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生涯学習通信

「風の便り」(第97号)

発行日:平成20年1月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 男たちに分かるだろうか!? 最後の「アウトソーシング」-「子育て」と「介護」

2. 男たちに分かるだろうか!? 最後の「アウトソーシング」-「子育て」と「介護」(続き)

3. 試作:「部首の構成を音読の方法で覚える漢字練習」

4. 権利が先かそれとも義務が先か?

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

男たちに分かるだろうか!? 最後の「アウトソーシング」-「子育て」と「介護」
〜 「少子化」防止と男女共同参画の政治課題は女性の選択を認めるか? 〜

 「少子化」の防止が現代日本の必須課題であるとすれば、女性の「負荷」を減らさなければなりません。育児の心配と負担をほぼ一手に抱え込んでいる女性の肩の荷を放置したままで、もっと子どもを産んで欲しいとか、次の子を育ててくださいというのは無理というものです。また、女性の就労や社会参画は、女性自身が希望するに留まらず、社会にとっても重要であると言うのであれば、家事や育児の男性との均等分担を強力に押し進めなければならないでしょう。もし、男性が家事・育児の分担が出来ない時、あるいは拒否する時は、家事や育児を外部に委託して、現在女性が負っている負担を軽減することが不可欠の条件になるでしょう。しかし、その場合、従来、家族を家族たらしめて来た介護から、子育てまでほとんど全ての家族機能を外部に委託するところにまで行き着きます。その時、果たして、現代の家族は家族であり続けられるのか?男女の愛情だけが新しい家族の「きずな」足りうるのか?答えはまだ出ていないのではないでしょうか。

1  「外部委託」(アウトソーシング)は手抜きか!?
(1) 惣菜を買うのは愛情が不足しているからか?
 長い間、家事、育児、介護の「外部委託」(アウトソーシング)は基本的に女性が「手抜き」をしているという汚名をきせられてきました。例外は学校への教育委託だけだったでしょう。義務教育は政府の命令であり、一般の保護者では教育の専門性には歯が立たなかった、ということもあるので非難の対象にはならなかったということです。
 しかし、教育以外の外部化は、女性の怠惰であり、手抜きであり、愛情の不足であるということになったのです。最初は衣類をクリーニングに出すことも、お弁当やお惣菜を買うことも、女性の「手抜き」として後ろ指を指されたものでした。非難の主たる理由は「愛情が足りない」ということでした。「愛情が足りない」ということは、女性として、母として自らの任務をまじめに果たしていないということを意味していました。
 非難の背景には、「外部委託」によって身軽になった女性が「外へ出て行く」機会と時間を手にすれば、「男は外」で「女は内」という性役割分業を破壊するものとして受け取られた事情もあったことでしょう。
 学校の給食制度が整ったあとでさえも、母の手作り弁当を食べさせるために給食を廃止しろという議論があちこちでくすぶっていたことは周知のとおりです。現在でも、学校や給食センターの事情で、子どもの弁当が必要になった時、自分で作らないで、"コンビニの弁当"をもたせることが非難の対象になることも周知のことでしょう。「愛妻弁当」という呼び方も、おふくろの味の「愛情弁当」という言い方も、「女性が料理に時間と手間をかけたこと」を「価値」としているのです。女性が汗を流して、自分で稼いだお金で買ったお弁当はなぜ「愛情が足りない」ということになるのでしょうか?もちろん、「家事の外部委託=女性の愛情の不足」という等式は世間が立てたものですから、男が弁当を作るということは、世間の「想定外」です。非難するのは女も男も含めて世間です。その世間は筋肉文化の価値観で固められ、女は「内」で「内助の功」を原理とする仕組みであったことも周知の事実でしょう。女性が外で稼いで、「外助の功」を発揮することも、世間の美意識の「想定外」です。女性が働いているために、惣菜づくりを外部に委託することは、本当に「愛情が不足している」ことになるのか、どうかは必ずしも検討されたわけではなかったのです。逆に、共稼ぎのなかで、弁当を作ってやらなかった男たちは「愛情が不足しているわけではないのか」、という問いも発せられたことはなかった筈です。「弁当を作らないことは愛情の不足である」という非難は、なぜ両親に向けられずに、母親にだけ向けられたのか?恐らく筋肉文化は自らに問うたことはなかったと思います。

(2)  施設介護は「冷たい」か?
 老老介護の悲惨や、家族の膨大な負担が明らかになった現在でも、年寄りの介護を施設に頼むのは、嫁として、娘として"冷たい"という評価は、世間や多くの男性の発想の中に厳然と存在しています。介護の凄まじさを体験したことのない女性の中にも同じような感性は潜んでいることでしょう。それゆえ、もちろん、働いている女性が、親の介護で仕事を辞めれば再び労働市場に戻れないことが自明のことであっても、親や姑を施設に入れることに対する「非難のまなざし」は変わらないのです。
 欧米社会とちがって、日本の親世代は親孝行の伝統と建前のなかで年を取って来ました。そのため、老後の孤独に耐える「修練」が足りません。欧米の老人が老後の孤独を受け入れ、施設で人生の終末を送ることの覚悟が出来ているのに対し、日本の親の世代は一人で孤独に耐えて、施設に入り、子どもには負担をかけないという覚悟はほとんど出来ていないのでしょう。それゆえ、"老後は子どもと過ごしたい"、とか"自宅の畳の上で死にたい"という年寄りの願望は当然のこととして世間に受け止められています。だから、「在宅介護」は年寄りの願望に添って"暖かい"という評価になるのです。恐らく、「親孝行文化」において、在宅介護をのぞむ老親の側を「覚悟が出来ていない」と責める人はまずいないでしょう。その反対に、施設介護は責任放棄の「姥捨て山」という陰口を叩かれ、施設を選んだ家族は多かれ少なかれ"冷たい"という親戚や世間の評価を受けることになるのです。
 もちろん、在宅介護は"あたたかく"、施設介護は"冷たい"という感想は、男社会だけではなく、「内助の功」を受け入れた女性にもあります。かくして、日本の老人介護は「在宅ケア」が主流になるのです。財政が逼迫してくれば、ますます社会的負担の多い施設介護は減少して行くことでしょう。男たちが支配権を握っている政治も、行政も、介護は嫁や娘の仕事であることを疑ったことはないでしょう。もしかしたら、多くの嫁や娘本人自身も疑ったことがないかもしれません。それ故、両親が年老いたあと、介護の主力を務める女性の就労や社会参画は基本的に不可能になるわけです。もちろん、女性が介護を引き受けることによって、家族も当人も満足であれば、何一つ問題はありません。しかし、一方的に介護の「負担」を背負うことになる全ての女性が、満足で幸せということになる筈はないでしょう。在宅介護の実態がどれほど世話をする子ども世代の負担になるかは、政治も行政もすでに十分わかっているのです。にもかかわらず、筋肉文化の伝統的発想を前提として見て見ぬ振りをしている、と言ったら言い過ぎでしょうか!?

2  介護の外部委託の必然性
(1) 「恍惚の人」から「二人で静かなところへ行こう」まで
 介護保険が制度化されたのは老老介護や家族介護の多大な負担とその結果生み出された様々な介護の「悲惨」がもたらした必然です。有吉佐和子の「恍惚の人」に始まり、須田栄の「二人で静かなところへ行こう」という無理心中事件までたくさんの社会現象が起こりました。介護の部分的社会化、介護保険制度の導入による外部化は、介護の悲惨がすでに個人や家族の力量を超えたと判断された結果です。年老いて心身の衰えた老人の介護を引き受けることによって、ひ弱い「核家族」は簡単に崩壊します。すでに共稼ぎの家庭では、誰かが職業を犠牲にしないかぎり老人介護の実質的能力を有していないからです。筋肉文化の分業の中で、その「だれか」は基本的に女性であったわけです。

(2) 「親孝行したくないのに親が生き」
 家父長制の「家制度」が否定され、「核家族」が時代の主流となって、「親孝行」の文化風土は一気に衰退の一途を辿りました。当然、学校でも教えません。親孝行文化が衰退するに連れて、核家族にとって老い衰えた両親世代は、実質的に暮らしの「障碍」であり、「邪魔」であるようになって行きます。親の世話を押し付け合う兄弟喧嘩のテレビドラマが一世を風靡したこともあります。表題の川柳はそうした暮らしの「風景」を端的に表したものです。多くの家族で、一「親孝行」の建前が消え果てた一方、他方で、共稼ぎの核家族では「親孝行が実行不能」な現実が出現しました。
こうした状況を打開するためには、介護を社会化せざるを得なかったのです。世間一般に介護サービスを受け入れる社会心理が生まれて来たということです。介護サービスが民間に設立されるようになって、「介護ビジネス」という新しい職業領域も生まれました。この時、個人にとっても、国にとっても、老人ホームやホスピスに代表される西欧諸国の事例が参考になった筈ですが、日本は「施設介護」を選択しませんでした。老親の「最期は家で、子どものそばで死にたい」という文化的願望があり、介護の主役は嫁と娘であるという筋肉文化の「内助の功」の建前が結合したからです。結果的に、日本の介護は在宅介護が主流になりました。そうは言っても、介護の制度化=外部委託によってまた一つ女性の負担が減少したことは間違いないことでしょう。この場合、介護の負担に家族が耐えられないということが制度化の直接的背景ですが、介護の主役が女性であったことを思えば、間接的には男女共同参画の流れのなかの外部化であったともいえるのです。
 一方、女性が介護の重圧から解放された反対側で、家族から切り離された老人の「孤独死」を始め、様々な高齢者問題が発生したことは周知のとおりです。

3  最後の外部委託-「子育て」
 洗濯も、掃除も、料理も、介護も家族機能の多くが外部化されました。育児も最小必要限のところはベビーホテルや保育所のように外部化されました。しかし、現状の保育システムでは、女性の負担を軽減し、少子化を防止し、女性の社会参画を促進するまでには到底及ばないことは明らかです。厚生労働省と文部科学省の合議で学童期の子どもに対する「放課後子どもプラン」を打ち出さざるを得なかったのはそのためです。その「放課後子どもプラン」ですら「縦割り」にこだわる行政は実行できていないのです。
 筋肉文化における性役割分業の結果、最終的に女性に残された最重要の任務が子育てであるとすれば、家族から最後に外部委託される機能もまた、子育てになるのです。
 「核家族化」が進展して以来、子育ては現代の家族に残された最大の課題であり、家族を家族足らしめる最後の大義であるかもしれません。子どもを育てないのならなぜ家族が必要なのだという議論も成立するでしょう。それゆえ、子育てを外部に委託するということは、最大の「手抜き」問題として世間の物議をかもしてきたのです。保育所や学童保育の要望に対して、日本の政治も、男たちも、常に冷たい態度を取り続けて来ました。
 子育ての「支援」も、「外部委託」も、冷遇の最大の理由は、「子はかすがい」であり、子育てが家族を結合させる最後の砦であり、女性が男性と肩を並べて家庭から出て行くことを防止する最後の理由だったからでしょう。換言すれば、保育所の入所資格を厳しくしたのも、学童保育の受け入れに条件をつけたのも、子育ては基本的に外部委託するべきではない、という考えが根本にあったからです。
 自分が子どもを産んだ以上、その「製造責任」を果たせという議論から、「子どもを預けてまで稼ぎたいのか」、という暗黙の非難まで、世間は外部委託に反対でした。
反対論の表向きの議論は、主として二つあります。
反対論の第1は、子育てこそが家族の本務であり、本務を放棄すれば家族は家族でなくなるという家族論です。かつて「婦人会」が"女性よ、家庭へ帰れ!"をスローガンにしたのは、女性の社会進出が結果的に子育て放棄につながり、やがて家族が崩壊するのではないか、という危惧に発した運動であったろうと想像されます。
反対論の第2は、子育て「私事」論であったと思われます。「私事」は社会問題ではなく、個人問題です。その個人問題に属する養育経費を社会に負わせるとはけしからん、というものだったでしょう。確かに共産党を始め、一部の同調者の主張はいまだに「学童保育」の無料化を叫んでいます。子育ては「自分でする」という人々にとって保育制度の費用を税金で負担することは"アンフェア"であるという主張は当然のことだったと思います。保育制度のように、本来、「私事」であるべき子育て支援の経費を社会に負わせるなという税の公平分配論です。自分の子どもは自分で育てます、と主張する人々が存在する以上、税金によって保育や子育て支援を全て肩代わりすることは確かにアンフェアーです。その意味で、受益者負担を拒否する「学童保育の無料化」論は誠に不合理であることは間違いありません。これらの人々が保育の受益者負担をすんなりと受け入れていたならば、現代の子育て支援行政はもっとスムーズに進み、学童期の子どもの余暇時間の過ごし方も、ここまで深刻にならずに済んだかもしれません。
 しかし、「養育の社会化」に対する世間の心理的な反発の真の背景は、第1の理由に関係しているでしょう。子育ては家庭の第一任務であるという考えは、従来からの性役割分業を守り、「女性は子どもの小さい時は家にいろ!」という「内助の功」の考え方に直結しています。保育所の整備が遅れ、学童保育の制度化が遅れた最大の理由は、本来は家族の責任、女性の任務である「養育」を疎かにするなということであり、"自分のやりたいことのために子育てを犠牲にして、子どもを外に預けるな!"という非難の視線なのです。これまで出席の機会をいただいた多くの子育て支援の会合ですらも、責任ある主催の男たちのあいさつは「育児はほんらい家庭ですべきものであるが・・・・」というあいさつで始めるのが常なのです。
 


 

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