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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第39号)

発行日:平成15年3月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 校長と子雀、「基準論」再考−感想の断片

2. 少年問題の根本−熟年の共感、司会者は「レフリー」

3. ダイレクト・メソッドの常識−英語の授業は英語で!!、

4. 第22回大会総括   「継続」と「力」−「革新」と「伝統」

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

校長と子雀

   先日は福岡県南筑後教育事務所の長岡経国さんの御縁で生涯学習課と学校教育課の合同研修に臨んだ。縦割りの仕組みの中で”合同”そのものが珍しい。それゆえ、喜んで出かけた。言いたいことも山ほどあった。現行の総合的学習も、体験プログラムの重視も、”ゆとりと充実”の学校週5日制も信用できない。「土曜留守家庭」への配慮もない。文部科学省を始め、教育行政は「体得」の概念を「学習」概念から識別していない。「学力低下」の危機を分析しているとも思えない。「学社融合」と掛け声だけは大きいが、異質の要素が「融合」して、新しいシステムを生み出さない「融合」などあるわけはない。「学童保育」は教育の視野には入ってもいない。

   だから自分としては、張り切って、気持ちの上で”うでまくり”をしてでかけた。結果は”独り相撲”だったかなと心配している。しかし、ひとつの収穫はあった。城島町浮島小学校の古川校長が総合的学習の事例報告を行なった中に子雀のピヨちゃんが登場したのである。巣から落ちたのであろう。傷ついて跳ぶことも出来ない子雀を拾った男の子が校長室へ持って来たのである。古川先生の奮闘が始まる。今ではテレビにまで紹介され、肩にとまる雀は浮島小のスターとなった。ピヨちゃんを語る古川先生の風景の微笑ましさは格別のものであった。「子ども達はやさしくなった」、と目を細められる。しかし、「その程度のことで子どもはやさしくなんかはならない」、と基調提案の中で私は言った。校長先生は御不満に見えた。説明不足を反省したが、気持ちを伝える機会を逸した。以下はその理由である。

子雀のピヨちゃん

かわいいと思わないよりは、かわいいと思った方がいいに決まっている

可哀想と思わないよりは可哀想と思った方がいいに決まっている

多少の世話も焼かないよりは、多少の世話でも焼いた方がいいに決まっている

子ども時代はやさしさに触れて育てたい

 

傷ついた子雀が校長室へ来て以来

昼休みのたびに子ども達が会いに来る

子雀ピヨちゃんは学校の人気者になった

校長室は煙たかろうにと思うけれど

ピヨちゃんの魅力にはかなわない

頭や肩にとまるピヨちゃんに癒される

学校がつまらなかった美咲ちゃんもピヨちゃんのお陰で憂鬱が吹っ飛んだ

子ども達はやさしさを学んだと校長先生はおっしゃる

 

かわいいと思わないよりは、かわいいと思った方がいいに決まっている

可哀想と思わないよりは可哀想と思った方がいいに決まっている

多少の世話も焼かないよりは、多少の世話でも焼いた方がいいに決まっている

生き物の多くは人を癒す力を内蔵している

 

しかし

子雀の可憐さに触れたからといって子どもがやさしくなるわけではない

ピヨちゃんに会うだけでやさしさを身につけられるのならこんないいことはないが

教育はそれほど単純ではあるまい

これまでに増してやさしくなったのは校長先生である

毎日餌をやり、水を飲ませ、糞尿の世話もする

小さきものを慈しむには根気がいる

登校も、下校も

鳥かごを下げての往復である

傷ついた生き物からは目が離せない

やさしさにはエネルギーが必要であり、忍耐が必要である

かわいいと思うだけではエネルギーは身につかない

可哀想と思うだけでは忍耐も学ばない

かわいいだけのペットを捨てるのはそのためである

雨の日も、風の日も世話をし続けた子だけが実践的なやさしさを学ぶ

 

この国の思いやり教育はまだまだだ

 

「基準論」再考−感想の断片

   矛盾に満ちた概念であるが「学社融合」論のお陰であろう。社会教育を専門とする筆者と学校とのかかわりが一段と増えて来た。鳥取、長崎、熊本、福岡の各地で先生方にお目にかかった。以下はその時の感想の断片である。

1   選択の宿命

   ”一つの教育方針はその他の指導可能性を排除する”

   ある時の議論の中で、学校の方針を限定することに反対する意見が出た。理由は、教育方針に縛られてその他の指導可能性を排除することになるからだ、という。呆れてその教員の顔を見た。教育方針に限ったことではない。あらゆる「選択」は「限定」と「排除」を意味する。人生の時間とエネルギーと能力が限られている以上、ひとつの事に関わる事は、他のことに関わる事を放棄することである。特定の時刻に、特定の場所にいる事を選択すれば、同じ時刻に、他の場所にいる事は不可能である。まったく同様に、ひとつの事を仕上げようとすれば、他のことは諦めなければならない。限定された条件で全部を望む事は不可能である。事は個人の日々の活動から、学校のカリキュラムに至るまで原理が変わるはずはない。初めから「取捨選択」という。選択するとは、選んだもの以外は「捨てること」である。然るに、人は時に、可能性を捨てることが危険だから選択をためらうことがある。しかし、教育方針を決めないで、指導ができようか?あれもこれも可能性のままに残しておきたいということは、あれも、これも、何も、やらないという事である。これ迄の学校の職員室は恐らくそんなことを議論して来たのであろう。

 2   基準の分裂と多様性

   鳥取県大山町のシンポジュームで愛媛の宇和町からお出でになった佐藤正治さんにお目にかかった。宇和町には「愛護班」という子どもの育成組織が残っている。佐藤さんはその「愛護班」長である。教育はご専門ではない。農業人である。「愛護班」は、九州女子短大の古市先生によると子ども会が制度化される以前の子ども育成組織のひとつであったという。佐藤さんの組織は主として保育所年齢の子ども達に遊びを教える。月に一度くらいは近所の800メートルもある山に登るという。「年少組さん」もである。筆者も、大山中学校の山根校長も子ども達の遊びの闊達さと基礎体力に目を見張った。教育委員会の入江さんもよほど感動したからこそ佐藤さんをお招きしたのであろう。適切な基準、適切な方法、優れた指導者がいれば、ここまでの事ができるのである。子どもの可能性を見くびってはならない。教育の基準は極めて弾力的である。それゆえ、時に極めて曖昧である。一方には、朝の朝礼で立っている事もできない大勢の小学生がいる。他方には、佐藤さんの愛護班の保育園児のような子どももいる。このことを福岡の仲間に話したら、福岡県嘉穂町にも同じような実践をしている保育所があって、保護者の希望が殺到していると聞いた。現代の過保護に傾いた保護者も、鍛え上げられた教育の結果を見たとき感じるところがあるのであろう。問題は「生きる力」の「基準」をどこにおくか、という事に関わっている。目標基準の問題は、方法論や、教育の中身が共通の場合でも、具体的な活動に大きな相違をもたらす事になる。見聞した多くの学校の実践は、内容、方法共に納得出来るが、いかんせん達成の「基準」が甘いのである。それが総合的学習の「危険」に繋がっている。

  学校では、色々な方法や内容を語るが、時に、それぞれの方法・内容が目指している目標値の「基準」の議論を飛ばしている。資料には、延々とプロセスと手続きだけが詳しい。子どもはどう変わったのか?そこがポイントではないのか?分厚い研究発表資料は不要である。一見、計画的、論理的で立派な実践に見えても、基準が甘いから成果は大したことにはならない。体験学習や総合的学習が議論の割に成果を産めないのは、指導基準が甘く、達成目標の基準が甘いからである。

基準の乖離

   ある学校でキャンプ計画の反省が行なわれた時の事である。女性の教員がキャンプの「衛生」基準に異義があるということになった。調理の時に、となりの炊飯の煙りが立って、不衛生である、というのである。思わず絶句した。このことも帰って福岡の仲間に話したら、”その手の教員が日本の子どもを駄目にしたのである”。”ケツを蹴飛ばしてやるしかない(失礼!)”という感想が出た。教員同士は対等である。誰が「ケツを蹴飛ばすのか?」簡単ではあるまい。仲間の乱暴なコメントは当該の学校には伝えようがない。ここまで来ると教員間の基準の乖離は解決出来そうもない。

   何が許容される範囲の基準で、何が許容されないのか?議論を煮詰めていないとキャンプに行く意味がない。子ども会などもこの種の議論が紛糾して、実践の現場で立ち往生するのであろう。鹿児島市の松原小学校のように、他方には、遠泳で錦江湾を横断する小学生もいる。教育の基準を明確にし、教育結果の責任を明確にするためには校長に権限を集中するしかない。リーダーのいない学校には基準はない。キャンプに現代の家庭の日常基準を持ち込めばキャンプは出来ない。あの女教師はその事すらも分かってはいない。口振りから察するに、恐らくは校長の指導にも従うまい。学校は行き詰まり、過保護は極まっている。せっかく呼んでいただいても、聞く耳持たぬ人々に「基準論」から始めなければならない。教育方法の提案以前の問題である。学校の病いは重い。

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