けているかを自ら実感しない限り教育の処方箋は書けない。現代の「学力」は「学校教育の前提条件」を問うているのである。「学力」は、再び、体力、耐性、集中力の問題に帰着するのである。体力と耐性を混合した「行動耐性」、「欲求不満耐性」こそが子どもの「学習条件」の鍵であり、「適応」の鍵であり、「学力」の鍵である。したがって、人生の鍵でもある。
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