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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第86号)

発行日:平成19年2月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「男女共同参画」−男の履修義務−

2. 「風」の教育機能−集団の治癒機能

3. 第75回移動フォーラム:子どもフォーラムin綺羅星7 

4. 第2回「ひとづくり・地域づくりフォーラムin山口」

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

第75回移動フォーラム:子どもフォーラムin綺羅星7
(於:島根県益田市、'07・2・17〜18)

◆1◆  初発集団(Initiative Gruop)のちから

  担当した報告の中で筆者はひたすら益田市長に向かって語りかけたつもりである。綺羅星7の大会が継続できた背景も、筆者が報告した「豊津寺子屋」も事業化も中核として関わった初発集団の力が何よりも大きい。しかも、初発集団の発想と理念がその後の活動の方向を決定する。綺羅星7の大会には沢山の人々が関わったことは見聞すれば分ることであるが、それでも初発集団を形成し,自らをブーフーウーと呼んだ大畑、渋谷、寺田3氏の力は大きい。残された課題は市長や教育長が彼らが作り出した民間活力の渦をどのように評価し、どのように活用するかにかかっている。
  少なくとも市長には子育て支援の取るべき方向と彼ら初発集団の存在の意義が通じたと信じている。

◆2◆  『遠足』の効用

  福岡から益田行きは遠出である。往復を列車の旅にしたのでまさに生涯学習フォーラム同人の"遠足"の気分であった。同人それぞれが限定された目標や目的の達成を目指して忙しく暮らしているが,遠足はそのような精神の緊張をほぐしてくれる。車による効率移動の中で忘れていた旅のくつろぎを思い出した。車中で廻ってきたお菓子も、一杯の珈琲も、昼食時にみなさんが喉を潤した地酒の「初しぼり」の雰囲気も遠足ならではのものであった。大会の一幕が終り、宿の一部屋に集合して四方山の話に興じるひとときも日々のそれぞれの戦いを和やかに反芻する良い機会になった。日常を離れて、少し距離をおいて自らを振り返る作業はわるくない。戦っている人間には休息が必要であり、戦っているが故に束の間、仲間と共にする休息の有り難さが身に滲みた。これまで福岡は大会にしても、フォーラム研究会にしても主催地であったが故に、各地の人々を迎えることはしたが、各地に積極的に出向くことはしなかった。福岡県立社会教育総合センターに依存してきたフォーラムのやり方と訣別することによってわれわれ"初発集団"は、今後、遠足や交流の楽しさを発見するだろう。「生涯学習移動フォーラム」の始まりである。

◆3◆  「教育公害」論の前の「教育論」公害

  大会の2日目は最後になってえらく疲れた。原因は大会エンディングの総括であった。筆者は次の出版執筆に日本の近未来の教育公害を論じるつもりであるが、綺羅星7の大会総括は、結果論としての「教育公害」以前の「教育論公害」の存在を自覚せざるを得なかった。担当したインタビューダイアローグの「司会」のなかで、筆者は懸命に子どもを一人前にして行くプロセスの方法と中身を論じてもらったはずであった。当然、議論の前提は、社会が「要求する」一人前の条件にどう子どもを導いて行けばいいのか、に集中してゆく。子どもの自立が期待通りに達成できれば、保護者の子育てに関する「負荷」を軽減できる筈であった。しかし、「総括」は子どもの問題は「子どもに聞け」という結論になった。なんたることか?子どもの「視点」に立って「一人前」への発達過程が論じられるのであれば、そもそも「一人前」の概念そのものが不要である。  
  社会で生きて行くための基準は社会が設定する。子どもが設定するものでは断じてない。子どもが興味を持とうが、持つまいが、子どもがやりたかろうが、やりたくなかろうが、やるべきことはやり、やってはならないことはやってはならない。この約束を守らなくても良いとして、放任すれば、社会は崩壊する。またまた「論敵」は大学教授であった。子どもフォーラムは現代の子どもが様々な問題に当面して様々な危機的状況を発生しているからこそ開かれたのであろう。今のままでは多くの「半人前」は「一人前」になれないのである。その時、子どもの視点のみを全面に出した大会総括者を選んだのは、大会を企画した「初発集団」の合意によるものであろう。ぶーふーうーの3人が口当たりのいい、"お涙頂戴"の教育論に毒されることのないことを切に祈りたい。社会の視点を欠落した「教育論」こそが「教育公害」の発生源であることを再確認した大会であった。

◆4◆  大切なのは「個別事例」ではない−事例を貫く「原理」と「方法」である

  大会最終のインタビュー・ダイアローグでは、日本人の知的能力が低下したのではないかと心配させる場面に出会った。それは個別の事例に振り回されて、事例を貫く「原理」と「方法」を見ようとしない発言者が目立ったことであった。
  出雲市の浜田満明校長の「学校主催の通学合宿」は合宿を語りながら「欠損体験」を補完することの重要性を説き、実施の過程における教師集団の創意工夫と挑戦の精神の重要性を説き、子どもの変容過程の仕組みを解明して、保護者が変わって行く過程を解説してみせた。力点は、プログラム展開の個別状況ではなく、プログラムを貫徹している理念的背景と方法上の「原理」を力説したのである。しかし、多くの参加者の発言は「原理」には反応せず、自己の思いや感情を告白し合って、仲間を発見し、人間関係の輪の中に入ることのできた母や子どもの個別のショート・ストーリーやエピソードに反応したのである。しかし、子育ての実質的作業は,ほっとしただけでは終わらない。自らの居場所を見つけても、子育ての緊張や負担感から解放されて一時的に救われたとしても,「一人前」の育成の任務も義務もまだまだ終らない。大切なのは「個別事例」ではない−事例を貫く「原理」と「方法」である。
  プログラムの終了後,登壇者から紹介されたエピソードに感動して感涙にむせんでいるお母さんに出会った。お節介かもしれないが,彼女の今後の子育てが心配である。登壇者の一人が指摘したように,「三つ子の魂百まで」のしつけに失敗したとしても,確かにその後の努力で「欠損体験」は教育的に補うことはできる。また,「親の思いは必ずしも子どもに通じるものではないのだ」,ということを会場のみんなと共有したとしても,「子どもに学ぶことをきちんと学ばせなくてもいい」ということにはならない。子育てにそんなに肩に力を入れなくても良いんだと慰められたとしても、あなたはこれから子どものトレーニングをどうするのか、という問いは残る。悩みを癒され,気持ちがほっとしても,発達支援の内容も,方法も何一つ学んではいないだろう。親を慰めるだけなら、カナダが発信元の「だれも完璧な親ではない(Nobody's perfect)」というプログラムと同じである。だれも完璧ではないんだ!みんな悩んでいるのだ!!私だけが子どもに思いを伝えられない訳ではないのだ!!!と多くの親の現状を追認することから出発する。現状はその通りであろう。
  しかし,これらの思いの再確認は子育ての悩みの出発点であって、断じて結論ではない。子どもの発達と成長の原理をいわず,子育ての方法と日々の養育行動の中身をいわなければ幼少年教育の改善はできない。ブーフーウーよ、登壇者の選択に留意してしっかりしてもらいたい!!子育て混迷、教育混迷のさなかに「教育論」公害の拡散は罪が深い。
 

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