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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第41号)

発行日:平成15年5月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 町長さんの問い

2. 教育特区追加構想への三つの感想

3. 追試の不可欠−批判精神の貧困

4. 第22回大会総括   「継続」と「力」−「革新」と「伝統」

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

第22回大会総括

「継続」と「力」−「革新」と「伝統」

   中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会第22回大会が無事終了した。各地から多くの方々のご参加をいただいて、例年以上のにぎにぎしさであった。事後、あちこちから反省と評価のメールやお便りをいただいた。考えるところが多くあった。もともとの大会財産は一円もなく、日本生涯教育学会補助金1万円(のちに2万円)だけで運営を続けて来た。学会に気兼ねをして「会費」もいただかなかった。22年の歳月は長い。皆さんが言って下さったように「継続」は、部分的には疑いなく「力」である。初めはすべての人が手弁当で参加してくださった。研究費や旅費のついている学会とは根本的に違っているのである。プログラムは参加者が持参して下さる各地の特産品を「競り」にかけて作ったお金で印刷できるようになった。10年目ぐらいから記念出版の本代が加わり、特別企画出演者のささやかな謝金をお出しできるようになった。しかし、発表や司会はいまだ手弁当でお願いしている。1円の旅費(費用弁償)もお出しできない。生涯学習は自由選択を原理とするが、当然、「選択しない自由」もある。よくぞ皆さんが参加してくださったものである。

   しかし、考えれば考えるほど続けただけでは本当の有効な力にはならない。18回大会、19回大会の総括意見を読んで、一度は20回大会をもって大会に幕を下ろすことも考えた。「継続」するだけではダメだ、と考えた。そこで企画委員会は自らに刷新の課題を課すことにしたのである。

   一定の区切りでまとめて来た大会事業の総括出版のようにいまだ果たしていない宿題もあるが、月々定例の「生涯学習フォーラム」や「風の便り」を始めた。大会時の「前夜祭・実行委員会」、「特別報告」、「インタビュー・ダイアローグ」、「生涯学習の未来調査」など複数の「実験」を始めたのもそこからである。

   今は、20回で終わりにしなくて良かったと思っている。「代表世話人」の自分も、ちょうど仕事を辞めて、新しい生き方を模索していた時である。自分自身の日常のあり方も根本から刷新しなければならなかった。「継続」だけでは「力」にならないことは、個人の場合も同じであった。何十年も労働を継続して来た定年者が新しい活動の発明に苦労するのはその象徴である。長ければ長いほど、「継続」という事実が「革新」を妨げる壁になるのである。

   考えてみれば、大学も、学校も、社会教育も同じである。「継続」だけでは「力」にはならない。大学は戦後民主主義以来、教授会を中心に運営が継続して来た。それが伝統になった時、すでに大学は自らを自らの力で変革することは出来なくなった。外部評価や学生による評価への拒否反応はそのためである。自らに都合の悪いことは教授会自身が改革を妨げる壁となるのである。大学の変革はすべて政治の指示や文部科学省による指導による外圧の結果である。学校は継続が「精神の固定化」を招いたもう一つの典型である。それゆえ、学社連携も、総合的学習も、その大部分は、失礼ながら従来の延長線上で”お茶を濁す”ことに終るであろう。継続は多くの場合、停滞に繋がるのである。人々がいう「マンネリ」とはそのことである。

   子ども会にしても、婦人会にしても社会教育関係団体の停滞を見れば「継続」が「力」に直結しないことは、これ又歴然であろう。NPO法人という全く新しい組織が誕生した今でも、既存の団体に自らを革新する動きはほとんど見られない。

   「継続」事業や「伝統」が自らを革新しながら進化することは実に難しい。「継続して来たこと」を「正しい事」と錯覚するからである。無意識のうちに、「伝統」を「正当」と思い込むのはそのためである。一つの物事が「伝統」として熟成するためには長い時間の評価を受ける。時間の経過は物事に力を与えるが、伝統を固定化して刷新を怠る時、伝統は魅力を失う。絶えざる革新と変化こそが伝統に命を吹き込むものだからである。しかし、伝統は伝統であるある故をもって変化を拒否するのである。それゆえ、自らの革新を怠った時、多くの組織も、システムも、伝統ですらも、最後は滅んで新しい組織やシステムに取って代わられる。時代が「構造改革」を要求するのはそのためである。「抵抗勢力」が抵抗するのはその裏側の理由である。自らの既得権益に未練があるからである。「改革」も、「変化」も確実な成果の保証は無い。抵抗も、不安もそこから発生するのであろう。どのような「革新」もそれぞれに新しいエネルギーを必要とする。それぞれに冒険であり、危険であり、副作用を含み、既得権を侵すものだからである。

   かくして、「継続」は多くの場合、「力」ではなく、停滞であり、堕落である。継続が力になるためには、「進化する継続」でなければならない。伝統が意義ある伝統であり続けるためには、伝統の中身と方法に絶えざる革新が加えられなければならない。進化とは「継続」が、同時に新しい「魅力」を産み続けることだからである。

   交流会も同じであろう。22年目を迎えた今、皆さんが歴史の重みを指摘し、「継続の力」を言って下さるが、姑息な「あく」も湧き、堕落の「慣れ」も生じた。今回、初日の昼食は受け付けた注文より30食分が不足になった。ボランティアの学生諸君の前で恥ずかしい。大会への「慣れ」が無遠慮と不作法に転じたのであろう。やむを得ず予備費から支出して穴埋めした。ボランティアで加勢してくれた学生諸君にあれこれと受付で駄々をこねる参加者も僅かながらいる。2年前には参加者が大会のために持参してくださった美しい棚田の写真が紛失してしまった。今回は名前の書いてあったお土産が消えてしまった。継続には惰性も、灰汁も生じるのである。しかし、お気づきのように参加者が力を合わせて自発的に懇親会の後片付けをした。センターの職員の皆さんも、学生諸君も、発表も聞かずに黙々とそれぞれの持ち場を守った。それは22年間の継続の力であったろう。生涯学習フォーラムや「風の便り」を始めたことの結果が生まれ始めているだろうか?実験のインタビュー・ダイアローグと特別報告もそれぞれ3回目を迎えた。「前夜祭」には70名をこえる人々が参集し、深夜まで話が弾んだ。歴史は新しい「魅力」を生みだしているだろうか?

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