「聞き取り調査」の声
この1年、御縁があって、福岡県T町の「男女共同参画まちづくり懇話会」にかかわった。3月には、1年の審議・研修の結果をまとめて、いよいよ町長への「提言書」の提出の時期である。提言の中心は「伝統・しきたり・慣習」の再点検である。委員の皆さんが身近な女性から聞き取り調査をした結果を整理すれば以下の通りである。まとめは「男女共同参画社会基本法」の指摘を下敷きにして類似の項目を分類したものである。
1 大部分の女性の感想は「憲法や法律はあっても自分達のまわりにはまだ男女不平等がいっぱいある」というものであった。(男女共同参画社会基本法前文)
・ 実際には、「同一労働、同一賃金」、「同質労働、同一賃金」にはなっていない
・ 事実上の「結婚退社」の慣行も残っている
・ なぜ「女性の休暇」だけが「あてにならない」という評価になるのか
・ 女性の社会進出は「女が男に合わせているだけ」(女性の特性が活かされているわけではない)
・ 女性の社会参加の条件整備は出来ていない。
・ リストラの第一対象は常に女性のパートである
・ 女はいつも下準備の陰の仕事、「いいとこ取り」はいつも男である
2 法律上の建て前は、男女の権利も責任も同じとされているが現実は様々な慣習を含め女性に対する差別が残っています。中身は、「男女が、対等に能力を発揮しあえるためには制度や慣行についての配慮が必要である。」(基本法第3条及び第4条)という指摘と重なっています。
・ 女は意見を言うことすら「生意気」だという
・ 「女が何をいうか!」の実態はある
・ 保護者の女性教員に対する考え方の中に明らかに「女はダメだ」という感覚がある
・ 女性として「悔しいこと」、「歯がゆいこと」は多すぎて言い尽くせない
・ 仕事の上でさえ、「接待、生け花」は女の担当。仕事のミスは”女だから”と決め付ける
・ 少しでも「目立て」ば「女のくせに」と非難を受ける
・ 「女のくせに」は女性の発言封じである
・ 「女の発言」は「出しゃばり」
・ 商工会長に女はいない
3 現状では、「家庭・家族のことを女性ばかりが背負っている。」(基本法第6条)という指摘と共通の問題が多く出されました。
・ 家事・育児を女の仕事と決め付ける固定観念は強い。
・ 一人で家事・子育てをするのは当たり前
・ 家事育児を女性だけの担当にするのは押し付けである
・ 家族の協力によって「家庭のことをしなくていい時」があるのは、特別の女だけの特権か?
・ なぜ「女の家事は当たり前」で「男の家事はがんばっている」ことになるのか?
・ 子どもの病気は女、入学式、卒業式も女、気兼ねをしながら休暇をとらねばならないのはなぜいつも女なのか?
4 いままで”しきたり”だからという理由で気にしていなかったところにも男女不平等が隠されている。(基本法18条)地域の慣習としきたりこそ問題の根源であることが指摘されました。
・ 女が入ってはいけない村の行事がある。これでは村に馴染めない
・ 共同作業の分担にも女はこれをやってほしいという、性役割上の固定した考えがある
・ 万事、女性だけが気を使い、気を配る事は当たり前、という受取り方が男性の側にある
・ ”一番風呂はけしからん”というのもしきたりか?
・ 納税組合長も、区の役員も基本的に男ばかり
・ 女も対等に地域の作業を分担しようとしているのにそれを認めようとしない
・ 地域の会議は男性の支配
・ 一緒に働いて来たのに、祭りも、祈願もなぜ男だけ?
・ 「男所帯」はふつうなのに「女所帯」はなぜ特別視するの?
・ 共稼ぎの女は働いているが、主婦の女は働いていないのか?
・ 「女のくせに」、「おんなだてら」、「熟女」、「老女」など女性にのみ特別の表現があるのではないか?
・ 女の行動範囲は狭められている。セクハラ行為も存在する。男は軽い気持かも知れないが、軽くは受け取れない。
・ むかしからの風習こそが女を制約している
・ 「悔しい」のは女性蔑視の言葉
・ 「女性だから」という観念で自ら引いてしまうことが問題である
・ 「女の祭り総代」は実現しなかった
(以下省略)
「正統」と「正当」は異なる
上記のしきたりや伝統は「正統」なものとして歴史的に受け継がれて来た。それは「筋肉文化」の下で男支配の社会が長く続いて来たからである。自分では不本意なことでも、地域の「義理」を果たすという名目で従って来たことも多いのであろう。しかし、事、女性の社会参画を考える時、これらは障壁以外の何ものでもない。歴史の時間をかけて受け継いで来たからといって、それが「正当」である保証はない。土俵に女性を入れない大相撲はいずれ確実に衰退する。アンケートをとって考えるなどといっている場合ではない。女子は半天を支え、大相撲も半分は女性が支えているのである。医学部の教授も、看護大学の教授も、入試センターの教授も、日野原医師も、伝統やしきたりの意味をもう少し総合的に考えてみてはどうか?伝統やしきたりを守って、従来の義理に従うことが「堅実である」などと寝ぼけた診断をばらまくのは健康診断に名を借りた教育の”公害”である。繰り返し言って来たことだが、農村文化がこのような伝統を守っている限り、農業後継者に嫁は来ない。若い女性が「2流の市民」に甘んじる筈がないのである。したがって、日本の農業に未来はなく、農業による環境の保全も、食糧の安全保障も覚束ない。間違った伝統はためらわずに廃棄すべきである。理不尽な義理に従う必要はない。我が身を振り返って見れば明らかであるが、この二つの態度を守ってこなかったら今日の自分はない。
質問者の独白 −国家目的に従属した教育への反動−
初めて福岡県犀川町を訪問した。京都郡の小学校の先生方の研究会で基調提案を行なった。少年の危機が深刻だからであろう。講演は、総じて好意的に受入れられた感を抱いた。提案を終えて会場の感想や質問をお聞きした。その時、衝撃的に理解したことがある。わたしが、注目した男性教員の質問者は質問と言うよりは感想の独白であった。”初めて自分が考えて来たことと同じ論理の組み立てを聞いた”、と言う主旨であった。しかし、彼はその論理の故に、常に学校の中では孤立を余儀なくされ、その提案はあたかも民主主義に反し、社会の進歩に抗う反動的なものであると批判を受け続けたと言うのである。
彼の独白はありがたかった。なぜ、彼が反発を受け続けたか、なぜ自分の論理が学校に通らないのか、が分ったような気がしたからである。鍵は「学校を政治目的に利用した歴史」にある。
私の持論は、「子宝の風土」の学校教育は、「社会の視点」に立って、「自立」を応援すべきである、というものである。なぜなら、子どもの視点に立った「保護」は、子宝の風土が十分以上に徹底して行なっているからである。少年の危機は保護の過剰が招いたものである。
問題は「社会の視点」に立つという主張が、「国家」や「特定政治目的」のために子どもを教育すべきである、と受取られることにある。「社会の視点」に立つことは「国家の視点」に立つこととは明らかに異なる、しかし、明らかに類似もしている。苦い前例もある。確かに、日本の近代学校教育史は、富国強兵の政策に従属し、軍事教練をカリキュラムに入れた時代もある。体罰が常軌を逸した時代もある。教育を時の権力が掲げた国家目的に従属させたのである。戦後教育はその反省を原点にしている。「社会の視点」と「国家の視点」を具体的、明確に峻別する論理を発明しない限り、私の少年の危機論は人々の中に届かない。ありがたい独白であった。 |