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生涯学習通信

「風の便り」(第100号)

発行日:平成20年4月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「熟年者マナビ塾」の革新性と可能性

2. 「熟年者マナビ塾」の革新性と可能性(続き)

3. 知識と行動、学力と実践力−「生きる力」の定義と「学力」概念の構造と範域−

4. 「肉体の硬直、精神の停滞 −熟年者の進退と活動の「マンネリ化」防止−

5. 感謝の辞−100号総括

6. お知らせ&編集後記

5  「ひとりぼっちの危機」を回避する

 「あなたがいてよかった」と思える人はいますか?「あなたがいてよかった」と言って下さる人はいますか?前者はあなたが愛する人々で、あなたの心の支えです。後者はあなたを愛してくれる人々であなたの「存在のよろこび」です。両者を合わせてそこに居る甲斐:「居甲斐」です。生き生きした日々を支えるためには「生き甲斐」が必要ですが、「生き甲斐」は活動に伴う活動に伴う「やり甲斐」と交流に関わる「居甲斐」から成り立っています。高齢社会は「平均値」です。結果的に、寿命のばらつきは生き残る熟年者の人間関係の先細りを持ったらします。自分が生き残った分だけ周りの親しい人々が先立ち、交流の輪が小さくなってしまうからです。大切な人々に先立たれた時、人は愛する人の「心の支え」を失い、自分を愛してくれた人々から得られた「存在のよろこび」を失います。それゆえ、生き残ることは多くの熟年の「孤独」と「孤立」を意味するのです。高齢期こそ生涯学習の役割は社交の創造と人間関係の社会的補充に努めなければならないのです。補充は「新しい縁」を創造することで行います。「新しい縁」とは「生涯学習の縁」です。「同学の縁」、「ボランティアの縁」、「同好の縁」などを意味しています。これらの縁は、活動する志を同じくする人々の縁ということで「志縁」と呼ばれています。「志縁」こそが老後の人間関係を支える新しい縁なのです。「熟年者マナビ塾」は、血縁や地縁や職縁を越えて、新しい縁を創造するという点でまさに画期的なのです。

6  「仮のすがた」願望

サラリーマンが時に口にする、現在の自分は「仮の姿」であるという発想は、「仮のすがた幻想」と呼んでもいいかも知れません。がまんして日々勤め上げている労働は「仮のすがた」であって、今は耐えているが、本当にやりたいことは別にあるのだという願望です。それゆえ、無事に定年を迎えた暁にはいきいきと本来の自分に返って新しい人生をやり直すのだということでしょう。しかし、定年まで「仮のすがた」を生き続ければ、おそらく大抵の人は自らが望んでいた筈の「真の姿」には戻れないのです。「労働は仮の姿。退職後にやりたいことが山ほどあるのだ」という思いは夢としては成り立っても、周到な準備プロセスを経ない限り実現することは難しいことだと思います。労働に限らず、趣味の世界であろうと、旅であろうと、田舎暮らしであろうと、ボランティアであろうと、自分の生き甲斐を満たすことが出来るほどのことは労働に匹敵する準備と努力を必要とすることは想像に難くありません。しかも、資金も必要であり、時間も、健康も、家族の同意も必要になれば、それほど簡単に自分のやりたいことに邁進・没頭できる保障はないのです。まして、労働によって社会の評価と承認を与えられていた人々の社会貢献は、定年によって、社会との縁が切れると同時に社会的評価も承認も同時消滅するのです。日々苦しみに耐えてがんばっていたが故に、「仮のすがた」だと思った(思いたかった)労働は終わってみればそれこそが、自分の日常を支えた「やり甲斐」であったことに気づく場合もあるでしょう。仮面のつもりでかぶった日々の役割演技の「ペルソナ」は、時が経ってみれば、おのれの「真の姿」:パーソナリティに変わっていることが多いのは心理学者の指摘を待つまでもないのです。社会と切れたところで趣味を追求したところで満たされないことは、「カルチュア難民」や、「ゲートボール難民」によってすでに証明済みなのです。労働時代が「仮のすがた」で、定年後に「真の姿」の自分を生き始めるとしたら、なぜ多くの人が地域デビューに手こずり、引き蘢りに落ち込み、定年鬱病に悩むことになるのか、説明がつかないではないですか。
 時間だけはたっぷりあるのに、やることがなくて、行くところがない環境をある哲学者は「自由の刑」と呼びました。まして一人の仲間も、同志もいないのに来週のスケジュールが埋まる筈はないのです。己の健康に留意して、「もう少し、生きる時間を下さい」、「自分にはやることが残されているのです」、という人でなければ老後のエネルギーを持続できる筈がないのです。「マナビ塾」の最大の功績は、熟年者に老後の活動を発見し、発明する可能性を準備したのです。


7  子縁を通した社会への貢献

  学校という中間帯がありますが、「マナビ塾」は子どもの縁に着目しています。子どもの成長は指導に当たった熟年者に活力をもたらすことはすでに全国の事例が証明済みです。お世話になった子どもに代わって丁重な日本の保護者が熟年者に感謝の言葉を贈ることも多くの実践が証明しています。学校支援ボランティアの子どもとの関係は必ず学校の境界線を越えて地域に広がって行きます。異世代交流が地域に及ぶということです。筆者が「子縁のサイクル」と呼んでいる現象が起こるのです。最後は、熟年者本人の活力が向上することによって、医療費や介護費の軽減にまで及ぶのです。勿論、そのためには学校と社会教育も、教育と福祉分野もこれまでの縦割り行政の区分を越えてプログラムを総合化する必要があります。

「子縁のサイクル」
熟年者の学校支援・子育て支援→熟年の社会参画→子どもの元気→保護者の感謝・女性の元気→熟年の元気→世代間交流→地域の元気→財政負担の軽減→熟年者の社会貢献活動支援

8  「やったことのないこと」への挑戦−精神的固定化の予防

 精神の形成は各人の行動基準や生活スタイルの結果です。換言すれば、精神形成の大部分は若い頃の学習と経験を反復した結果だと言っていいでしょう。熟年にとっては長い歳月の練習の成果です。それゆえ反復練習が長かった分だけ、確固たる価値観や感性が身に付いてしまっているのです。「精神的固定化」が始まると「昔やったように」しか出来なくなり、「昔考えたように」しか考えることが出来なくなるのです。したがって、新しい考え方が受け入れられなくなり、新しい実践に踏み出すことが難しくなるのです。長い時間をかけて一度形成されたものは時に凝り固まって解きほぐすことが大変なのです。教育学ではこのことを「変革」は「形成」より困難であると言っています。
 精神的固定化の防止策はたった一つしかありません。「やったことのないことをやる」ことです。「熟年者マナビ塾」が新しい活動プログラムを通して塾生に「これまでやったことのない」体験を提供できれば固定化した部分が徐々にほぐれて行くことになります。「新しいこと」は食べ物でもいい、ファッションでもいい、音楽でも、スポーツでもいいのです。新しい人間関係、新しい仲間との活動であれば、「これまでやったことのない」変化が総合的である分、何よりもいいのです。なぜなら「精神的固定化」は「過去へのこだわり」が原因だからです。生涯学習の重要性は、「読んだことのない本」を読み、「経験のない料理」を試み、「世代を超えた人々に出会い」、ボランティアを通して社会の役に立てることです。これらを実践する具体的処方こそが「熟年者マナビ塾」なのです。

9  他者の評価を問う

  教育の目的は、学校教育、社会教育を問わず、学習者(対象)にとって望ましい未来の資質を想定して意図的に働きかける行為です。当然、対象にとって、当該の教育貢献は「有効性」を持ち得たか、否かが問われます。活動の「有効性」を問うためには「before」と「after」を定期的に点検する事が不可欠です。最初はなにがどうであったのか?そして活動(指導)はそれをどう変えたのか?「できなかったことは何か」、「できるようになったことは何か」が問われます。多くの点で現代の教育には具体性が欠けているのです。成果を問うためには「発表会」が不可欠です。熟年者が自らの変容を確認し、事業の目的の達成度を社会的に評価するためには、情報公開と外部評価がいちばん大事です。
また、事前に「発表会」を想定することは活動の想定目標を設定することにも通じます。発表会のために設定した目標から逆算して、日常の活動を組み立てて行くことは、大人にも子どもにも有効です。筆者が、学校の指導をしたとき、上記の理由から、毎学期の発表会を重視しました。そうしたら「発表会」は「点数稼ぎ」のためにやっているという陰口が聞こえて来ました。世間はそのくらいのことは言うでしょう。しかし、そのくらいのことで関係者の気持ちが揺れては実践の先頭に立つことはできません。あらゆる専門職業は素人のやることとただ一点で大きく異なっています。それは結果を問うことです。結果だけを問うと言ってもいいでしょう。発表会は他者の評価をいただくことです。結果の評価を問うことはプロの誇りと責任です。
 プログラムが適正でないと、高齢者は元気になれず、子どもは学ばず、学校は喜ばず、感謝の言葉も、社会的承認も得られません。そうなればやがて個別に高齢者が脱落して行きます。
 子どもも、熟年者も「生きる力」の基本は同じです。子どもも、高齢者も「生き甲斐」や「やり甲斐」の基本条件は同じです。彼らに変容を促す最大の教育力は「プログラム」であるということも同じです。活動(教育)プログラムは、彼らを向上させることが出来なければなりません。「向上」の中身は、心身の健康を維持し、分かるようになること、出来るようになることの「機能快」を実感し、相互の交流の楽しさ、よろこびを実感し、世間や対象者から評価や承認を頂くことです。この場合、プログラムを立案し、関係者をつないで活動の舞台を設定し、社会の評価や承認を取り付け、応援や研修やコーディネート機能を発揮するのは公民館職員です。事業の成否は公民館職員の「腕」にかかっていると言っていいでしょう。その「腕」の良し悪しは「発表会」の企画にかかっています。第2回の発表会が楽しみです。
 現在、熟年者は1日100円の実費を負担しています。行政は、学び塾を通して、最終的に医療費などの行政負担が軽減出来ると判断している以上、参加者負担分を、たとえば2:1の比率で助成して、「マナビ塾」の意義を社会的に承認すべきだと思います。予算を補強すれば、活動の幅が広がります。プログラムさえ適正であれば、活動も参加者も、結果的に事業効果も一気に拡大すると思います。


 

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