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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第82号)

発行日:平成18年月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. Active Senior −熟年の危機と生涯学習の処方箋−

2. 学社「連携」の「片務性」、学社「融合」の空論

3. 保護者は何を見たか? 夏学期「豊津寺子屋」保護者調査の集計と分析

4. 第71回フォーラムレポート

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

学社「連携」の「片務性」、学社「融合」の空論

1  学社連携の「片務性」

  2月に行われる山口県の第2回人づくり地域づくり大会は「学社連携」と「学社融合」を取り上げる。筆者もプログラムの一翼を担うことになっているので事前に問題点を整理しておこうと思い立った。
  「学社」の「連携」や「融合」があるかのような前提で議論に入ることは間違いである。「連携」は学校による一方的利用に終始し、「融合」は何度か論じたように空論である。「連携」は言葉の真の意味で「連携」ではなく、「融合」はスローガンだけでその思想を実現したモデルは寡聞にして知らない。
  寄生動植物の中には片務的な寄生と双務的な寄生があるという。寄生は寄生する動植物にとって意味があることはもちろんであるが、時には寄生される動植物の側にとっても大いに意義のある場合がある。それを双務的寄生という。この場合は「寄生」というよりはむしろ「共生」と呼ぶべきであろう。「学社連携」論も同様の視点から点検すれば事の本質は当然「双務性」であり、「共生」である。人間社会の連携を問う以上、連携する組織・機関間の関係は「支配」・「依存」・「一方的利用」を「連携」とは呼ばないであろう。「連携」である以上は支援も貢献も双方向でなければならない。したがって、学社連携をいう場合は学校の地域貢献、地域の学校支援を具体的に問わなければならない。学校が社会教育や地域資源の恩恵を受けていることは明らかであるが、学校が地域に貢献している実例は極めて少ない。現状では、学校は、同じ学校の子どもの放課後や休暇中の活動にさえ施設利用の門戸を開こうとはしない。論じられている学社連携の大部分は「双務性」を欠如し、学校からの地域貢献は皆無に近いのである。

2  「学社融合」の空論

  「融合」の問題はすでに何回か論じた。どの辞書にも「融合」の定義が出ている。説明の核心は『異なった「もの」が「溶け合って」「新しいもの」が生まれる』、というものである。それゆえ、どの視点から見ても、「学社融合」というスローガンのもとに新しいものは生まれていない。「新しいもの」とは学校教育機能とコミュニティ教育機能が同時に発揮できるような組織やシステムを生み出すことに外ならない。
  かくして、「連携」も「融合」も空文句の謗りを免れないのである。
  折しも、次年度から文部科学省と厚生労働省の合意に基づき、少子化防止、育児支援、男女共同参画の推進、教育と福祉の連携あるいは統合、活動拠点の確保など様々な課題を背景として「放課後子どもプラン」が始まるという。前宣伝のとおり真に公立学校に子育て支援活動の拠点機能を担わせることになるのであれば、戦後学校教育システムの最も重要な革新となる。賞讃に値する。学校が地域の教育活動の拒点となることは、学校施設の学校による占有が終り、学校資源の共有・開放を始め、様々な双務的連携に道を開くことになるからである。「放課後子どもプラン」の構想は地域の学校支援と合わせて学校の地域貢献のあり方を問うことになるが、それができれば初めての「融合モデル」に道を開くことができる。しかし、果して「放課後子どもプラン」がいう学社の融合や、社福の融合を行政は実現できるのか?慢性病に近い学校の閉鎖性や行政の縦割りは打破できるのか?
  「放課後子どもプラン」は「プログラムの中身を問う。プログラムを問う以上は、当然、その指導方法も問われる。当然、放課後や休暇中の活動が社会教育/健全育成事業だとすれば、その成果も問われる。必然的に、子育て支援組織と学校との連携も問われる。そこから交流や交渉や相互批判が生まれることであろう。教育の活性化の第1歩が踏み出される。だからこそ難しいのである。厚生部門は「学童保育」の既得権を放棄することに抵抗し、教育行政は労を惜しみ、学校は無関心を通すのではないか?
  特に、1970年代以来、女性の就労が増加し、「かぎっ子」が巷に溢れた時代、子育て支援の要請が緊急であったにもかかわらず、自らの学校の子どもにすら、行政システムの分担の違いを盾にして、施設開放を拒否して来た学校と教育行政の「不作為」を打破できるのか?疑問を持っているのは筆者だけではないであろう。「放課後子どもプラン」の可能性も限界も現行の教育、福祉両行政部門の時代認識と実行力にかかっているのである。いじめであろうと子育て支援であろうと問題教員への対応であろうと行政の「不作為」は行政では解決できない。蛮勇を奮った政治家のリーダーシップを願うばかりである。

3 A小学校との訣別−「片思いの失恋」

  A小学校のプロジェクトと訣別した。筆者の学校への「片思いの失恋」であることに気付いたからである。筆者の「恋」は学社連携への恋であり、コミュニティ・スクールへの恋である。長崎県の霞翠小学校のモデル事業に続いてA小学校の学社連携・家庭教育推進を実現するため、わくわくして顧問の仕事を始めた。しかし、率直に言って学校は学社連携には興味が無い。学校敷地内で行われている「学童保育」との協働は恐らく考えたこともない。現状の学校には欠損体験を補完する多様な社会教育の手法が不可欠であるが、手法はもとより、新しい実験にも、挑戦にも意欲は薄い。今回の試みには教育事務所が噛んでくれたが、学校は平気で独自スケジュールをきめる。昨年、友人の教育長に生涯学習の大会の講師をお願いしていた時、ある学校が教育長に何の相談もなく50周年記念事業の日程を決めて教育長を拘束したことがあった。当然、教育長の大会出演は不可能になった。恐らく、学校という組織は外部機関との「連携」を配慮する気遣いをしたことがないのであろう。筆者も先約を変更して学校のスケジュールに合わせたが、今度は当方からお断りすることになった。かくして、生涯学習施策はいまだ学校への片思いが続いている。校内に2〜3人の理解者がいただけでは学校組織は動かない。
  要は現行の学校教育では、教育事務所の「生涯学習課」が噛んだとしても、「学校による」「学校のための」「学校だけをよくしようする」「片務的」な発想の枠を破ることはできないのである。それゆえ、社会教育を専門とする筆者の役割は無い。筆者に残された時間も少ない。「片思いの恋」は辛い。当方から学校への未練を捨てて顧問職を辞任した。残念であるが縁が薄かったと断念せざるを得ない。したがって「風の便り」紙上で予告したA小学校の学校発表会には筆者は関わらないことになった。
  誤解のないように付記するが、A小学校は優れた学校である。運動会の予行演習に付き合ったが、児童の演技は先生方の努力が実って生き生きとしたものであった。保護者の評価も高かったと校長先生からご報告もいただいた。発表会も間違い無く立派なものになるであろう。
  しかし、筆者の役割は普通の学校を学校教育概念の枠の中で立派な学校にすることでは無い。「連携」の理念に基づいて、双務的に地域の学校支援と学校の地域貢献を同時に遂行する生涯学習システムとしての学校モデルを提示することである。
  しかし、「豊津寺子屋」の実践で学んだように、町長の指導が行われるまで学校は放課後の子どもに施設を開放することすら拒否するのが実態である。当然、「地域貢献」などほとんど考えてはいないであろう。恐らくはその閉鎖的な慣行に鑑み、地域からの学校支援を受け入れることさえ考えてはいない。
  学社連携も、学社融合の概念も学校内では未知に近く、死語と同じである。優れた学校であってもそれが実態である。フォーラムレポートに紹介した公民館主事が常駐する福岡県須恵町の「コミュニティ小学校」のシステムなど想像もできないであろう。もちろん、須恵町の「コミュニティ小学校」ですら、社会教育行政が学校施設を生涯学習の視点で共同運営しているだけであって、学校本体はやむを得ず「軒先き」を貸しただけであろう。筆者の「片思い」も、生涯学習の理念倒れも続いているのである。

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