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風の便り

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「風の便り」(第106号)

発行日:平成20年10月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「感化論」再考

2. 「感化論」再考(続き)

3. 男社会が目をつぶって来た「傷害罪」

4. 男社会が目をつぶって来た「傷害罪」(続き)

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

「感化論」再考

子ども集団の不思議な力と価値の浸透

 自分が教えられた戦後教育学を吟味し、具体的な少年教育の現場で実践の成果を検証する中で、「児童中心主義」の理論と方法を一つ一つ自己否定して来ました。
 実践は個別領域のばらばらな原理や手法の有効性を徐々に気づかせてくれました。ようやく筆者の中で小学校に提案する改革の思想が繋がり、ひとつの体系を為しつつあります。
 初めは「他律の中で自律を育てる」ことを提唱しました。次は、他律において為すべきことは、適切な「負荷」をかけることであり、「できないこと」を「できるようにすること」です。その成果は、定期的に発表し、子どもの努力や忍耐を教育的に評価し、社会的に賞賛することでした。
 「他律」と「負荷」の原理を連動して教育に活用することは、子どもに「無理」を言うことになります。したがって、子どもの指導者に対する尊敬と信頼を育て、指導者の社会的地位を意図的に上位におき、同時に、子どもと指導者の心理的距離を創造する礼儀、作法、言葉使い等の厳しいしつけが不可欠であることを指摘しました。当然、子どもを「対等・一人前」と認める「子ども観」から、子どもは「宝」ではあるが「半人前」であるという「子ども観」への転換が必要であることを主張しました。今回は、集団の持つ「感化力」に着目しました。集団の秩序と行動原則を確立すれば、構成員の児童・生徒は集団の風土や集団の圧力に同調し、集団の掲げる価値や感性の感化を受ける筈であるという指摘です。

1 「朱に交われば赤くなる」
 「感化」とは「影響を与えて心を変えさせること」であり、「他の影響を受けて心が変わること」であると辞書にあります(広辞苑)。
 個人の生き方が他の個人に影響を与えた事例もたくさんありますが、「感化」の圧倒的な力は環境と集団に内在しています。心理学的には「集団圧力(Group Pressure)」に代表され、社会学的には「社会的風土(Social Climate)」や「社会的雰囲気(Social Atmosphere)」の影響力に代表されます。子どもの場合には、仲間集団の圧力(Peer Pressure)とか集団の雰囲気(Group Atmosphere)と言います。集団をきちんと育てることが出来れば、集団がその構成員を教育(感化)して行くのです。個人の側から見れば「みんなそうする」ので「自分もそうする」というように同調して行くのです。アメリカの心理学者たちは、集団の行動原理が一致しているとき、構成員を同調・感化する「集団の圧力」が働くということをさまざまな実験によって証明しました。
 現今の日本人は忘れてしまっていますが、昔の日本人は誰もが「朱に交われば赤くなる」ということを知っていました。中国人は「孟母三遷」の教えと言い習わして来ました。どちらも環境や集団の「感化力」を前提とした発想であったことは言うまでもありません。
 若い世代は知らないでしょうが、「感化院」は、現在の「教護院」や「少年院」の別名でした。「感化」は教導の主要概念だったのです。戦後日本の教育界はなんと軽々しく大事で有効な概念を捨て去ったことでしょうか!

2  「全体の福祉」より「個人の権利」
 戦後教育は教育における集団の意義を軽視し、反対に、子どもの個性や創造性を意図的、意識的に取り出して強調して来ました。個人の特性の強調の背景には「全体主義」への強烈な反発がありました。反発の対象は、「滅私奉公」であり、「国家や天皇」を優先させた国家主義、全体主義、天皇制軍国主義などと総括された戦前教育でした。当然の結果ですが、集団主義教育は戦後教育改革の中で「全否定」されたのです。個を全体に従属させ、部分を全体に従属させたことへの強い反発があったことは当然であったと思います。それゆえ、教育の力点は個々の子どもの学習や成長に置かれました。否定されたのは「集団」の強調であり、「全体」の優先でした。「チームのために」(For the team)というスローガンは、もはやラグビーぐらいにしか通用しなくなりました。結果的に、「家族」も、「地域」も、「社会」も、常に全体の福祉よりは、個々の構成員の利益や権利の方を尊重しました。集団も組織も個人に犠牲を要求する存在であるかのように見なされることも多くありました。あらゆる集団において「個」と「全体」の優先順位が論じられ、「個」の方が大切であるという感情が戦後日本を支配した、と言っても過言ではないでしょう。組織が敵視され、社会的集団が「ばらけて」きたのは、「個」と「集団」のバランスが崩れたという背景があったからです。換言すれば、それほどまでに「全体」の前に「個」が抑圧された極端な時代があり、そうした状況への反動が「個」の全面尊重という傾向を生み出して来たということだと思います。

3 忘れられた集団指導
 学校は集団教育を採用している「場」であるにもかかわらず、「一人一人の子ども」を大切にするというスローガンが圧倒的な力を持ちました。結果的に集団指導は著しい困難に直面したのです。子ども会も同じだったでしょう。
 集団に力点を置くことは、学校や教員があたかも「全体主義」に傾くかのような非難を受けるのではないかとひたすら恐れたのです。運動会の行進がなっていない、と言い、朗唱の発声が揃っていないという批判をするだけで眉をひそめる人々が現に存在するのです。その背景は、全体や集団を重視することに対する強い反感が依然として強いということです。個人を全体に統合することは個性や感性を損なうという信仰に近い固定化した観念があるようにも思えます。
しかし、筆者の見るところ、学校の教育力が落ちたのは、多くの点で集団教育の力が落ちたことに原因があります。換言すれば、戦後の学校教育はさまざまな場面で集団を軽視し、集団のもつ感化や集団圧力(Group Pressure)の教育的効果を捨てて顧みなかったのです。
 学校教育がクラス単位の授業を行い、集団指導の中で個々の児童を指導するシステムを取っている以上、個人と集団を同時に教育することは極めて重要なことだった筈です。教師が集団を鍛えて、「学級全体」を把握・統率することが出来れば、個々の児童・生徒は確実に集団に同調し、集団が作り上げる価値や雰囲気(Group Atmosphere)から多大の影響を受ける筈なのです。しかし、筆者がそのことを指摘すると「反動」だ「右翼」だと批判を受ける傾向がつい近年まで続いたのです。しかし、事実は頑固です。集団を統率すれば、個人を教育的に感化することができることを、一連の小学校教育で証明することができました。集団の統率に成功すれば、学級は崩壊せず、授業も崩壊しません。学級や授業を守るのは、教師の力以上に、仲間集団の圧力だからです。昨今、多くの学校で学習の規律の崩壊が問題となり、児童・生徒の規範意識の欠如が問題となっています。しかし、規律に欠ける、個々の児童・生徒の指導に拘っている限り、指導の効果はなかなか上がりません。家庭のしつけは多くの場面ですでに崩壊しています。「早寝、早起き、朝ご飯」を家庭教育のスローガンにしなければならなかったことが、なによりの証明です。要するに、現今の家庭にも、学校にも、子ども個人が帰属する確固たる集団が形成されていないのです。特に、学校はイデオロギー的に「全体主義」であると「後ろ指を指されること」をひたすら恐れています。時には、「個人をさておいても」、集団を育てることが先なのに、「個人を忘れている」と批判されることが恐いのです。個人は多く、集団の中で育つのです。教師集団もまとまらず、児童生徒の集団も形成できなくてどうして「困難」に打ち勝つ指導ができるでしょうか?現今の学校は、「集団の中で個を育てる」という教育論を有していないのです。

4  要は全体と個のバランス
 現今の多くの学校は、「個」を強調するあまり、集団を通して個人を感化するという教育原理も、方法論も、意図的、意識的に回避して来たのです。しかし、真の問題は、「全体」と「個」の利益の調整であり、全体と部分のバランスの問題です。全体が異常に強調されれば、「個」が抹殺され、個性の生かされる余地はなくなりますが、逆に、現在のように「個」が異常繁殖すれば、コミュニティも社会も集団構成員の協調と連帯を失うのです。学校においては、規範や規律を保持すべきクラスや集団が一気に脆弱化するのです。
 日本社会もようやく個が突出し過ぎる社会病理に気づきました。多くの人が「権利意識」の肥大化を心配し、「自己責任」が強調され、「自己中」の異常繁殖を憂うるようになりました。歯止めのかからない個人の「ごね得」や企業の「儲け主義」と並行して、教育界には「我が子主義」や「モンスター・ペアレンツ」や「給食費の不払い」現象をもたらしました。いずれも他者や全体を顧みないことから生じた現象です。「自分主義は」は子どもにも伝染しました。子どもは、「きつい」、「面白くない」、「やりたくない」、「やだ」と言えば、大抵のものは回避できると知っています。子どもの「主体性(欲求)」を無視して、指示、命令、強制することは「反教育的」であるという風潮の中で育てて来たからです。自分の欲求を最優先させる「自己中」の蔓延は、全体の福祉を無視した個の突出の副作用に外なりません。日本社会の多くの分野で、「自分勝手なわがまま」が「個人の権利」と置き換えられ、「規範の中の自己主張」と「規範無き欲望の主張」を等値する社会的風土(Social Climate)を生み出してしまったのです。
 


 

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