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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第91号)

発行日:平成19年7月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. ふたたび朗唱発表会を見た!−新たな教育実践を始めるにあたって−

2. ふたたび朗唱発表会を見た!−新たな教育実践を始めるにあたって− (続き)

3. 「祭り」の思想を発明する-佐賀市立勧興公民館のまちづくり実験-

4. 熟年トレーニングの処方と評価

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

ふたたび朗唱発表会を見た!
−新たな教育実践を始めるにあたって−

  長崎県壱岐市の霞翠小学校の発表会以来、ふたたび子どもの朗唱発表会を拝見しました。世の中の縁に導かれて新しい教育実践に立ち会うことになりそうです。校長先生との協議に先立って学校が企画した朗唱の発表会にお招きをいただきました。以下はその感想です。新たな教育実践の発想の原点でもあります。

1 子どもの能力を過小評価してはならない

  拝見した子どもの朗唱や演技はそれぞれの主観においては,一生懸命にがんばりました。しかし、1歩引いて客観的に見れば,指導する側に、子どもの可能性を引き出そうとする意識と努力が足りないことは明らかでした。これまでの筆者の体験から推察すれば、おそらくは教師の側(ゲストティーチャーも含む)が「子どもの能力の可能性」を無意識のうちに過小評価しているのだと思われます。世の「英才教育」の成果を見て,我々はややもするとその子が特別の才能を持っているかのように錯覚を抱きがちですが、事実は「特訓」によって子どもの能力の可能性が最大限まで引き出された結果であることが多いのです。
  幼児の「遠足」を決めるとき、指導者の側が、幼児は5キロ程度しか歩けないだろうと想定した瞬間から、遠足は5キロ以内に設定されざるを得ません。朗唱も演技も同じです。その他の心身の能力の発達支援に付いても同じです。指導者が想定した範囲の中でしかプログラムが組まれないとしたら、多くの可能性のある子どもが発達の機会を逃すことになるのです。指導者の認識が如何に重要であるかが分かる筈です。暗唱能力一つをとっても,「豊津寺子屋」の1年生は「雨にも負けず(宮沢賢治)」を日英両国語で諳んじ、「夕暮れのときはよい時(堀口大学)」を諳んじ,俳句いろはカルタを諳んじるのです。夏休みが終わる頃には「論語カルタ」もふるさとをうたった短歌も諳んじることでしょう。筆者が朗唱を聞いた直感でいえば、発表会の子ども達には10倍の教材の学習が可能であり,必要だと思いました。

2  「型」の不在

  自由に表現するためには基本の「型」をマスターしていることが前提です。基本・基礎の重要性は武道でも学芸でも変わりはありません。言語が「文の型」から出来ているように,あいさつは作法や礼儀の「型」に始まります。
  発表会の子どものあいさつがバラバラで様になっていないのは,決して各人のあいさつが個性的だからではないのです。彼らの「姿勢」も,「発声も」、「文言」も基本のトレーニングが欠如しているからです。
  同じことは司会を担当した子どもにも言うことができます。司会には「シナリオ」の「型」が不可欠なのに、その「型」を習得していないのです。最小限人々に伝えるべきことはシナリオの「型」に含まれていなければなりませんが、教材の背景も,教材を選択した理由も説明がなかったのは、「司会の型」,「シナリオの型」が不十分だったためです。
  あらゆる表現は基本の「型」を踏んだ後に各人の自由な創造的試みに移行させることができます。「型より入りて型より出る(世阿弥)」という思想です。それゆえ,子どもの表現能力のトレーニングはまず基本を徹底することが重要です。発表会も,運動会も,その他のあらゆる表現発表も,幼少年教育の基本は「創造性」ではなく,それぞれの分野で基本に忠実な「型」をマスターしているか,否かを問わなければならないのです。

3  異年齢の共同行動が不可欠

  社会は異年齢の構成で出来ています。当然、人々は、異なった体験、異なった価値観、異なった人生の背景を有しています。それに対して多くの教師には、学校が極めて「人工的」な環境であることの自覚が足りないのです。学校が年齢別、学年別の指導構成を取らざるを得ないのは「知育」の宿命であることを忘れて,学校の状況が子どもにとってあたかも自然の状況であるかのような錯覚に陥るのです。
  学校は、年齢別に編成された「知育」の状況こそが社会の実態とは異なった特別の状況であることを理解しなければなりません。多くの知識が「初歩から上級」へ、「基礎から応用」への系統的学習を前提とする以上、知育は段階的に積み上げて行かざるを得ないのです。知育において,1年生と3年生を一緒に教えることが出来ないのはそのためです。
  しかし、礼儀も、作法も、掃除も、音楽も、遊びも、朗唱も多くの点で「知育」の一般的制約から免れています。換言すれば、指導の「段階」や「順序性」に縛られなくても良いところが多いのです。学校が社会生活の「予行演習」を引き受けることが出来るのはそのためです。事実、朗唱の中には異年齢の共同発表を多く入れることができます。異年齢の共同行動の中には「教育のモデル効果」が含まれています。優れた上級生と一緒にやることから下級生のレベルは確実に上がります。「手本に倣う」のは学習の原型だからです。「モデリング」と呼ばれるのがそれです。また、上級生の「モデル」の背後には背伸びする下級生が存在しています。下級生にとって,「おいて行かれない」ためには「がんばってついて行くしかない」のです。指導者による特別の指導が無くても下級生が「背伸び」をするのは極めて自然なのです。
上級生の魅力が下級生を捉えれば、「同一視」も自然に起こります。子どもは他者に敬意や憧れを感じた時、ごく自然に「憧れの人」のようになりたいと思います。自分の未来の延長に「憧れの人」を置き、「その人のようになりたい」と思った時、子どもは自発的に模倣の努力を始めます。子どもから見た場合,それが「同一視」です。「母さんのようになりたい」、「先輩のようにやってみたい」という憧れこそが子どもの努力を持続させるエネルギーになります。指導者に対する子どもの敬意がどれほど大事であるか,この一事を見ても分かる筈です。もちろん。「モデル」が悪ければ、模倣の結果も悪くなるのでモデルの質をコントロールすることは指導する側の責任であることは言うまでもありません。

4  一人一人よりは全体

  群読も朗唱も子どもの集団行動力を見るのが目的です。鳥や獣の集団行動と人間の集団行動の違いは,「本能」と「学習」の違いです。鳥や獣は先天的に遺伝子に組み込まれた本能的行動の度合いが大きく,逆に,人間の場合は後天的に学習した行動の度合いが大きいのです。
  「学習・体得」の度合いは両者の集団行動の根本的な違いをもたらします。人間の集団的行動は明らかに後天的に習得された行動であり、なかんずく、幼少年の集団行動は学習の成果です。換言すれば,教育抜きで幼少年は集団行動は取れないのです。
  教育は「ヒト科」の動物から人間への「社会化」が目的であり、なかでも集団と共同への適応が幼少年期の主たる課題です。人間の集団行動も共同行動も意志に基づいて習得された行動なのです。
  それゆえ、群読も、朗唱もまずは集団の一致した行動に鍛え上げなければなりません。どうしても個人の成果に注目するのであれば、大相撲と同じように,「優勝」か、「敢闘賞」か、「殊勲賞」か「技能賞」を創設し,各賞に値する子どもを選ぶのが基本です。
  また、子どもの集団行動の意味を軽視すれば、「風」の教育力を活用することは出来ません。「風」とは感化の力であり、心理学のいう「集団圧力」がもたらす「同調行動」を意味しています。子どもに限りませんが、人はみな自分の周りに吹く「風」に学ぶのです。集団圧力は集団の一致した行動から生まれます。集団の中で「みんなそうする」から,同調して、「ぼくもそうする」のです。人々を圧倒するその場の「空気」も、集団の「雰囲気」も、「家風」も「社風」も感化の原理は同じです。


 

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