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生涯学習通信

「風の便り」(第97号)

発行日:平成20年1月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 男たちに分かるだろうか!? 最後の「アウトソーシング」-「子育て」と「介護」

2. 男たちに分かるだろうか!? 最後の「アウトソーシング」-「子育て」と「介護」(続き)

3. 試作:「部首の構成を音読の方法で覚える漢字練習」

4. 権利が先かそれとも義務が先か?

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

◆権利が先かそれとも義務が先か?◆

 今年の出版企画の「教育公害」論の最終推敲に入っています。何回読み返しても修正に終わりがなく、出来上がった己の原稿に納得がいきません。書き手というのは、それで良いのだろうとも思いますが、机のまえでじっと文字面を眺めているだけで時間が過ぎて行くのは切ないものです。時々、気晴らしに別の本を開いてみたりします。その時見つけたのが次の文章です。

「世界にはまだ、7歳、8歳段階から過酷な労働にかりだされている子ども達がうんといる。そうした子どもたちはだいたい学校にも通わせてもらっていない。児童売春の犠牲になっている子どもも多い。そればかりか、貧しさゆえに餓死ないし病死してしまう子どもが、一日に地球全体で何万人もまだいる。先進国という国々でも、親の虐待の犠牲になる子が後を絶たず、親によって殺されてしまっている子どもが、たとえばアメリカ一国でも一年に数千人に達している(*1)。(以下略)」

 こうした状況を踏まえて子どもの権利条約は1998年に国連で制定されました。日本は制定から5年遅れて条約に批准しました。(「子宝の風土」が批准をためらった"気分"が筆者にはよく分かります。)その後日本の自治体でもそれぞれの自治体の状況に即して「子どもの権利条例」を制定しようとする動きが出ました。最初に制定したのは「兵庫県の川西市」だったそうです。同じような動きが各地に波及しました。ところが議論の経過の中で「子どもの「権利条例」は子どもの「責任条例」のような趣を呈することになって「もめた」そうです。具体的には子どもの「権利」という文言が消えたり、後退したりして、その代わりに「社会の一員として責任を果たす」とか「責任を持って行動していくためには、社会におけるきまりごとや役割を自覚」しなければならない、というような文言が前に出て来たということです。(筆者は当然のことであろうと思っています。)

 「権利」を強調すべきか、「責任」を強調すべきかでいくつかの自治体が揉めたということです。一連の事情を説明した原著者の見解は以下のとおりです。

 『これまでの(青少年)健全育成は、子どもの思いや意見をしっかり大人が聞いて、彼らが納得する形で社会的処遇がなされてこなかったことが問題ではなかったか。子どもの意見表明をもっと尊重すべきだ。それが子どもの権利をだいじにすることだ、というのが子どもの権利条約の精神なのだ。それが骨抜きにされる条例では、子どもはまた異なった形で管理されることにならないか。義務が大事だとしばしば強調されるが、義務は権利が満たされてこその義務なのだ。(*2)』下線及び( )は筆者。

 以下は筆者の見解です。「権利が先かそれとも義務が先か?」と問われれば、「義務」が先に決まっています。「義務は権利が満たされてこその義務なのだ」という原著者の考えは全く逆でこの世の約束事はすべて「義務が果たされてこその権利です」。共同生活もその舞台となる社会のシステムも構成員の約束の上に成り立っています。子どもは約束事を前提として共同生活の中に生まれ落ちます。

 欧米の哲学者が論じたとおり社会は構成員の「契約」の上に成り立ちます。「契約」は「共益」または「公益」のための約束です。人々が己の私益や権利にのみ奔走し、共同生活の構成員が、マンションの共益費から交通ルール、給食費、納税の義務までシステムを成り立たせている約束とルールを守らなければ、ホッブスのいう「万人の万人に対する戦い」は避けられないでしょう。「社会契約」は人間の欲求を野放しにしないための約束です。人間が有する無限の欲求で限られた資源を恣意的に分配しようとすれば、社会は大混乱の争いに陥るのは当然です。約束を守ることが先で、「権利の分け前」を主張するのは後に決まっているのです。「義務は権利が満たされてこその義務なのだ」という論理は、一般論の上でも間違いですが、教育界に持ち込む事は「過失傷害」のような犯罪に近い間違いです。

 こうした発想をすでに「子どもが最も大事な存在である」事を合意している「子宝」の風土に持ち込んだ時、「お子様」の欲求はもはや誰も止められません。子どもの欲求や意志に反して必要なしつけや訓練を施すことはほとんど不可能になるでしょう。このような論理を日本を代表する東京大学の教授が主張していることは驚きです。
 古人は「泣く子と地頭には勝てぬ」と言いましたが、上記のような「子どもの権利条約」がまかり通れば、現代は「泣く子」はもとより、あらゆる「お子様」に勝てないのです。「お子様」はもはやしつけも教育も不能です。「半人前」の主体性を持ち上げ、その権利を言い立て、「半人前」の声をもっと聞くべきだなどと言っている日本には「小1プロブレン」も「学級崩壊」も当然の帰結だったのです。「へなへなで」、「社会規範を身に付けていない」「精神的未熟児」は不可避だったのです。「モンスターペアレント」も必然だったのです。それ故、この種の論議が横行すればするほど、近未来の教育公害は不可避なのです。
*1 子どものサインが読めますか、汐見稔幸、女子パウロ会、2005、p.165
*2 同上 p.168



   

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