難局を乗り切る経験

 原稿自体は9割方まで書き上げた。あとは最終章の残り半分と、おわりに、を書いたら、全体の調整と、雑然とした参考文献コーナーを整理するだけとなった。何だかほぼ予定通りに終わりそうな気配。でもそれは他の仕事を放り出して、このプロジェクトに全精力を投入してやっているからなだけで、全体で見ると、他のプロジェクトが大変なことになっている状況なので、あまり偉くない。
 こうして、かなり俗世から隔離されたような生活を送っていながらも、ネットがあるおかげで世の中とはつながっていられる。それはとてもいいことではあるけれども、弊害ももちろんある。いい知らせやうれしいメッセージを受け取って励まされることもある中で、頭の痛い話や、無理難題が飛び込んでくることもある。それもしょっちゅうある。人様が落としたボールを拾う役割や、大暴投が返ってきて、それを拾いに行くような余計なことが日々起こる。疲れた時にそういうものが飛び込んでくると、それが結構こたえる。
 数年前だったら、そういう頭の痛い話にずっと気をとられて、いろんなことに影響が出てしまっていたものだが、ずっとそういうことに付き合い続けてきたおかげで、今はこれまでに得た知識や経験に頼れば何とかなることが多い。そういうストックが多少はできたのだなと、時々ふと思う。話がこじれかけた時の応対のような微妙なさじ加減が必要な性質のものは、時間を経ないとなかなか身につかない。歳を重ねるにつれて、そういう難局を乗り切る知恵や経験に助けられることが多くなって、年々生き易くなっている気がする。なので、歳を取るのもあながち悪いことではない。
 一つ思うことは、難局を乗り切る知恵や経験というのは、面倒なことから逃げずに向き合って自分なりの答えを出せたときにだけ身につくもので、逃げ腰な時にはまったく身につかない性質のものだろうということだ。面倒なことからはよく逃げ出す自分の性格上、身についているものとついていないもののバランスの悪さを感じる。それでも身についたものを頼りに生きていけるし、そのバランスの悪さも含めて自分なのだと考えるしかない。どこかのタイミングでおそらく年齢による衰えとか、今は想像もできないような苦悩を感じることもあるのかもしれないが、その時はその時で自分に向き合って考えていくしかないと思う。それでまた何らかの身の処し方も考えつくことだろう。