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風の便り
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生涯学習通信
「風の便り」(第86号)
発行日:平成19年2月
発行者:「風の便り」編集委員会
1. 「男女共同参画」−男の履修義務−
2. 「風」の教育機能−集団の治癒機能
3. 第75回移動フォーラム:子どもフォーラムin綺羅星7
4. 第2回「ひとづくり・地域づくりフォーラムin山口」
5. MESSAGE TO AND FROM
6. お知らせ&編集後記
「風」の教育機能−集団の治癒機能 一年ぶりの「豊津寺子屋」の有志指導者の連絡会議を開いた。年間の活動評価と今後の要望事項を取りまとめ、指導チーム毎の研修・準備会議の開催補助金制度が創設されて指導者の皆さんの話が弾んだ。懇親・交流会のテーブルはそれぞれの指導チームの組み合わせで配置され、一年の苦労話に花が咲いた。筆者も複数のテーブルを廻って皆さんの提言と苦労話や感想を聞かせていただいた。夏休みに日常メニューの重点指導をして、月内のどこかで、「子どもの料理当番の日」を決めて家族の夕食は子どもが引き受けられるようにしたいという料理指導グループの企画に大いに賛同した。具体的な「家庭の教育力」支援とはそういうことを言うのであろう。学期初めに学校が雑巾をもって来るように指示するので、事前に裁縫の時間を設定して、子どもに雑巾を縫わせ、合わせて運針の基本を教えたいという手芸グループの抱負も聞いた。「単身赴任」や「定年後」に自分でボタンの一つも付け替えることができれば助かるよ!」という発言に「いくらなんでも心配が早すぎるよ!」と茶々がはいって,笑いも湧いた。 話はいつしか一年生のT君のことに移った。彼は寺子屋への途中入学生である。筆者は、彼の入学後一週間ぐらいの後に指導の機会を持ったが、Hiper Active(多動的)な言動に我が目を疑った。整列した「寺子屋」集団の列の中に立たせておくことがそもそも容易ではない。筆者はいつものように、正しい姿勢を強制し、尻を叩き、大きな声も出した。しかし、T君の姿勢は10秒も持たない。担任の苦労が目に浮かぶ。自己コントロールがほとんどできない以上、学校の授業に参加することはまず不可能であろう。寺子屋の指導はこの子一人のために崩壊するのではないか、という不吉な予感も持った。 直立できない。姿勢を保つことができない。集中できない。指示が通らない。筆者の説明を30秒も聞くことはない。奇声を発する。「寺子屋4か条」の心得の宣言から「雨にも負けず」の朗唱まで、仲間が何をやっているのか分かっているとは思えなかった。その結果、集団行動はほとんど全く取れなかったのである。 しかし、その後,彼はめげずに毎日「寺子屋」に来ているという。日々、指導と事務連絡のために寺子屋へ詰めている寺子屋主事さんの一人から彼の言動に著しい変化が現れてきているという報告があった。別のテーブルのもう一人の主事さんにも、更にもう一つのテーブルにいた男性の有志指導者にも確かめてみたが、T君の言動の進歩の事実は間違いない。 今では「直立・気を付け」ができるようになり、列を乱す行為も明らかに減少した、という。奇声は時々発するが、指導者の注意に耳傾けるようになってきたという。「雨にも負けず」の朗唱にも参加して、口を開け、声が少しずつ出ているという。ドッジボールのやり方が分かって面白がって参加するようにもなった。何よりも縄跳びが少しできるようになり、動作は不器用であるが、大縄跳びにも他の子どもといっしょに飛び込んで遊ぶことができるようになってきているという。最初に跳べた時は満面の笑みを漏らして、「お母さんに見てもらいたい」と言ったんです、と主事さんはかすかに涙ぐんだ。 寺子屋は「型」をしつけている。背景の理屈は分からなくても,子どもの言動は「型」にはまって行く。それゆえ、早い、遅いの差はあるが、大部分の子どもが初めは「できなかったこと」も少しずつ「できるようになってゆく」。原理は教育の3原則である。「やったことがないからできない」ということは「やらせればできるようになる」ということである。「教わっていないから分らない」ということは「教えれば分かるようになる」ということである。「練習が足りないから上手になっていない」という現状を打破するためには、「手本を示し」、師弟同行で体験的に指導し、応援の言葉を繰返しながら反復練習を厳守するしかない。 しかし、「型」の習得といえども,習得の「前提」は子どもの「学ぶ能力−学ぶ条件」が「機能している」ことである。時と所をわきまえず奇声を発し、整列ができず、指導者の指示が聞けない子どもはこの「前提」には入っていない。当然、そのような子どもには「体力」も、「耐性」も鍛えることは難しく,そもそも学ぶことの基本条件が整っていない。筆者の見る限り、T君は寺子屋の指導の「前提」の範囲外であった。 嬉しい限りであるが、T君の進歩は予想外・想定外である。寺子屋における整然たる集団行動がもたらした治癒機能の結果である、と想像している。指導者の先生方の親身な励ましの賜物でもあろう。そして何よりも集団を形成する他の子どもたちの「集団圧力」がT君に巧まざる「感化」の力を及ぼしていると考えられる。寺子屋に意図的に「吹かせてきた風」にT君が学んでいるものと考えざるを得ない。寺子屋は指導者の目が届く中で「みんなそうする」のである。個々の子どもはみんなの行動や思いに適応して「ぼくもそうする」のである。今後、彼が他の子どもと同じように集団に自らを合わせ、集団の行動規範に適合して、自分を律することができるようになれば、予想外の教育の福音である。 長崎県壱岐市の霞翠小学校の子どもがなぜこの"軟弱な"教育風土の中で50数キロの鍛錬遠足に耐えうるのか?島根県出雲の浜田校長の指揮する通学合宿の子どもたちが波風や潮の流れと戦いながら「サバニ」の「荒行」に耐えうるのか?答えは同じく,先生方が作り上げた「集団の質と風」の中にあるのかもしれない。
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