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風の便り
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生涯学習通信
「風の便り」(第92号)
発行日:平成19年8月
発行者:「風の便り」編集委員会
1. 小学校における実践研究の基本視点
2. 小学校における実践研究の基本視点 (続き)
3. 1年生の熱狂 ―寺子屋キャンプの子ども達―
4. 報道の目−『井関夏休み子ども元気塾』
5. MESSAGE TO AND FROM
6. お知らせ&編集後記
小学校における実践研究の基本視点
目標と方法の整合性 〜なぜ、なにを目指すのか?〜 この度ありがたいことにある小学校の研究プロジェクトに関わり、研究計画の提示を受けました。筆者の視点を整理する意味で目標と方法の整合性を検討してみました。本小論で素材とした学校側の第1次プロジェクトは、その後の「企画委員会」の中で、学校との協議を経てすでに大幅な修正・変更を行っています。当然、これからの実践プロセスも変わります。ここで取り上げた事例は当該学校の「第1次」プロジェクト構想です。筆者の分析は学校に失礼のないよう可能な限り「一般化」に努めたつもりですが、筆が走りすぎている所はご寛容にお許しください。協議を通して先生方の気合いとチームワークが日ごとに充実して来たことを実感しています。再び「霞翠小学校」と過ごした興奮の日々が戻る予感がします。学校との恊働作業を経て1年後には、現行教育に何らかの具体的提案が出来れば望外の喜びです。 多くの学校の研究プロジェクトが成果を生み出せない原因は、教育界が多用する抽象的にして曖昧、情緒的にして耳に快いだけの美辞麗句の「形容詞」に原因があることが分かります。以下は筆者の分析の視点と結論の概要です。 課題1 課題設定の「曖昧性」−仮説と方法の乖離 1 実践にせよ、研究にせよ「主題」を曖昧・抽象的な形容詞群で表現してはならない 事例の研究主題はすでにプロジェクトの査定を受ける時に申請済みですから、事後の変更は出来ませんでした。研究「主題」は『他者との関わりを自分の高まりに生かすことのできる児童の育成-生き生きと活動できる場作り・集団作りを通して−』です。 多くの学校の課題設定の最大の問題点は、主題が曖昧かつ抽象的な形容詞で表現されていることです。目標が曖昧で「大風呂敷」であれば、最大の難点は研究または実践の仮説を具体的な指導法に翻訳することが難しく、検証することも容易ではなくなるからです。 例えば、上記の「他者との関わりを自分の高まりに生かすことができる児童の育成」という時、「自分の高まり」に「生かす」とは、児童の日常においてどういうことを意味しているのでしょうか?換言すれば、「自分の高まりに生かすことのできた児童」とはどんな児童なのでしょうか?おそらく、この主題の表現から子どもの日常において「自分の高まり」を具体的に説明することはできないでしょう。 即ち、「自分の高まり」とは具体的に児童がどのように変容することを想定しているのか、「主題」を見るだけでは全く分からないのです。「仮説」と「方法」の乖離とはそういう意味です。 また、当然のことですが、実践と研究を繋げようとすれば、「他者との関わりを自分の高まりに生かすことができた」か「否」か、はどのようにして評価・証明するのか、が問われることになります。 また、上記の主題では、「他者との関わり」とは児童にどのような人間関係を想定しているのか、も分かりません。 さらに、「主題の意味」の説明文に使われた(子どもが)「「新しい自分」(になる)とは何を意味するのか?単に、新しい体験をする、ということか?「できなかったこと」が「できるようになる」ということでしょうか?主題の「抽象性」、「曖昧性」はそのまま説明文の中にまで曖昧さを引きずってしまうことも多いのです。 2 既存の教育目標:「めざす児童像」と「研究主題」の乖離 学校の教育目標:「児童像」は以下の通りです。 (1) 基礎基本を身に付け、自分から進んで学習する子ども (2) 励ましあい、思いやりのある子ども (3) 明るく元気でたくましい子ども ここに掲げられた「めざす児童像」と研究主題に言う「児童像」は当然共通していなければなりません。だとすれば、上記3点の児童像は、「研究主題」のいう「他者との関わりを自分の高まりに生かす」という実践の中身と方法で達成できるのか?それは具体的にどんな内容で、どんな方法か?両者の文言を読む限り論理駅な「関連づけ」は簡単ではないでしょう。 3 目標は具体的な「態度」・「言動」に翻訳されなければなりません 「めざす児童像」の叙述に含まれた「励ましあう子ども」、「思いやる子ども」、「明るい子ども」、「元気な子ども」、「たくましい子ども」の基準は方向目標であって、まだまだ抽象概念に留まっています。「励ましあう」も、「思いやる」も、「明るい」も、「元気な」も、「たくましい」も、これらはすべて情緒的な形容詞に過ぎず、子どもの日常において、具体的に「何が」「どのように」達成できたらこれらの目標が達成できたことになるのか、を実践プロジェクトの中で説明できなければなりません。具体的な「指標」や「態度」や「行動」だけが検証の対象になるからです。学校教育が多用する「豊かな心を育てる」というたぐいの目標が意味をなさないのは「豊かな心」では検証の方法も、指導の方法も具体的にならないからです。「豊かな心」は子どもの日常に即して彼らの他者をいたわる「態度」や相手を気遣う「言動」に翻訳された時、初めて指導と検証の方法が想定されます。もちろん、それらの「言動」が確認されたとしても、それが「豊かな心」の証明になるか、否かは、また、別の次元の問題です。 課題2 研究プロジェクトを通して導こうとしている児童の行動変容仮説の問題点 研究、実践を続けて行ったら、その成果として何がどのように変わるのか?「成果」を想定し、「そこに至る道筋」を示すことが研究プロジェクトの「仮説」です。学校の企画書には以下の「仮説」が列挙されていました。これらの仮説ではまだ「成果」の具体性がイメージできないでしょう。方法論も想定できません。成果を達成できたか、否かを検証することも困難でしょう。 1 「友達や地域の人々との関わりの中で、新しい見方・考え方を身につける」 (1) 上記「人々との関わり」とは学校が想定する具体的な児童の日常でどのような関わりを意味するのか? (2) 「新しい見方・考え方」とは具体的に何をさすのか?何がどのように変容したら「新しい見方・考え方」が身に付くことになるのか? 2 (児童が)「自分の考えや思いを理解してもらう」 「児童の思い」とは何か?「児童の思いを理解してもらう」とは「児童」がどうなればいいのか?誰が理解するのか?どのような場面を想定しているのか?仮説が具体性を欠く、とはこうした「問い」に答えられないということです。 3 「他者から認められる体験を豊富に持たせたい」 この時、「認められる」とは、「誰が」、「子どもの何を」、「どのように」認めることを想定しているのか?「豊富に持たせる」とはどのような場面を想定しているのか?体験のプログラムと頻度はどのように考えるのか?具体性とは指導順序や、そこから導きだされる子どもの言動を日常の生活に即して想定できることです。 4 指導仮説と結果を結ぶ「論理性」 上記1−3の活動を通ったとしても、子どもに期待する「心」が育つ必然性はありません。当然、因果関係の証明も論理的な説明も困難です。また、子どもの「自信」や「自己の可能性に対する信頼」や「自尊感情」を育んで行くことは十分可能ですが、指導仮説と児童の行動変容から論理的に説明することが不可欠です。指導仮説が期待された結果につながるよう活動カリキュラムの論理的な「設計」が不可欠である事は言うまでもありません。 5 安易に学力の向上は想定できない また、上記1−3の活動体験が廻り回って「学力向上」につながるか、否かも論理的な説明なしに期待することは出来ません。色々努力すればきっと「見えない学力」の向上につながり、「見えない学力」が基礎学力を向上させる筈だ、と言うだけではあまりにも教育効果の見方が楽観に過ぎるでしょう。たとえ、現行のテストが批判力や創造力の測定に向いていないとしても、読み書き計算の基礎学力こそは出来る範囲で具体的なテスト結果による証明が不可欠なのです。
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