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「風の便り」(第56号)

発行日:平成16年8月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 180度の路線転換 −選挙に勝てる生涯学習−

2. 第48回生涯学習フォーラム報告: 地域における子育て支援の方法

3. 教育の臨界点(Critical Point) −「量」が「質」に転換する時−

4. ボランティアの失望

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

180度の路線転換 −選挙に勝てる生涯学習−

 

■ 1 ■  過去の役割は終わった
  熊本県天草の富崎さんのご注文は合併に伴う公民館の徹底した未来予測である。筆者も従来の公民館の歴史的経緯に囚われることを止めた。富崎さんの姿勢に刺激されて思いきった分析を自分に課し、安易な楽観論を排して論じた。富崎さんも筆者も合併が公民館にもたらすものは非常に厳しいと予想している。過疎化の続く地方では、疑いなく合併は地方行政に対する「効率の要求」である。それゆえ、合併がもたらす広域化の財政は合併する市町村の単純「足し算」にはならない。最重要課題は財源の削減である。財源の削減はまず事業の精選と削減で行う。次は、事業を民間に委託する。委託も、精選も目的は人員の削減である。財源削減の本丸は人件費であることはいうまでもない。結果的に、少数の職員の目は合併後の広域化した全域には行き届かない。それゆえ、「地域格差」の拡大、「生涯学習格差」の拡大を避けることは難しい。
  上記の状況を考慮すれば、未来の公民館像は従来の公民館の歴史的機能の範囲の中だけで論じるわけには行かない。行政の他の分野の機能と比較考量して、果たして現在の公民館事業は生き残るだけの価値を有しているか?分析はそこから始めなければならない。結果的に、公民館経営路線の180度の転換を提案することになった。極論であることを恐れたが、天草の参加者からは、提案の主旨は前向きに受取られ、関係資料の問い合わせも少なくなかったと聞いた。時代は動いているのである。折しも鹿児島県の大久保哲志さんから市長村長を集める研修会のご依頼をいただいた。当然、公民館も、社会教育行政も大きく動くべき時なのである。富崎さんの御縁で「公民館生き残りの条件」をまとめたが、こんどは大久保さんの御縁で「選挙に勝てる生涯学習」を論じる。果たして、地方の政治家はわかってくれるだろうか!?


■ 2 ■  公民館の未来課題  「子育て支援」と「熟年の活力の存続」
   「少子化」が社会の未来を脅かし始めた。老人「介護」も社会の財政を脅かし始めた。日本社会の緊急課題はこの二つである。公民館の未来課題もこの二つである。公民館は日本社会の最優先課題に対応しなければならない。
  日本社会の最優先課題は、子育て支援であり、高齢者の活力の保持存続である。子育て支援のシステム化は、「養育」の社会化である。家庭に代わって、あるいは家庭を全面的に支援して子育ては社会が引き受けることである。異論もあろうがすでに多くの家庭には子育ての責任能力は存在しない。そのことは子どもの現状が雄弁に物語っている。しかも、一方で少子化も止らない。「少子化」を防止して男女共同参画の条件を整備しなければ、将来の社会保障はあり得ない。介護を社会化し、老後の生活を社会が保証しようという制度を維持しようとする限り、生産人口が縮小すれば制度の前提が崩壊する。もちろん、高齢人口が増大して心身の衰弱に任せれば、医療費も、介護費も破綻する。「介護予防」の失敗と「少子化対策」の遅れは明らかに国家の福祉制度を破壊する。多くの高齢者は路頭に放り出される。まして、団塊の世代が定年を迎えるこれからが高齢社会の問題が噴出する時期である。
  公民館は従来のすべての仕事を停止して「子育て支援」と「熟年の活力の保持・存続」のプログラムに取り組むべきである。しかしながら、現在の公民館/社会教育行政の実力では二つの問題に別々に取り組む余裕はない。それゆえ、両者は総合的なプログラムの中に統合しなければならない。統合の方法は、熟年の指導者を組織化し、彼らの力を活用した「養育の社会化」を実行することである。熟年の力を借りて、子育て支援のプログラムを立ち上げるのである。この事業の中核機能の遂行こそ公民館の未来課題である。少子高齢社会の活力は子どもと老人の元気が握っている。子どもと老人の世話をして来たのは女性である。それゆえ、選挙の帰趨は女性票と熟年票が握っている。公民館/社会教育行政が女性と熟年を応援するプログラムに切り替えることは、緊急課題に対応するだけではない。財政難時代の政治判断として最も分かり易いのである。

■ 3 ■  成熟した市民;「リピーター」へのサービスは止めるべきである
  社会教育審議会が「生涯教育」理念を提示したのは昭和46年(1971年)である。これに遅れること10年、昭和56年(1981年)、国の中央教育審議会は、ようやく教育行政の全分野において、生涯学習の重要性を正式に認知する答申を行った。ここまでは従来どおりの行政の縦割りに習った極めて狭い文部行政の範囲に限った話である。社会教育局に始まった「微細革命」が辛うじて教育行政全分野をカバーする「部分革命」に至ったのである。
   中央審議会の答申からさらに6年、昭和62年(1987年)、時の総理大臣の下に召集された臨時教育審議会は、初めて、日本人の全生活分野にまたがった生涯学習の必要性を答申した。生涯学習革命の国家的認知である。
   一連の流れの中で日本の知的風土が著しく変化した。筆者はこの変化を緩やかな「生涯学習革命」と呼んでいる。革命はまず、従来、「鑑賞者」に留まった日本人を「創造者」に変えたのである。生涯学習革命は日本社会の学習者の底辺を一挙に拡大した。市民生活における「パンとサーカス」の圧倒的な力は今も変わらないが、従来の多くの「鑑賞者」は「作成者」となり、「観戦者」は「プレイヤー」となり、「読者」はみずから「作家」となり、「視聴者」もみずから「演技者」や「演奏者」となったのである。生涯学習センターや公民館で行われる「生涯学習フェスティヴァル」や「文化祭」には素晴らしい焼き物、書画、彫刻、刺繍、木工物、演劇、コーラス、舞踊などが勢ぞろいして壮観である。みずからが創造活動に参加する市民の活動成果は増加の一途を辿っている。もちろん、活動の中心は公民館であった。しかし、問題は、公民館に来る「お客」の大部分が「リピーター」になったことである。公民館の利用者が固定して拡大が止まっているのである。多く見積もってもいまだ半分程度の公民館利用人口に税金を投入している。残りは生涯学習には関知していない。したがって、参加者に自主活動/受益者負担を課さない以上、このようなサービスは税負担の公平の原則に反している。国・地方の財政難は今や明らかである。成熟した市民;「リピーター」への税金によるサービスは止めるべきである。従来の公民館講座や各種の学級は目覚めた市民の自主性に任せて、限られた財源は緊急の課題に重点的に投資すべきである。


■ 4 ■  パチンコ屋には勝てない −生涯学習実践者の「深耕」は限界
   生涯学習の原理は「選択」である。選ぶ自由もあれば、選ばない自由もある。市民の「学習需要をもっと開発せよ」という意見が聞こえて来そうであるが、すでに生涯学習革命30年、役所主導の公民館ができることはやり尽くしたのである。現在の公民館に現状機能を拡大・革新する力量はない。したがって、生涯学習実践者の今以上の開発は不可能である。公民館は「パンとサーカス」には勝てず、パチンコ屋さんには勝てない。一度でもいいからパチンコ屋さんに行って公民館の広報ビラでも配ってみたらいい。人々の無関心の度合いが分るであろう。また、公民館を設置している当の市役所や役場職員の公民館事業への参加率を調べてみればいい。学習者の「深耕」はもはや不可能である。筆者がでかける役場研修にはいつも義理で出てくるお座なりの顔が並んでいる。理論面でも、実践面でも、生涯学習は遺憾ながら未来の投資価値の存在証明にしくじったのである。

   現状の公民館事業を続ければ、税金投入による「生涯学習格差」は増大する一方である。個人が自己負担によって生涯学習に投資する分については、消費の選択、行動の自由が原則である限りとやかく言うべき筋合いのものではない。しかし、行政サービスによって、社会教育はこれ以上国民の中の「生涯学習格差」の拡大を助長するべきではない。

■ 5 ■  「外部化」の必然
   家族は今や沢山の子どもを育て切れない。女性を中心に「子育て」を負担と感じている現代の家族は複数の子どもを育てたいとも思っていない。それを決めるのは主として女性の意志である。総論的に言えば、「少子化」は男支配の文化とシステムへの女性からの「絶縁状」である。「少子化」を止めるためには女性に納得してもらうしか方法はない。女性を納得させる方策は二つある。第一は「変わりたくない男」が男女共同参画文化を理解して、家事や育児を引き受けるような自己変革を遂げることである。第二は、社会が養育の相当部分を引き受けることである。食や洗濯やもろもろの日常生活を外部化したように、養育の外部化が必要になったのである。核家族化が定着し、就労する女性が増加し、すでに現代の家族は子育て機能を衰退させてしまった。子どもの健全な発達のためにも、家庭外の安全な場所での子どもの集団のあそびや活動の機会を創造することが必要になったのである。
  家事の外部化は女性の社会進出がもたらした必然である。育児の外部化も同じ原理で動いている。もちろん、それを可能にしたのは豊かな社会の分業の進化である。企業は、今になって「アウトソーシング(戦力的外部委託)」の重要性を言うようになったが、家族はその構成員の能力的制約に鑑みて、多くのことを「外部委託」せざるを得ない宿命にあった。近代家族においては「教育」がそのはしりであった。教科教育は家族の能力を越えている。かくして、学校教育はその道のプロに委託せざるを得なくなった。最近では「介護」も同様の方向を辿っている。外部化が進む理由は、「委託」を可能にする財政能力と「委託」せざるを得ない家族の状況である。保護者の多くは"共稼ぎ"の労働形態に移行し、多くの家庭は「委託」の可能性と「委託」の必要性の両面で子どもの外部保育;社会の子育て支援を必要とするようになったのである。子育ては「親の責任」という論はすでに時代にマッチしない。筆者は長年の持論を捨てて、「家庭の子育て責任」論から「養育の社会化」論に考え方を転換した。少子化への対応と男女共同参画社会推進を最優先すれば、避けることのできない選択であった。

■ 6 ■  選択型支援の限界
   子育ては原始の昔から原則として家族の中で始まる。しかし、現代の家族・家庭はもはや子育ての任務と機能を十分には全う出来ない。膨大な不登校児童の存在はそのまぎれもない証である。学校の低学年授業が授業にならない「授業崩壊」現象も家庭の育児機能不全の実態を如実に物語っている。 
それゆえ、「子育て支援」の目的を大別すれば二つである。第1は子どもへの直接的支援。第2は保護者、特に女性の「育児負担」に対する直接的支援である。この際、施策の現状は批判的に分析しなければならない。現在、行われている「家庭教育相談事業」や「子育てサロン」や「育児教室」などは行政による「間接支援」である。家族や家庭環境の格差を放置したままの支援である。「間接的支援」は選択的支援である。それゆえ、自覚した家庭にしか届かない。意識した保護者にしか届かない。市民が選択しなければ意味はない。市民が活用しなければ気休め以上の意味は持たない。
   行政サービスの実態も、PTAの研修も、支援を必要とする市民にはほとんど届いていない。したがって、ほとんど役には立っていない。何よりの証拠は育児を巡る保護者の問題も、子どもの「質」を巡る問題もその大部分は解決されていないことである。子育て問題はますます多発し、ますます深刻化している。親の関心を原点にすれば関心のない家族には届かない。必要な支援も必要な家族には届かない。現代の子育て支援は子どもへの直接支援でなければならない。放課後にも、休日にも、子どもの「生きる力」を直接的に向上させるプログラムが不可欠なのである。

■ 7 ■  「生きる力」の活動メニューの導入
   子どもの生き生きとした活動は「居場所」を作っただけでは始まらない。それはすでに数十年にわたる「学童保育」の実践で学んだ筈である。現行の子どもの「ひろばづくり」の施策も、「子どもの居場所づくり」の方策も、地域環境の構造変動を十分には理解していない。子どもの危機的状況も理解していない。居場所を作っただけでは健全な育成は出来ない。子ども集団も形成されない。子どもには保育と活動プログラムと指導者が必要なのである。これらの3者が結合したプログラムは地域には存在しない。地域環境の構造変動はなまやさしいものではないのである。「居場所」と「子ども集団」と「指導/活動プログラム」が総合的に機能してはじめて子どもの発達に寄与する。行政の「縦割り」を排し、保育と教育を統合することが不可欠の課題になったのである。

■ 8 ■  「保教育」概念の導入
   公民館/社会教育事業が担当すべき課題は二つある。「子育て支援」と「高齢者の人材活用」である。公民館が未来の公民館になる為には、この二つを同時に実現しなければならない。その為には高齢者を子どもの活動指導に活用することである。したがって、第一の任務は子どもの活動を指導する高齢者ボランティアの発掘と研修である。ボランティアが重要である理由は二つある。第1の理由は高齢者の衰えである。定年後、「労働」から「活動」への移行に失敗した高齢者は一気に衰弱する。活動しないということは、「頭も使わない」、「身体も使わない」「気も、心も使わない」ということを意味しているからである。使わない機能は一気にその働きを衰退させる。使わない頭は回らず、歩かない足は歩けなくなる。使わなくていい機能は当人から消滅するのである。人間の感覚体の原則である。それゆえ、ボランティアは「高齢者ボランティア」、「熟年ボランティア」を中心に発掘しなければならない。高齢者が参加する子育て支援事業の基本思想は「幼老共生」である。子育て支援の表看板は「子どもの元気」であるが、劣らずに重要な裏の目的は「熟年の元気」を引き出すことである。
   第2の理由は財政難である。社会教育は地域に依存した従来の青少年健全育成事業のやり方を忘れるべきである。もはや地域は昔の地域ではない。掛け声はあっても地域に少年指導の実行力はない。もちろん、様々な分野に、指導者はいるが、今や社会教育行政に指導者に支払う旅費や謝金はない。到底、地域全域を網羅した子どもの指導は不可能である。それゆえ、ボランティアに頼る以外指導者の確保はできない。
   ボランティアの指導者を「安上がりの労働力」と考えることはまことに不本意ではあるが、緊急課題に対応する為にはやむを得ない。ささやかな「費用弁償費」を計上してボランティア指導者にお出まし願う以外、子育て支援も、子どもの活動の豊かな活動も保障できないのである。

■ 9 ■  地域人材の発掘と活用−「他薦制」の採用と研修の充実
   ボランティアは異文化の思想である。それ故、日本流のボランティアシステムが必要である。日本文化が謙譲の美徳を大切にしてきたことを考慮すれば、この国で「自分から手を上げる人々」はあぶないのである。ボランティアの発掘原則を「他薦制」にするのはその為である。推薦者が責任をもち、推薦して下さった方のお顔をつぶさないことがボランティアの使命と責任を支えるのである。発掘/研修/登録の責任は新しい公民館が担当すべきである。他薦で上がってきた候補者には公民館がひとりひとりボランティア参加の意志を確認する。活動の舞台を創造し、ボランティアを配置するのも、活動に耐えうるように研修を企画するのも公民館の役割である。個々のボランティアの活動舞台を創造し、一人一人を配置することは学級講座の企画運営の難しさに優るとも劣らない。学級や講座を企画しながら片手間にできるような生易しい仕事ではないのである。ボランティアの活動ぶりは地域に報告してその社会的貢献を評価し、社会的承認の広報を綿密に行わなければならない。それがボランティア活動のエネルギー源である。一連の仕事は一大事業である。
   筆者は公民館とボランティア事務局が同じ建物で仕事をしている状況を知っている。公平に見て、ボランティア事務局の仕事の方が遥かに複雑で、地域への貢献度も大きい。ボランティア事務局は嘱託/非常勤で、公民館は正規の職員である。これでボランティア事務局が子育て支援事業を開始したら、現在の公民館を廃館にしてもなんら問題はおこらないであろう。

■ 10 ■  子育て支援ボランティアに対する「費用弁償」予算の計上
  日本のボランティアの最大の失敗はその能力やエネルギーを「ただ」で使ったことである。「ボランティアただ論」の修正は決して簡単ではない。政治家の中にも信仰のようにボランティアは「ただ」だと信じ込んでいる人がいて担当者がその実情を説いても聞く耳をもたないという例も知っている。それゆえ、己に無理を課して、長くただのボランティアでがんばってきた人の中には鼻持ちならない感覚を振り回す人も多い。ボランティア活動を名刺に刷って配っているなどはその一例であろう。ボランティアを一部の人々の特権にしているのも、活動者の底辺が拡充しないのも、「無償性」の原則を誤解して、人々の貢献に対する費用弁償を計上しないからである。「無償」とは労働の対価を受取らない、という意味である。活動に必要な経費まで自己負担にすれば、持続的な貢献は期待できない。ボランティアただ論は貢献者に対して失礼であるばかりでなく、人間の「善意」や「努力の継続性」を買い被っているのである。わずかの費用弁償でも社会の感謝を受取れば、本人と社会との「見えない契約」が成立する。それがボランティアの責任感と継続性を保障するのである。

■ 11 ■  学校開放−子どもの安全/学校の安全
   言うまでもなく理論上学校は生涯学習施設である。しかし、学校の実態は生涯学習理念から最も遠い。「いつでも、だれでも」の生涯学習原則に反している。子育て支援事業こそ学校に地域の要素を導入する最大の機会である。何故なら、子育て支援は通常、同じ学校の子どもを対象としているからである。加えて、学校は子どものために設計され、子どもに合わせた環境を整えている。安全の視点から見て、放課後に子どもが移動しなくていいということは交通事故の心配からも、移動中の不審者の心配からも解放される。更に、地域のボランティア指導者が学校に入れば、子どもの味方が校内に常駐することになる。地域の人材は事件の抑止力である。学校を開き、子どもの味方が沢山出入りするということは、学校の安全を保障する最も重要な条件である。

■ 12 ■  学校開放ー機能性/機動性の視点
   公民館に何十人もの子どもを預かることはできない。多様な人々が使用する施設を子どもの独占使用にするわけにも行かない。児童館にしてもすべての学校から子どもが通って来るというわけには行くまい。学校ネットワークはあるが児童館ネットワークはない。子どもが通う距離的条件においても、収容能力の条件においても限界がある。そうであればこそ、学校こそが子育て支援の拠点になるべきなのである。上記の通り、学校は唯一子どものために設計された施設と環境を有している。当該学校の子どもを預かるにあたって、移動の問題も生じない。
   問題は開放を渋る教育行政と学校の教職員の意識である。特に、管理運営の指揮を取るべき管理職の意識がなっていない。彼らは学校施設の公共性を忘れている。税金で建てたという出発点を忘れている。もちろん、コミュニティの文化/生涯学習施設であることはほとんど念頭にはない。空き教室ですら提供を拒む学校の閉鎖性はすでに施設機能の「私物化」の域にすら達している。
  しかし、子育て支援と高齢者の元気は現代の緊急課題である。この問題に協力しようとしない時、学校はすでに社会の「敵」といっても過言ではない。公民館が担当すべき「学社連携」は、子育て支援から始めるのである。それこそが放課後の学校に最も相応しい開放目的である。行政の守備範囲が異なるという理由だけで、長い間、学校は「学童保育」を閉め出してきた。教育行政もそれに加担してきた。中央で学校開放を指導してきた文部科学省の視野の狭さ、地方政治家の発想の貧困には呆れるばかりである。学童保育の子どもも、学校の子どもも「同じ子ども」ではないのか!?それぞれが願っていることは「子どもの健全育成」ではないのか!?

■ 13 ■  行政施策の総合化とプログラム効果のサイクル
   現在の行政システムの縦割り分業の中で、教育行政はもとより、福祉も、男女共同参画も、諸事業の対象と機能は明確にその範囲が限定されている。したがって、現実の課題が事業機能の統合を必要としている場合でも、行政分野ごとに事業概念が固定化されているため、具体的な必要課題に柔軟に対応することはできない。例えば、「青少年健全育成」概念には幼児は含まれていない。それゆえ、青少年健全育成団体には、通常、保育の発想は皆無である。逆に、「子育て支援」は通常、「乳幼児の保育」を主眼としている。それゆえ、社会教育のいう学童期の少年の活動プログラムはほとんどこのような区分から「学童保育」という特別概念が分離されている。しかも、「学童保育」は「保育」概念に限定している為、「学童保育」の発想からは教育活動の意義と重要性の視点が抜け落ちるのである。
   学童保育に教育プログラムを組み合わせることができないのはまことに愚かなことであるが、妨げになっているのはそれが「保育」概念で括られているからである。「保育」概念にこだわって、教育を排除すれば、子ども達が集まっても教育活動のプログラムは導入できない。保育の担当者の言い分は自分達は教育の指導者ではないという理屈であろう。一方、社会教育の青少年プログラムの多くは逆に「保育」の重要性を無視している。それゆえ、活動の多くは活動の教育的側面にのみ重点が置かれ、年齢別、学年別、能力別編成のメニューが圧倒的に多い。概念の固定化はプログラムの融合を阻んでいるのである。
   現行の行政分業の機構を変えることはできない。しかし、子育て支援は多様な分野にまたがる。そうなれば、行政システムの中に特別の「プロジェクト」を創設するしかない。この時、「プロジェクト」とは、「特定の目的を達成するための活動計画」(*1)の意味である。したがって、日常業務の遂行システムでは実行出来ない特別課題の達成が目的である。「既存の組織においては、組織間で壁ができ易く、複数の部署を巻き込んだ横の改革を拒みがち」であり、「縦割りの組織においては、組織が細分化されていることにより、担当している職務に関する合理性は追求されているものの、各組織において最適化を行おうとするため」、全体の合理性の追求が難しくなるのである(*2)。
  子育て支援事業は現代の行政における「プロジェクトマネジメント」を必要とする典型である。「子育て支援」を本格化しようとすれば、学校と社会教育と福祉と男女共同参画の担当課はプロジェクトチームの最低限の構成要因である。学校は「子どもの生活・活動拠点」を提供する。社会教育は、指導者の発掘・確保と研修を担当する。福祉は「保育の概念を拡大して、教育との融合を図り、教育行政と共同して、少子化対策および子育て支援の予算を確保する。男女共同参画の担当課は、教育行政福祉行政と共同歩調をとって、女性の社会参画と安心の子育て支援システムを両立させるべく、総合的子育て支援の意味を議会と住民に説得するのである。

   上記の論理を順序だてて整理すれば以下のようになるであろう。

「少年の危機」→ 異分野統合による「子育て支援」システムの創造→ 拠点としての「学校の開放」→
指導プログラムの開発と「熟年ボランティアの発掘と活用」→ 放課後及び休暇中の「児童健全育成プログラム」の実施→ 「女性の社会参画条件の拡充」→「少子化対応」
(*1)  E-Trainer.jp著、プロジェクトマネジメントの基本と仕組み、秀和システム、2000年、p.10
(*2)  同上、p.21
 

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