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生涯学習通信

「風の便り」(第56号)

発行日:平成16年8月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 180度の路線転換 −選挙に勝てる生涯学習−

2. 第48回生涯学習フォーラム報告: 地域における子育て支援の方法

3. 教育の臨界点(Critical Point) −「量」が「質」に転換する時−

4. ボランティアの失望

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

教育の臨界点(Critical Point) −「量」が「質」に転換する時−


  人間の努力が蓄積され、目標とした質的転換に至る瞬間は「教育の臨界点」と呼んでいいだろうと考えている。「臨界点」とは「量」が一定の限界に達して、まさにこれまでとは異なった「質」に転換する一点を意味する。辞書を引いてみると「臨界温度」、「臨界圧力」、「臨界状態」などの使用法がある。いずれもある種の条件が一定の限度をこえると、物質や物事の状態が一気に変わることを意味している。筆者の関心はプログラムがもたらす「教育の臨界点」である。
  豊津寺子屋の終りの方で、子ども達の朗誦を聞いた。一日の最終時間だった為か、些か緊張を欠いた子どもも散見されたが、総体的には見違えるばかりの成長であった。音頭朗々の「雨にも負けず」であった。佐賀市や穂波町のお客さまの拍手も「おまけのサービス」ではなかったであろう。少なくとも20日間、毎日2回ずつ朗誦を繰り返した。悪評高い「詰め込み」の手法である。もちろん、テキストは見ない。1年生から6年生までおなかの底から声が出るようになった。詩も俳句も短歌も読み方に感情の移入もできるようになった。「臨界点」は2週間目ぐらいに来た。連続して積み上げた練習量の成果である。したがって、毎回、一週間のインターバルが空いてしまう土曜日のプログラムだけでは同じようには行かないであろう。
  筆者が指導している英会話は寺子屋とは逆の結末を迎えている。学習者の拡大を配慮して、隔週1回のプログラムを3通り実施して来た。ことわざどおり、「3兎を追う者は一兎をも得ず」となった。隔週1回のプログラムでは質的転換が起りにくい。もちろん、志願して来た学習者は子ども達より遥かに熱心である。動機も明確である。自学自習もしているであろう。暗唱、朗誦を基本とした「詰め込み」の学習法も同じである。しかし、子ども達のようには行かない。2週間の「間」が空いてしまう隔週の勉強では練習量が積み上がって行かないのである。筆者のプログラム設定の失敗であった。来年度からは中期集中型の学習法に切り替えるつもりである。
  長崎県壱岐市の霞翠小学校のモデル事業は2年目から子ども達の体力、学力、困難への挑戦の意欲などが一気に向上した。その理由も、毎日の練習量の積み上げが質的な変換を促した結果である。
  子ども達にとっては何よりも中・長期の集中的プログラムが重要である。一泊二日のキャンプでは「量」は「質」に転換しない。二泊三日でも似たような結果である。環境への「慣れ」も、方法への「慣れ」も、興味・関心の「広がり」も、人間関係の形成も、意欲の「弾み」も3日目と4日目とでは明らかに異なることはすでに筆者の野外教育研究で証明したところである(*)。学校も、社会教育も、家庭教育も、細切れ指導では練習量が質的転換を促す「臨界点」に達しないのである。豊津寺子屋は夏休み毎日、霞翠小学校は学期中の毎日、同じプログラムを繰り返した。量が質に転換したのはその為である。
  その意味で学童保育に教育プログラムを導入できないのはまことに不幸である。また、学校教育が集中的な朗誦や計算ドリルなど「詰め込み」の指導を排除して来たこともまことに不幸なことである。子ども達の発達の「旬」、「学びうる瞬間(Teachable Moment)」がいちばん豊かな時期に「保育」という名の「囚われた時間」を過ごすことは子どもの不幸である。「詰め込み」に反発するあまり学校教育の中で基礎知識を学んでいない子ども達もまことに不幸である。日本社会はこのような「教育の浪費」にいつ気付くのであろうか?
(*)  三浦清一郎編著、現代教育の忘れ物、学文社、昭和62年

   ボランティア活動は高齢社会の活力源である。活動が心身の機能を発動し続ける唯一の方法だからである。活動しないものは衰弱する。高齢社会の第一原則である。
   しかし、高齢者は労働には戻れない。もちろん、趣味や学習やスポーツ活動に参加することはできる。ただし、よほどレベルの高い活動内容でない限り、自分のための活動では、社会の承認も、世間の拍手も得られない。これに対してボランティアは他者へのサービスである。出発点は人間の善意である。サービスに対しても、善意に対しても社会は感謝をもって報いる。それが社会的承認である。しかし、時に日本社会はボランティアをいたく失望させる。日本社会はいまだ「社会的承認」の方法を学んではいない。

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