民主主義の迷信 −リストラン「元気交差点」の破綻− 全員対等の原則
年末のテレビでリストラされた人々がつくったリストラン「元気交差点」が破綻した事情が紹介された。失敗の原因について当事者や飲食業の専門家の分析を紹介していた。破綻の原因は複数指摘された。それらは立地であり、サービス精神であり、飲食業が本当に好きだったか、という経営感覚の問題であった。しかし、その中で触れられなかったものが一つだけあった。それは「全員対等の原則」である。勤務者の時給は一律千円、職務内容に関わらぬ報酬であった。それが組合活動を経験した責任者の誇りのようでもあった。思うに、破綻の真の原因はそこにある。職階性を廃止したフラットな組織がもてはやされ、対等、平等の人間関係が歓迎される時代であるが、リーダーを欠けば、物事が進まないことは歴史に明らかである。辛いことを指示する権限と判断を有しない時、事態に対応は出来ない。リーダーはフォローワーの何倍も苦しむのである。権限と判断の移譲は、「みんな同じだ」という対等・平等の人間関係ではできない。日産自動車再建時の工場閉鎖を考えてみればいい。終身雇用文化の中でリストラが行なわれる事実そのものを考えてみればいい。誰かが決断しなければ組織は変わらない。時代の中で組織も仕組みも制度疲労を起こしている時、変わらない組織はいずれ沈没する。
変革を実行する者はその被害を受ける者から恨みを買い、非難を受ける。人間は総じて変化を好まず、安住を選ぶ。自己の利害得失については論理を無視しがちでもある。まして、組織における他者の評価や批判は受け入れない。みんな対等で、みんな平等で、会議をして総意で決めればうまく行く、と錯覚している。単純な民主主義の幻想であり、迷信である。100人の凡庸な決定が一人の優れた決定に及ばないことはいくらでもある。愚かなメディアが「世論調査」の数字を振り回すが、そんなものはなんの役にも立たない。「世論」が間違っていることは山ほどある。民主主義の建て前の手前、「世論」がアホ!だとは言えないだけのことである。
ドイツ社民党のエリート大学構想
ドイツZDFのニュースは、ドイツ社民党のシュレーダー首相が10校の大学を選んで研究・教育の資金を重点的に投入し、エリート大学を作ると発表した(2004年1月7日、NHK衛星放送)。大学の差別化である。社会変革の突破口は「革新者」が拓くのである。アメリカの心理学者ロジャースは社会変革の広がりを五種類の人々の層のパーセンテージを上げて説明している。社会の変化も、組織の刷新も、「現状の打破を発案する『革新者(Innovator)』(約3%)から始まる。革新者の発想を「早い時期に受け入れる『初期採用者(Early
Adoptor)』(約14%) がそれに続く。両者の成功、定着を待って、初めて『初期多数派(Early
Majority)』(約34%)が、続いて『後期多数派(LateMajority)』(約34%)が動く。最後はみんなが変わっても頑固に変わろうとしない『変革拒否の人々(Laggard)』(約16%)が取り残される。彼の研究が正しいとすれば、「革新者」はごく僅かしかいない。もちろん、変革者は分野によってことなるが、どの分野にせよごく少数であることに変わりはない。彼らこそが変革のリーダーである。
人の世は人が造る以上、どの層も重要であることに間違いはないが、重要度は均等ではない。革新者が存在しない限り、変革は生じない。それが天才であり、発明者であり、発見者であり、政治的革新者である。リーダーがいなければ辛い決定は下せない。リーダーがいなければ閉塞状況は突破できない。教育の窓を通してみる限り、「特区構想」のように小泉純一郎首相はシステムを変革しようとしている。今や「株式会社」が大学を作れるようになった。日本の教育免許状を持たない英語教員も誕生した。抵抗しているのは役所であり、学校であり、日本人である。マスコミのような気楽な連中は「改革の不十分」を指摘するが一度でも自ら改革に関わってみたらいい。自分では出来もしない、やろうともしないことを批判だけする。「日本人の敵は日本人」なのである。
商売も生涯学習も革新者が必要なことは同じである。社会がエリートを養成するということは、彼らに現状を突破する「革新者」になってもらいたいからである。「みんな同じ」のリストラン:「元気交差点」は「革新者」を制度的に否定している。誰も指揮を取れない。だれも困難な決断を下そうとはしない。それが真の敗因である。国民の公平、平等を政治的旗印とするドイツ社民党が敢えて「革新者」を創ろうとしているところにリストラン「元気交差点」にはなかった現実的対応の意義がある。
みんな同じであるはずがない
競争は差別を産むと言う。その通りであろう。しかし、無競争が差別を産まないわけではない。がんばる人も、何もしようとしない人も処遇が同じならば、それもまた形の異なる差別である。結果的に頑張る人を貶めることになる。システムの効率も落ちる。競争原理を排除した組織が競争原理で動いている組織に太刀打ちできないのはそのためである。能力も、個性もみんな同じであるはずはない。問題は競争結果に伴う格差を一定の枠内に留める仕組みである。プロ野球や芸能人のような極端な市場価値の偏りを産まない工夫が大事である。競争主義と言うとすぐにアメリカ型の実力主義を持ち出し、弱肉強食のジャングルのような極論を言う人がいるが、要は、程度の問題である。日本には日本型の競争社会を創ればいいだけの話である。みんな同じであるはずはないのである。 |