誰の味方か? −「女性の味方」と「論理の味方」−
男女共同参画の問題に触れて何回か書いたせいであろう。時々、あなたは「女性の味方」なんですね、と言われる。歓迎の意味でいわれる時もある。皮肉を込めて言われることもある。
私は「女性の味方」ではない、「論理の味方」である、と答えることにしている。もちろん、研究者がいかに中立を守っても、完全な中立はあり得ない。既存の価値からの自由を心がけても、究極的に己の立場を離れることは出来ない。その意味で筆者もK.マンハイムの言う「存在拘束性」から自由ではあり得ず、M.ウエーバーのいう「価値判断排除」を完全に守れるはずもない。それでも第一義的に、研究者は誰の味方でもない。「論理の味方」でありたい。
人間が特定の価値や立場から自由になれないとすれば、実存主義者が主張したように、逆に、自分の生きようとする立場を鮮明にして、その立場に積極的に関わった論理展開をすればいいと考えている。依って立つ価値を明らかにするとして、筆者の「立場」とはなにか?自分が依拠している立場を思想的に何と表現することが適切なのか具体的な表現を知らない。しかし、大切なのは人間の自由と公正と合理性を保証する社会である、と考えている。
それゆえ、我が男女共同参画の小論を追えば、現象的には「女性の味方」に聞こえるであろう。女性は社会において、自由と公正と合理性を保証されていない。多くの「人権主義者」ですらも実際生活において女性の自由と対等を認めてはいない。多くの「人権論」はそれぞれの論者が関心を寄せる特定グループの人権擁護論に陥っていることが多い。それは論者が「誰かの味方」ではあっても、「論理の味方」ではないからである。
論理に照らせば、女性の自由と公正、その二つを保証するシステムの合理性を妨げているのは男性であり、「筋肉文化」である。筆者はこのことを筆者が目標とする社会の「理想型」に照らして論じている。
◆ 「天才」の研究 ◆
「少子化」問題を解決しようとなれば、現在女性が置かれた家事・育児の家庭状況/社会状況を男性と共同参画ができるように変えなければならない。それは男性の意識変革の問題であり、子育て支援や育児休暇など制度の問題である。また、社会が女性の人的能力を有効に活用しようとすれば、女性の社会参画を促進し、意志決定プロセスへの女性の登用を促すことが論理的な帰結である。男性の能力は現行制度の限界まで開発が試みられている。相対的に、未活用・未開発は女性の能力である。ターマンの「天才の研究」が示したとおり、「女性天才」の能力は、同じ「天才」であるにも関わらず、「男性天才」に比べて、社会に発揮される率が著しく小さい。「女性天才」がその才能を発揮できなかった理由はたった一つである。彼女達が現行の社会システムの中で、「時と所」を得なかったからに外ならない。心理学の定義に従う限り、「天才」に男女の違いはない。男性の「天才」がそれぞれに社会的業績を上げているのに、女性の「天才」が自分の能力を発揮できないのは、社会の処遇に問題があることは九分九厘間違いない。人的資源の活用の観点からも、男女共同参画が不可欠であることは自明であろう。
もちろん、「自由」や「公正」の原則に照らせば、女性に対する社会的不公平も明らかであろう。日本の「筋肉文化」は生易しいものではないのである。かくして、「少子化」対策の視点からも、「人的資源」の合理的活用の視点からも、「男女の平等・公平」の視点からも、女性に対する「暴力的犯罪防止」の視点からも、論理的に分析すれば、結果的に女性の肩を持つことになるのである。男達は論理が解らないのではない。小論に対する同感も来ないが、反論も来ない。ただ、ひたすら沈黙が続くのは、ただひたすら「変わりたくない」からであろう。古人は、 ”女子と小人は養い難し”と言った。人類発生以来培われた男のちゃちなプライドも同様に養い難い。過日、小学校の男女混合名簿は思想的に問題があるので廃止を決定する、と宣言した新潟県の校長がいた。その時の紹介記事に筆者の提案を書いた。憶えておられるであろうか?「様々な理由から男女別々の名簿に戻すのもいいでしょう。但し、今回は従来の慣行を捨てて、女子の名簿を男子の名簿より先にすることが出来ますか?」
人間の平等とシステムの公平原則を忘れ、思想の名を借りて、男社会のプライドを守ろうとするのは感情的な「小人」の嫉妬に過ぎない。
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