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生涯学習通信

「風の便り」(第90号)

発行日:平成19年6月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. しつけを不能にし、教育を崩壊させる「子ども観」(教育公害を助長する「論理」と「実践」−その3)

2. しつけを不能にし、教育を崩壊させる「子ども観」(教育公害を助長する「論理」と「実践」−その3) (続き)

3. しつけを不能にし、教育を崩壊させる「子ども観」(教育公害を助長する「論理」と「実践」−その3) (続き)

4. 原点は「学習交換」

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

3 「教えること」より「構えを作ること」

  教師の力量が色々問われていますが、問題は「教えること」以上に子どもを「勉強する気にさせること」です。教育は「産婆術」とはよく言ったものです。子どもを産むのは女性であるように、知識、態度、技術を学ぶのは子どもだからです。先生の教授技術が多少へたくそでも子どもに学ぶ意欲と姿勢があれば授業は大丈夫なのです。「なぜ学校へ行くのか?」という「問い」に子どもが「勉強を教えてもらうためです」と答えていれば、教育の問題の大半は解決します。ところが子どもが「勉強を教えてもらう」目的を有していない場合には、先生が上手に教えなければ教育は成立しません。現代の学校教育の課題は子どもの学習の「構え」にあるのです。
  子どもの「構え」を放置しておいて、「教えること」に囚われれば、子どもの指導と教室の運営は何倍ものエネルギーと技術を必要とします。言い換えれば、子どもの「学習の構え」が出来ていないから「教える技術」に拘らざるを得ないのです。「名人先生」だけが授業ができるという現代の学校は異常です。
  学校の最大の課題は、多くの子ども達が「先生に教えてもらう」という気持ちになっていないのです。子どもがその気になっていなければ、普通の先生ではクラスをつかむことが難しいのです。指導主事の先生方は子どもへの教師の「発問」とか、指導を計画的に運ぶための「指導案」とかに拘りますが、授業を成功させる最大の秘訣は子どもと教師の社会的地位の違いを明らかにし、心理的距離を開けることです。それゆえ、個々の教師の努力だけでは達成できないのです。教室から学校全体、地方の教育委員会から文部科学省まで「指導者が上」で「先生の方がえらい」と師弟の位置関係を決めて、国民全部に周知することです。
  単純に、教師の方が児童より「えらければ」、大抵の授業は成り立ちます。心理的距離があるということは子どもが教師に対して、尊敬や憧れや畏怖を抱くということです。先生が遠い存在であったのも、怖い存在であったのも師弟に心理的距離があったからです。先生が畏怖の対象であれば、その存在は「社会的規範」を代表します。時には、「自分もあのようになりたい」とか「あのようにやりたい」と思うこともあるでしょう。そのためにこそ授業を開始するときの教師へのあいさつや礼節、授業に対するクラスの緊張感やそのための儀式や作法が大事なのです。
  心理的距離が開けば、「教えるもの」と「指導を受けるもの」の身分の「差」がはっきりします。教室に「師弟の平等主義」や「教師と児童の間の民主主義」を持ち込まないことが基本です。だから「児童中心主義」は有害なのです。法律上の「人権思想」を教育・指導場面へ持ち込むことはさらに危険なのです。
  愛情も慈しみも当然必要ですが、「幼少年教育」の原点は子どもを「ヒト科の動物」から「人間」にする過程です。「ヒト科の動物」のままでは共同生活はできないからです。人間に「する」は、「変える」と言った方が正確かもしれません。「変える」ためには現状を否定し、目標を設定し、変革の為の「中身」と「方法」が必ず問われるからです。小学校における「教えるもの」の任務と役割は子どもの個人差や子どもの欲求に関わりなく、「一人前」の「社会人」を育てることです。それは社会との契約であり,職業上の約束です。それゆえ、自らの任務と役割を達成する意志のないものは教師にふさわしくないのです。家庭教育がめちゃくちゃであっても,親は親であり続け,親を辞めさせることはできませんが、学校は社会から任命された「人間育成」の「請負人」です。教育行政も学校も人間育成の務めを果たせないときはこれまでの考え方を徹底的に見直してみることが重要なのです。
  筆者の提案は簡単です。先人達がやって来たように、教師・指導者に子どもよりは上位の身分を与え,子どもに尊敬の作法を教え,敬意と憧れの儀式を取り戻すことです。「仰げば尊し」はその「象徴」だったことでしょう。もとより,すべての,作法儀式は社会がこしらえた「擬制」であり、生身の先生がすべて尊敬や憧れに値するという意味でないことは言うまでもありません。

4 「お子様」は「他者」の子
  幼少年期の子どもの一番重要な特性は、いまだ「ヒト科の動物」だということです。教育の一番重要な任務は彼らを「人間」にすることです。学校、特に小学校は子どもを「個人」として考えたり、独立の人格として処遇してはなりません。「個人」も「独立の人格」も、一度相手をそのように遇すれば,彼らの立場は先生方と対等になります。「対等の立場」にある人間が相手を指図したり、強制したり,その欲求や願いを無視することは出来ません。ところが「指図」も「強制」も、時に子どもの「欲求を無視して」授業を進めることも教育の仕事なのです。相手は当然いやがるでしょう。先生は子どもより「えらい」のだという社会の約束は、子どもを「指図」や「強制」の屈辱から守るための配慮です。それでなくても「子宝の風土」の子どもは元々「宝」のように価値があり、「お子様」と称されるように「えらい」のです。子どもは宝であり、生活の中心であり,英語にも,ドイツ語にも翻訳のしようのない「お子様」なのです。戦後の教育は「風土」の特性を忘れて、学校の中心に子どもを据えました。それが「児童中心主義」です。学校の子どもを法律上の権利や人権思想の建前に翻弄されて、「教師」と対等に扱えば教師の指導は決して届かないでしょう。子どもを「宝」や「お子様」にしたまま、「指図」や「強制」を与えれば子どもが反抗するのは当たり前なのです。子どもを社会人にする教育的役割を請け負った以上、学校が権威を持ち、強制力を持ち、親と子に教育上の指示を出すのは当然なのです。
  一方、日本型教育の伝統を投げ捨てた世間の抑止力から自由になった親が、「子宝」の言いなりになれば、「家庭教育」が破綻するのも当たり前なのです。「早寝早起き朝ご飯」のようななんとも恥ずかしい運動スローガンがまかり通るのは「子宝の風土」の親が先人の知恵を忘れ、社会への義務を放棄して、むき出しの「我が子主義」・「お子様主義」をよかれと思って信奉しているからです。結果的に、親は一人前の社会人になりきれない「親不孝もの」の「挫折」によって不幸のどん底に叩き込まれることになるのです。少子化が止まるわけはないではないですか!!先人の教訓、世間の知恵を借りて、たとえ「子宝の風土」であっても、親は、子どもよりは「えらい」のだという身分差の「擬制」を打ち立てない限り、家庭は耐性のしつけも、共同の教えもできません。幼少年期に基本のしつけができなければ、思春期の子どものコントロールはほとんど不可能になることでしょう。かくして、家庭教育はますます破綻するのです。

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