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生涯学習通信

「風の便り」(第109号)

発行日:平成21年1月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 新刊あとがき 男女共同参画ノート「変わってしまった女」と「変わりたくない男」 

2. 「自己決定権」の時代-「地域・機能集団」の待たれる時代

3. 「自己決定権」の時代-「地域・機能集団」の待たれる時代(続き)

4. 健やかに生きる―「負荷の原理と方法」

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

健やかに生きる―「負荷の原理と方法」

第88回生涯学習フォーラムin岡山は岡山の実行委員会のみなさまのお力添えを得て無事終了しました。
シンポジュームのメインテーマは岡山の「シニアスクール」と飯塚市の「熟年者マナビ塾」の実践・思想交流でした。筆者は以下の論理を中心としたフォーラム論文を提出しました。シニアスクールも熟年者マナビ塾も健やかに生きる実践方法の一つです。熟年者が活躍する社会のステージが決定的に不足していることこそ社会教育の失政です。
 健やかに生きるためには詰まる所、ほどほどの教育的「負荷」をかけることだということが処方の原理と方法であることを再確認しました。


1 基礎体力の維持

 「生きる力」の構成要因は老若男女同じです。それゆえ、子どもの鍛え方と年寄りの「活力維持」の方法も原理的に異なる筈はないのです。しかし、実際は子どもと年寄りに対する社会の発想、教育界の対処法は大いに異なっています。そこに高齢者教育の最大の問題点があります。
 人間は霊長類ヒト科の動物ですから、鳥や獣など他の動物と同じように、日々の活動を支えているのは「体力」です。「体力」を失えば、鳥は落ち、獣は森の奥深く死にに帰ります。「生きる力」の基礎・基本は「体力」であると断定して間違いないでしょう。それゆえ、少年は自らを鍛えて体力を向上させなければなりません。もちろん、高齢者も過去に鍛えた「体力」を維持できるように己を鍛え続けなければ、なりません。「好きなように、マイペースで、のんびりとお暮らし下さい」というメッセージは極めて危険なのです。自己鍛錬を怠れば、高齢者は加齢とともに一気に老衰して心身の「生きる力」を失うことになることでしょう。
 楽なこと、楽しいこと、ストレスの少ないことだけをして安楽に暮らす「ライフスタイル」こそが、高齢者の活力を失わせているのです。日本社会に蔓延した「安楽余生」論と筆者の「負荷の原理」論が衝突するのはそのためです。

2 基本耐性の維持

 人間と動物は、人間が社会をつくった時に、進化の方向が分かれました。群れの中に留まった動物は、本能の命じるままに、適者生存、優勝劣敗、弱肉強食の原理の中で暮らしています。
 これに対して人間は、ルールに従って生きることを選択しました。やりたいこともやってはならない場合があり、やりたくないことでもやらなければならない場合もあります。禁止の場合も、義務履行の場合も、「我慢」が出来なければ、いずれも実行不可能です。
 現在知る限りにおいて、宗像の実践も、飯塚のプログラムも、豊津の指導も高齢者自身の社会的活動が高齢者の活力を支えています。
この場合、「社会的活動」は「負荷」の別名であり、「社交」の別名であり、「社会的承認」の別名です。なぜなら、人々は社会的人間関係の枠の中で身体も、頭も、気も使っているのです。この枠を通して初めて、それぞれの活動が交流となり、他者への貢献となることも明らかです。
 言い換えれば、われわれがみんなの中でうまく生活が出来るためには、心身の機能を総動員して、相当にがんばらなければならないのです。とりわけ、人の世は自分が思うようにはなりません。己を押さえる所から始って、相手の機嫌を取らなければならないことも、時間や機会を待つことも、方法を変えてやり直すことも、一度目の失敗を反省して再挑戦することも、あらゆることに「耐性」が不可欠です。鳥獣たちは本能の命じるままに争うのですが、人間は欲求とルールを調整して生きるのです。調整とは「欲求不満耐性」の別名であり、挑戦や実行は「行動耐性」の別名です。
 生老病死は不可避であり、世の常ですが、誰でも人生の高齢期は健やかに生きたいものです。しかし、現在、時代を覆っている安楽志向の余生論では「健やかな」老後は到底無理です。
 文明の豊かさは、気楽にかつ好きなように老後を過ごすことを可能にしました。それは頭も、身体も、気も、使わないで生きるということにつながります。心身は「使わないこと」のゆえに、衰えるのです。心身が衰えてから体操をしたり、認知症が出てから「能トレ」をしても、遅いのです。この単純な生理学上の原理と教育方法上の原理を、国も、個人もお分かりになっていないのです。「健やかさ」もまた努力して獲得するものです。「生活習慣病」という名称は、健康は「獲得」するものであるということを明確に示しています。
 高齢者が精進を忘れず、「前向きに」、「学び続けて」、「人々のお役に立とうとして」、己の老いと「戦った」時、初めて生き甲斐のある老後も、健やかな余生も可能になります。労働から引退しても、社会から引退しないこと、労働を止めても、活動を止めないこと、職業的な社会貢献が終っても、ボランティアの社会貢献を続けることが「健やかな余生」の条件です。

3  熟年期もまた「連続」している

  若い研究者の間違いは老年期を特別扱いにすることです。すなわち、熟年期を青年期や壮年期と「非連続」であるかのように想定することです。熟年が心身の衰えに直面することは当然ですが、その過程は若い時代と色々な点で連続しています。若い時代に「頑張れ」といって、年をとったら「頑張らなくていい」ということにはならないのです。未だ年をとったことのない研究者から見れば、年々急速に衰えて行く熟年はまるで別の存在のように見えるかも知れませんが、人間の生きる力の保持・存続において老いも若きも異なるはずはないのです。
しかし、現状の助言の多くは、あきらかに「若い世代」と「高齢者」を「非連続」の存在として、熟年を特別扱いにし、「安楽」な余生を送ることを指針としています。心身の機能を使わずに安楽な暮らしを続ければ、機能そのものが衰退するのは人間の必然です。若い時にだけトレーニングが必要で年をとったら、ひたすら無理をしないというのでは年寄りがダメになることは当然でしょう。現役の研究者は、人生の期間が急速に変わったことから発生する生き方の変化や壮健な自分を基準にして引退者を特別扱いしていることに気付いていないのです。

4  「安楽余生」論の「落し穴」

  「元気老人」に対する生涯学習の「対処法」を最も簡潔に表現すれば『読み、書き、体操、ボランティア』になります。換言すれば、読み書きに代表される頭を使い続け、身体の手入れと鍛練を怠らず、社会に対する貢献と人々との交流を通して、気を使い続けることが重要だということです。労働の季節においては特に意識しなくても、心身の機能はフルに回転し、活用し続けて来ました。もちろん、労働は「社会の必要に応えた活動」であったことは言うまでもありません。多くの人の活動量は「定年」を境に一気に落ち込みます。賃金や給与に伴う社会的義務が消滅するからです。他律による強制がなくなれば、その後の活動量は個人の判断;自らの「自律」の結果に左右されるようになるでしょう。その時、「自律」の方向に最も重大な影響を与えるものこそ本人の生涯学習・スポーツの蓄積の歴史になるでしょう。人生の連続性を考えれば、壮年期は通常若年期の蓄積の結果を反映し、熟年期は同じく壮年期の蓄積を反映するはずです。定年前に定年準備教育を始めることの重要性がここにあります。
  それゆえ、引退後の最大の問題は、「安楽余生」論の副作用です。これまでの生涯学習や福祉政策は定年者に総じて「安楽」を勧めました。熟年に対する助言の多くが「無理をするな」であり、「目標にこだわるな」であり、「できる範囲で」いいんだということでした。暮らし方についても、「いい加減」でいいんだと言い、「目先のこと」にこだわるなと言い、「過去にもこだわるな」といいます。要は、楽しく、のんびり暮らせと言うことです。「安楽余生」論と名づけた所以です。
  しかし、「安楽」の勧めは「がんばらなくてもいいんだ」ということであり、「努力をしなくてもいいんだ」ということに繋がります。それゆえ、定年後に「楽」を続ければ、活動量が減少し、心身の「負荷」が減少するのは当然です。
  結果的に、心身の機能の活用は労働時代の3分の1にも4分の1にも減ってしまうことでしょう。「楽をして暮らすこと」は熟年期の最大の「落し穴」なのです。必要とされない機能は退化し、やがて消滅するでしょう。使わなければ衰えるのは筋肉に限ったことではありません。感覚体としての人間のあらゆる機能に共通しています。しかも、心身の機能は連続しています。頭も身体も心も感覚体の仕組みの中で相互に影響しあっているのです。熟年期の健康を維持するのに「健康体操」だけをやっていても部分的な効果しか上がらないのはそのためです。人間の心身のあらゆる機能が全部繋がっていると考えなければなりません。
 


   

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