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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第41号)

発行日:平成15年5月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 町長さんの問い

2. 教育特区追加構想への三つの感想

3. 追試の不可欠−批判精神の貧困

4. 第22回大会総括   「継続」と「力」−「革新」と「伝統」

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

町長さんの問い

   ある町の町長さんから3枚のメモ用紙が届いた。地域を守らねばという切々たる思いが込められている。町長さんのキーワードは「自立したコミュニティ」の創造である。果たして、現代の生涯学習はコミュニティを創造できるか?以下は町長さんの思いに対する筆者の分析と感想である。 

深刻な問い

  地域の人々が笑って楽しく生活し、仲良く暮らせる条件整備とはなにか?お互いを頼り合える人のいる集落を如何にして作り得るか?拠点施設をどう作るか?合併の不利益と日陰を避けうるか?現行の行政区に自立と自治は可能か?

生涯学習の診断と処方

   診断⑴  伝統的共同体は衰退する

   伝統的共同体は農林水産業を基盤とした地域住民の「共益」を守って来た。「共益」の根源は農林水産業の共同作業であり、水利の共同管理であり、入り合い林や里山の共同管理であった。公民館の掃除も、子ども会の「火の用心」夜回りも、公園の草取りもその延長である。「共益」を維持するための共同作業は地域住民の義務であり、義理である。やりたいか、やりたくないか、個人に選択の余地はないのである。しかし、農林水産業の相対的影響力の低下とともに、共同作業による「共益」維持の必然性は消滅しつつあるのである。結果的に共同体は共同体でなくなって行く。

   診断⑵  「地域力」も衰退する

   町長さんの分析では、町外通勤者が増え、若者が流出し、地域に若い担い手は常駐せず、生活スタイルも、考え方も多様化している。「地域力」の低下は否めない、と言う。行政区自体も現代の需要に応えるには、小規模で、おまけに高齢化、世帯の小規模化が進んでいる。地域共同体の絶対力量の減退は避けようがないのである。町長さんの言われる「地域力」とは「互助」、「協助」の力量のことである。「互助」、「協助」は、共同体の「共益」維持機能と表裏一体である。従って、地域力の衰退は、「共益」の維持を支えて来た「動員力」、「共同作業力」、人々を律して来た共同体に対する「義理と義務」の観念の衰退を意味している。生産活動における「共益」の分配の必要がなくなれば、地域力の衰退は必然である。支えるべき「共益」が希薄化すれば、その維持活動が存続するはずはないのである。

   勿論、変化は直線的には現れない。システムや制度の変更は行きつ、戻りつのジグザグコースを辿ることになるであろう。変化に抵抗する思いもでて来る。立派な自治・自立の活動をやっている共同体もあるから未だ可能性があると錯覚しがちである。しかし、それは優れたリーダーや優れた企画が支えている例外事例に過ぎない。全体傾向として、地域共同体は力を失って行く。

   診断⑶   町内会も、自治公民館も衰退する

   従来の方法にこだわれば、町内会も、自治公民館も衰退する。従って、新しい運営原理を発明しなければならない。町内会を支えて来た原理も、自治公民館の運営原理も「共益」や「共楽」の維持である。活動の形態は「全員参加」型であり、「一斉行動」であり、「横並び」であり、活動基準は「人並み」であった。祭も、共同作業も、助け合いも、要するに「みんな一緒」であった。従って、「価値の多様化」は共同体と相容れない。個性化も共同体の一斉行動原理と正面衝突することになる。「個性」が尊重され、「自分流」が選択され、自立と主体性が強調されれば、「一斉行動」原理は衰退せざるを得ない。守るべき共益が稀薄になった現在、従来型の町内会も、従来型の自治公民館もほとんど機能しない。「みんな一緒」の原理は、個性にも、自由にも、多様性にも相反するのである。従来型の社会教育は滅びるのである。「選択原理」を正面に掲げたNPO法人が登場した現在、「地域」を単位とした運営原理は意味がない。「行動の単位」は「個人」である。「行動の原理」は「個人の選択」である。従来の呼びかけでは「個人」は集まらない。地域が集団で行動する根本理由が消滅しつつあるのである。

   診断⑷   「高齢者」が地域財政を破綻させる

   地域の熟年が自らの「生きる力」を維持する努力をしない時、地域の活力は低下する。ましてや高齢社会である。加齢と共に心身の機能が衰える老人達が自立の努力を怠れば、たちまち介護保険も、医療保険も、年金も赤字に転落する。やがてベビーブーマーの定年が近い。「厄介老人」の大量発生を防ぐためには、福祉のあり方も、生涯学習のあり方も根本から見直さなければならない。目標は高齢者の自立である。高齢化率の高い地方の財政が破綻するのは眼に見えている。構成員が自立していないのに、コミュニティの自立などは遠い夢の話である。

   「元気老人」と「厄介老人」をわける鍵は「活動」である。定年で「労働」から引退した以上、ふたたび職業に戻ることは出来ない。唯一の道は社会貢献や生涯学習・生涯スポーツである。その意味で安易に雇用の延長を図るようなシルバー人材センター施策は、ボランティア活動を疎外する大きな失敗であったろう。高齢社会に突入した現在、シルバー人材センターはすべての高齢者をカバーする事は到底出来ない。さらに、楽に小使いを稼ぐ事に慣れた高齢者をボランティアの社会貢献事業に引き戻す事は至難のわざである。行政の工夫が熟年層を活動の舞台に呼び戻すことが出来なければ、彼等の「生きる力」は急降下する。活動は、情報も、学習も、交流も、貢献も、身体活動も、自尊感情も支える。日々、一定の「負荷」をかけて使い続けない限り、人間の心身の機能は維持する事ができない。高齢者を活動の舞台に招くことが緊急の課題である。福祉も、生涯学習も高齢者の社会参加の実現に失敗している。国の反映を築いて来た熟年層が、こんどは自分自身も、国も滅ぼす。それが熟年の危機である。

   診断⑸  家庭に教育力はない

   家庭に教育力はない、と断言したら大方のお叱りを受けるであろう。しかし、現在の家庭では子どもの問題行動は解決できない。家庭から多くの問題が発生していることは事実である。全体として家庭には「保護力」はあっても、「自立を促す教育力」は極めて弱い。守るだけでは子どもは一人前にはならない。それゆえ、家庭は「生きる力」は育てていない。「子宝の風土」では、昔からのことである。昔の格言が「他人の飯を食わせよ」といったのはそのためである。大部分の人が少年問題の根本原因は家庭にあると指摘するが、家庭はその責任を取れない。家庭には「自立促す教育力」はないと覚悟しなければならない。それゆえ、家庭の責任をいくら責めても問題は解決しない。解決は学校や世間や、別のところがやらなければならない。ところが学校にも、世間にも、今や、現在の少年問題を解決する教育力はない。  

   子どもの「生きる力」が弱いのは、心身を鍛えていないからである。鍛えるプログラムが不在であり、鍛える人がいない。誰も鍛えなければ「生きる力」は向上しない。当然の結果である。この問題に対処するためには学校と地域の教育力を高めなければならない。教育力とは子どもを一人前に育て上げるプログラムと同義である。土曜日を空白にした学校週5日制はこの状況に拍車をかけたのである。町は教育力を高め得る教育プログラムを発明して実行しなければならない。指導者がいなければ、アウトソーシングの原理にのっとって外からお招きしてでも進めなければならない。少年の危機は未来の危機だからである。

   処方箋⑴  新しい「縁」の創造

   伝統的共同体が衰退し、「地域力」が衰え、従来の社会教育、福祉の手法が有効でなくなった現在、従来からの、地縁・血縁・結社の縁で地域の「互助」・「協助」は守れない。新しい人間関係を形成するためには、新しい「縁」を創造するしかない。新しい縁は、志の縁であり、学習やスポーツの縁であり、楽しみや趣味の同好の縁であり、子どもの縁である。それらは「ボランティアの縁」であり、「生涯学習・スポーツの縁」であり、子育て支援の「子縁」である。かくして、生涯学習は立国の条件に関わるのである。

   処方箋⑵  個性化、多様化対応のメニューの豊富化−自治組織、行政地域区分の広域化−

   「バイキング」の食事様式は食生活の個性化と多様化への対応策として登場した。豊富な選択肢が基本である。生涯学習・スポーツの原理も異なるはずは無い。しかし、従来の行政地域区分の範囲にこだわれば、豊富なメニューを提供する能力は無い。それゆえ、生涯学習やボランティアの広域連合が必要になる。車社会はそれを可能にした。移動が困難な高齢者に対しては移動を援助するボランティアを組織化すればいいのである。貧しいメニューの上に、一斉主義と横並びで動員しようとしても、生涯学習は成立しない。自治公民館の相互乗り入れをはじめ、運営の抜本的見直しが必要である。行政地域の統合に心理的抵抗があっても、プログラムによる広域連合から始めることが不可欠である。

   処方箋⑶  住民サービスも情報も疎外されないコミュニティの確立

  合併のあり方如何では、周辺部に対する住民サービスの希薄化は起こりうると想定せざるを得ない。人口が少なければ議会代表も少なくなり、周辺部の意志は反映しにくくなる。情報の確保についてはITで自衛するしか無い。鍵は住民のコンピューター・リテラシーであろう。そろばんと七輪で育った世代には難しいことだが、方法がないわけではない。学校で習った子どもたちを指導者にするのである。子どもが教えれば、彼等の初めての社会貢献であろう。世代間の交流もできる。一石二鳥である。行政は人手と財政の不足をITで補う方法を工夫しなければならない。直方市の高齢者のための子どもパソコン教室や阿蘇の産山村の「子どもヘルパー事業」はモデルの一つになるだろう。

   処方箋⑷  拠点施設の不足というけれど

   拠点施設を新たに建設する必要はない。財政難時代の生涯学習拠点施設には「コミュニティ・スクール」構想を取り入れるしか方法が無い。学校がコミュニティの教育資源を利用しているだけでは、「学社融合」の実現など到底不可能である。学校はすでに多様な教育資源を有している。施設も立派である。かつては地域の文化センターであった歴史も有している。

   問題は教育関係者にコミュニティとの共用の発想が皆無のため、活用のための条件が整っていないことである。

   ソフト面では、教育行政と教員のメンタリティを変えなければならない。学童保育も、土曜プログラムも学校を活用すべきである。専用の給食センターなどは非効率の典型である。その財源を活用すれば幾つの子ども事業が可能になるであろうか?時代は「戦略的アウトソーシング」を求めている。

   ハード面では駐車場、独立の会議室、更衣室、シャワールーム、図書室、家庭科室の付加・開放などである。空き教室を利用した学校利用はようやくコミュニティスクールのモデルを提示し始めている。コミュニティスクール運営委員会も組織化されなければならない。千葉県の秋津コミュニティスクールは一つの先行事例であるが、田舎はもっともっと工夫の余地がある。合併後の支所も学校に置けばいい。多くの住民が出入りして、子どもの安全を見守ることにもなる。学校のコミュニティスクール化は一石五鳥ぐらいの効果になる。

   処方箋⑸  自治能力の向上と自立するコミュニティ

   @  行政依存の付け

   自治能力は戦後民主主義の最重要課題であったはずである。そのため公民館は民主主義の学校といわれた。しかし、実際は、地方政治もそれに対抗した市民運動も、住民福祉の増進と権利拡大闘争の大義名分の下に行政依存を増大してきたのである。地方政治は票を取るために福祉をばらまき、ばらまかれた施策を行政が助長し、獲得した「権利」は運動体が配分した。おんぶにだっこの行政依存が可能であった時代には、自治能力はさほど必要ではなかったのである。

   コミュニティは急には自立できない。甘やかされた子どもに耐性がないように、甘やかされたコミュニティにも耐性はない。贅沢に慣れた個人が簡単には元の貧乏暮らしに戻れないのに似ている。自助の精神はエネルギーと誇りを必要としている。日本のコミュニティはその両方を半ば失っているのである。

   共同体維持の必然性が消滅して、個性の時代が到来した今、新しい自治は輸入品の「ボランティア思想」の実践に頼らざるを得ない。従来の一斉・横並びの活動はすでに不可能である。地域に対する義理だけで自立と自治を支える活動が出来る筈はない。

   A  ボランティアの実験

   ボランティアは選択制である。やれる人だけがやる。やりたい人だけがやる。目だつので「出る杭」は打たれる。おそらく初めは「一本釣り」で頼んで歩くしかない。徐々に有志の活動の衝撃がコミュニティ全体に及ぶのを待つのである。活動は参加する個人が決定する。従って、主体性がもっとも重要であり、活動の個人差が必ず発生する。それを承知で個人のネットワークを築くことができれば、介護や子育て支援で地域自立の道が開ける。ただし、それはお互いがお互いを支えるという「共益」の発想ではない。やれる人がやれない人を支えるのである。それゆえ、ボランティアには活動資金の助成が不可欠である。どんな活動もエネルギーと時間を必要とする。活動を提供いただく方への社会のささやかな「費用弁償」と感謝の印である。もちろん、ボランティアは労働の対価は求めない。従って、活動は「無償性」を原則とする。しかし、「無償」とは「ただ」という意味ではない。「労働の対価は求めない」という意味である(*註)。研究者や行政は「無償性」の原則を「ただ」と置き換えて流布して来た。その浅薄な解釈が日本のボランティアを窒息させたのである。コミュニティの自立は個人の有志に依頼せざるを得ない時代が来たのに、その社会的準備は整っていない。ボランティア活動を支える活動資金の支援を制度化し、仲介・広報・管理・評価事務を行なうボランティア・ビューローを組織化できれば自治・自立の活動の可能性が開ける。

   しかし、従来とは方法論が全く異なる。従来型の「寄り合い」でやれば、地域活動を一番やりたくない人間の基準で事が進む。自立などあり得るはずはない。新しい組織は「ゲリラ的」である。必要に応じて始め、終れば解散する。志のある人が集まり、「この指にとまる」。出入りは自由にしなければならない。参考事例はすこしづつ登場している。定年後の「自由の刑」にほとほと疲れ果てた退職者が一念発起して地域の役に立とうと始めた日本型ボランティアの事例が生まれ始めている。発端は、NHKドラマ「定年ゴジラ」の「お助けクラブ」である。残念ながら、ドラマでは「お助け活動」の助成金を準備していない。第2幕があったとすればタダ働きだけを要求する「お助けクラブ」もまた空中分解したであろう。ただより高いものはない。「ボランティアただ論」は福祉の大失敗である。しかし、ボランティアに頼るしか突破口は見当たらない。地域はボランティアの実験を始めなければならない。

 *(註)
   欧米のボランティアは人として生を受けた恩寵に対する神への感謝を行動の形にしている。思想上の来世の神に奉仕するため、現世では己の「隣人を愛せよ」と教義にいう。だから社会的活動になるのである。それは信仰を基本とした「神との約束」である。そうした風土でさえも多くの活動にボランティアの活動助成が行なわれている。日本のボランティアに「神との約束」は存在しない。おそらく日本人のそれは「社会との約束による人助け」である。ボランティア活動支援をシステムにしない限り、広範囲な活動の確保は不可能である。

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