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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第109号)

発行日:平成21年1月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 新刊あとがき 男女共同参画ノート「変わってしまった女」と「変わりたくない男」 

2. 「自己決定権」の時代-「地域・機能集団」の待たれる時代

3. 「自己決定権」の時代-「地域・機能集団」の待たれる時代(続き)

4. 健やかに生きる―「負荷の原理と方法」

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

「自己決定権」の時代-「地域・機能集団」の待たれる時代

1 個別化現象

 ボランティア(義勇軍)の時代、「自己決定権」の時代が来ました。すべては個人の意志と責任に委ねられる時代が来ました。
 機能集団が地域集団に取って代わり、人々は目的別、機能別にそれぞれが選択する組織に所属することを好むようになりました。機能集団の登場は、技術革新に端を発する「変化の時代」がもたらした結果だったと思います。人々は分野毎の変化に、それぞれの分野の機能集団に所属する事によって対応しようとしたのです。適応の手段こそが「生涯学習」でした。
 事実数々の変化・変動が次々とが押し寄せ、私たちはそれぞれに、時代への「対応」・「適応」を始めました。この時、対処すべき適応課題の意味や重要性が、一人一人異なっているところが一番厄介でした。情報化適応で遅れている人もいれば、国際化対応で遅れている人もいました。男女共同参画が全く理解出来ない人もいれば、高齢化への対処準備に手の付いていない人もいました。技術革新はあらゆる分野で起こり,職業によって時差や落差が発生しました。かくして、適応の課題が生活の全領域に及び、変化のスピードが加速したとき、生涯学習の必要はますます「個別化」したのです。
 生涯学習は、変化への適応を社会的主題として登場したシステムだったからです。生涯学習が浸透すればするほど、地域集団は機能集団化し、その機能集団も徐々に分化・解体されて、限りなく個人の単位に近い小集団に還元されて行きました。学習が個別化していったのです。学校教育はこの頃から「個性の尊重」を唱え、「個の創造性」を重視し、「ひとりひとりの○○」がスローガン化しました。「みんな違ってみんないい」という金子みすゞの詩の一行がもてはやされたのもこの頃です

2 共同体と地域集団の衰亡

 機能集団の細分化の一方で、青年団が滅び、隣組的近隣関係が滅び、地域婦人会が弱体化し、子ども会も衰退し、回覧板さえ廻さなくていいという人々が増えました。地縁の人間関係が退潮し、目的や感性を共有する「志縁」の人間関係が拡大しました。「地縁」か「志縁」か、どちらも明確に選ぶことのできない人は明らかに孤立化の方向を辿りました。「地縁」は従来通りの束縛と他律に満ち、「志縁」は自助努力と自己責任が要求されました。今でも多くの人々が、地縁と志縁の間で右往左往しているのが現状でしょう。この間、「地域の教育力」は底をつきました。子どもは地域で育たない現実が明らかになりました。子育て支援は地域の機能集団に委ねるしか方法がなくなったのです。
 理由は「個人の時代」・「自己決定権」の時代が来た、ということです。生涯学習の時代は、「個人性」;個人の主体性、個人の選択、個人による価値付け、個人の責任による活動などが最も重要で、特徴的であることを主張して来ました。この時、「生涯教育」が「生涯学習」と呼び変えられました。アクセントは社会の教育機能から個人の学習機能に移し替えられたのです。「学ぶこと」は社会の責任から個人の責任に「転移」したのです。時代は共同体や集団の福祉より、個人の福祉、個人の権利、個人の特性に注目したのです。
 生涯教育は社会の未来を決定する重要な機能を持つにもかかわらず、時代は「個人性」を重視した生涯学習を選択しました。先導者はアメリカでした。アメリカを動かしたのは、生涯にわたって国家あるいは政府権力が個人の教育を支配するのはごめんだという危機意識だったと思います。1976年、米国の生涯学習振興法が制定された時、Lifelong Educationを Lifelong Learningに言い換えたのがその発端でした。

3 自己決定権の時代

 生涯学習に限ったことではありませんが、地域よりも、社会よりも、組織よりも、時には家族よりも「個人」が優先される時代が来たということです。「世界に一つしかない花」の時代です。変化の核心は、個人が手にした「自己決定権」です。世地山氏が論じているように,この自己決定権を論理的に突き詰めて行けば、その賛否は別として,売春さえも「性的自己決定権」の名の下に本人の主体性に委ねざるを得ないという結論になるのです(*1)。中学の女生徒が「援助交際」は主体の自由であると主張した時、指導教員が立ちすくんでしまうのも、教育の論理だけで人間の「主体性」には立ち向かえないからでしょう。
 人間主体の解放は歴史に照らして人類の進化の証なのでしょうが、主体の解放には主体の自立と独立が条件です。人間の自立と独立が実質的に保障されていないとき、個人の時代は孤立の危険と孤独の危機に満ちた厳しい時代です。この世に溢れた「個人」がすべて自立と独立を果たしているとは到底考えられないからです。
 「個」を主張する以上、主張の対価は「自己責任」です。自己決定権を振り回して、「援助交際」の個人的権利と正義を主張する中学生は、自分に降り掛かる危難も結果責任も引き受けなければなりません。ところが、不幸なことに、未熟な彼女には自己責任を引き受ける意志も、危難を切り抜ける能力もないことは明らかです。死のうが、生きようが、やくざの紐にされようがその子の勝手であると切り離すことが出来るのであれば、教師の指導も簡単ですが、それでは人間が獣と別れて社会をつくった意味がありません。結果的に、無責任で無軌道な中学生の「つけ」は社会が支払わなければならないのです。中学校の指導教員が介入しなければならないのはそのためです。この種の人間たちをほっておいてもいいのなら、この世はどんなにせいせいする事でしょう。


 


 

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