第33回生涯学習フォーラム報告
「青少年による青少年のためのボランティア」
3月は山口県長門市の西本達夫さんの発表をいただいた。西本さんは長門市俵山公民館を中心的に切り盛りしている。今回のボランティアは高校生である。小学生の宿題を支援したり、駅伝大会のスタッフを務めたり、文化・産業祭のスタッフも担当した。この間、鍵になる活動には僅かながらも「活動資金」が提供されている。どの町もご多聞にもれず、学生・生徒はあたかも社会教育の対象外であるかのような存在であった。西本さんも、それゆえにこそ、高校生は社会教育事業の「穴場」ではないか、と認識した。発想の出発点は彼等の居場所作りであったという。しかし、子どもはやったことのないことはできない。高校生も同じである。「初めはひたすら忍耐」であったという西本さんの総括は、どうにも動きようのない高校生集団を前にして苦りきっている担当者を彷佛とさせる。しかし、集まろうという意志があった分だけ、少しづつ動いてみて、少しづつ分かり、少しづつ変わった、という。幸運にもその中からリーダーが育って来た。結果的に、上記の活動ができるようになったのである。高校生に付いての西本総括は「付かず、離れず、買い被らず、侮らず」である。体験者の言葉である。発表を受けて、討議は活発であった。学校の先生方との連携はどうしたのか?高校生に渡したお金は「謝金」ではなくて、「活動支援経費」ではないのか?やったことのない者、教わったことのない者には、自発的活動であるべき「ボランティア」も教えなければならないのでは?等々のコメントがでた。
苦労の原因
西本さんの苦労を裏返せば、学校は今のところボランティアにはほとんど興味を示していない、ということである。したがって、高校生は何も知らない。ボランティアの概念も、その方法も学んだ事はない。もちろん、地域にもボランティアの舞台は乏しい。子どもも社会の役に立つべきであるという発想はほとんどの学校にはない。地域社会においても、すでに化石化している。中教審が論じているのは、そこのところであろう。かつて、筆者は「偽善のすすめ」という青少年ボランティア論を書いたことがある。成人のボランティア活動と青少年のそれとは決定的に異なる。成人には教えてはならない。しかし、青少年には教えなければならない。自発的活動であろうと、主体的活動であろうと、初めはその「自発性」、「主体性」を教えなければならない。子どもの主体性に任せるなどというセリフの多くは教育努力の放棄に等しいのである。「モデル」や「型」を軽視すれば、子どもは歴史的に蓄積された物事の基本を学ぶことはできない。青少年の生涯学習には「偽善の勧め」の自覚が不足している。苦労の原因はそこにある。以下は論点の要旨である。
「偽善のすすめ」
1 青少年はいまだ社会化の過程にある。したがって、本人の自発性も、主体的判断もその発現を期待するのは時期尚早である。
2 青少年のボランティア活動の大部分は、社会の判断であり、青少年自身の判断によるものではない。
3 どの社会でも、青少年教育の大部分は、当該社会の歴史と経験を踏まえた一定の価値(回答)を示すことである。ボランティアについても同様である。ボランティアを必要とする価値やモデルが先在している。
4 神仏の言葉として、あるいは全体社会を維持・発展させるための倫理として、「助け合い」は人間にとって美しく、且つ、不可欠であるという考え方が自明のものとして先在的に提示されているのである。
5 青少年はこれら歴史的に先在している価値の前提を必ずしも理解していない。それゆえ、「型」や「モデル」を提示するのである。青少年の多くは、内発的ではなくても、「ほめてもらいたい」、「認めてもらいたい」一心で一定の役割を演ずる。
6 青少年は、行為の内容の意味はわからなくても、社会的に評価を受け、励ましを得ることによって、自分に与えられた役割を演ずるのである。
7 彼らはその発達途上において、親しい大人や社会から寄せられた役割期待に応え、「親切」の「型」を演じ、「いたわり」の「モデル」を実践するのである。
8 役割演技に「ブリッ子」の匂い、「偽善」の雰囲気が漂うのは、彼等の言動が真底彼等の内面から出たものではないからである。発展途上人にとっては当然の事である。
9 彼らの行為における「偽善」の匂いこそが、青少年の発達プロセスにおける役割取得の重要なカギを握っている。「愚か者」の真似も3年すれば、真の「愚か者」に近付く。「親切」も「いたわり」も同様である。役割を演じきれば、数年を経ずして、本物の親切といたわりに育っていくのである。
10 学習にも、教育にも、青少年のボランティアは、不可避的にこの「偽善のすすめ」の過程を含まざるを得ない。社会的評価と応援が不可欠になる所以である。
生涯学習立国論
定例的に発表して来たフォーラム「参加論文」は今回休みとした。代わりに、舌足らずになったが、執筆を続けている「生涯学習立国論」構想(三浦清一郎)を発表した。
学習は国民のレベルを決定する。なかんずく、生涯にわたった学習は、あらゆる世代の「生きる力」と時代への適応力を規定する。 経済における構造改革も、政治におけるリーダーシップの確立も、司法の改革もすべて日本社会の根幹に関わる重要事項である事に異論はない。しかし、経済も、政治も、司法も、改革の成否は、詰まるところ、国民の理解と自覚の如何に掛っている。国民が理解しないあらゆる改革は一歩も前に進む事なく、国民が自覚しない改革は確実に挫折せざるを得ない。生涯に亘って変化が連続する時代には、生涯に亘る継続的な学習が最も重要になることは論理的な必然なのである。それゆえ、今や、生涯学習の成否が国家社会の根幹を決定するようになったのである。各論はこれまで発表したフォーラム論文である。環境問題から男女共同参画まで生涯学習の範囲は人間生活の全面にわたって広大である。読者に報告出来る日を楽しみに励みたい。 |