忘れられた被害者
「迷える子羊」と「残された子羊」
現代の子どもを論じているうちに、参加者の議論の焦点が荒れた中学校の話になった。いつもの事だが、教育に熱心な方々の声が大きく、荒れの中心となっている子ども達をいかに導くか、が話題の主流になる。「迷える子羊」を救うことが理想である以上、当然と言えば当然であるが、「残された子羊」のことは考えなくてもいいのか?筆者の発想とアプローチは人々の教育論の主流とは異なるのでなかなか発言しにくい。なぜ議論はいつも逸脱行動に走った子どもをどうするか、というところで堂々巡りを始めるのであろうか?不幸な少年に対する「教育的努力」が足りないという議論に間違いはないとしても、いつまで無限の努力と情熱を傾ければいいのだろうか?その間、荒れた学校や、授業が滞ったクラスにはどう対処するのであろうか?「荒れ」の被害者に対する議論をしなくても良いのだろうか?
「履修主義」の矛盾、「履修義務」の呪縛
議論は、不幸な少年を立ち直らせるに足る教育的情熱と努力が不足しているというとこへ収斂する。確かに、現代の学校には不幸な少年を突き動かす情熱も、努力が不足しているかも知れない。しかし、教育や教員にどこまでを期待しているのであろうか?当日の会合でも、1年の長きに亘って、非行をくり返す少年の家庭訪問を続けて、少年を立ち直らせた、という立派な先生の経験談が語られた。しかし、そうした優れた教育者の努力をすべての現代の教員に期待することは無理であり、理不尽でもあろう。ここでもまた「荒れ」の被害者は忘れられている。優れた教員が、たゆまぬ家庭訪問を続けていた1年もの間、真面目に学業に励んでいた子どもの事は考えなくていいのだろうか。「荒れた子ども」を立ち直らせるという発想だけでは、「被害者」を守る時間と努力がなおざりになるのである。もちろん、当の少年の状況如何によっては、時間をかけても、ありきたりの教育的努力を続けても、問題は容易には解決しない。
唐突ではあったが、学校が適切に処罰できない以上、非行の程度によっては社会のルールに照らし、警察に通報して問題の少年を法的に補導すべきである、と筆者は発言した。一瞬、会場の空気がしらけるのが良く分る。そのようにして事態を打開した事例も知っている、と追加したら空気は険悪にさえなった。"それは極めて消極的な方法ですね!"という感想が出た。会場の半分以上の方々が発言者に心情的に同感のようであった。しかし、果たしてそうであろうか?私は辛うじて"皆さんのお子さんがその荒れたクラスの中に居たと想定しても、「消極的」な方法だということになるでしょうか?"と発言した。会場の空気は一瞬沈黙したが、ますます気まずくなったような気がした。
少年の中学校への不適応の多くは中学に入って始まったことではない。学業の遅れも、しつけの不十分さも、小学校以来の長い時間の蓄積がある。少年を取り巻く生育環境に問題があったとしても、少年の客観的な状況を教育で変えることはできない。少年を立ち直らせる教育的対応が簡単であるはずはない。更に、思春期は子どもの身体が変調する。ホルモンの分泌も変わる。身体も大きくなる。暴れれば親の手にも、教師の手にも負えない。非行をくり返す彼らに規範意識が確立していないことは歴然としている。しかし、義務教育は履修主義を原則とするので、小学校の課程が分かっても分らなくても所定の教科を所定の時間「履修」しさえすれば、進級させる。その付けは中学でやってくる。厳しい受験勉強が始まる中学で分らない授業に静かに坐っていなくてはならない少年の苦痛は想像に余りある。"やっていられるか!"とも思うであろう。しかし、義務教育の前提が「履修」の義務である以上、どんなに退屈でも、"やっていられなくても"少年には授業に坐っていることを要求する。多くの少年にとって中学時代は「履修主義」の矛盾と「履修義務」の呪縛が同時に吹き出すのである。
「外科的」対処法
現実の問題を考慮して、少年法の適用年齢を引き下げたのは社会にとって非行少年の与える損害が甚大だからである。多くの問題の実態を見れば、評論を重ねても、教育的理想のきれいごとを並べても解決は難しい。教員の対応の熱意や情熱が不足しているとか、保護者と学校の協力を一層強めるべきであるというだけでは、ほとんど何も解決しないことは論議をしている方々も御存知のところではないだろうか?
荒れた中学校や、荒れた高校を、荒れた少年たちの内面を変える「内科的な」教育手法で治療するのは至難のわざである。にもかかわらず多くの皆さんの関心は荒れた中学生の「指導」のみに集中しているように感じる。私の関心は荒れた子どもの非社会的行動によって正常な学校生活、発達上の大事な季節の学習を妨げられている残りの生徒にある。議論の推移を見ても、彼らは「忘れられた被害者」である。したがって、「被害者」を迅速に守るためには、ルールに則った「外科的な」強制措置を遂行するしかないのである。その典型は「修得主義」で運営される高校にある。高校の対応の原則は外科的である。高校は履修主義でもなく、義務教育でもない。単位を取らなければ卒業できないのは、修得主義である。定められた学業の中身を修得したか、しないかが問われる。単位の認定は修得の証明である。それゆえ、高校では、原則において、単位修得の意志の無いものは学校を去らなければならない。事実、他者の学業を妨げ、ルールに著しく違反する者は「退学」にするであろう。荒れた中学が荒れたままで放置される状況が目だっても、荒れた高校があまり表面に出て来ないのは「退学」という「外科的な」措置が行われているからである。
疑問をもたない疑問
義務教育には重大なルール違反に付いても強制的な処罰規定がない。他者に重大な迷惑をかけても処罰されないという点で現代の学校は根本的に一般社会と隔絶している。いつもメディアを賑わすように教師による体罰は、いかなる形態であっても、全面的に禁止されている。しかし、自らの少年期を思い出しても、厳しく叱られたことが何回もある。子育て体験を振り返っても、「半人前」の子どもたちは「半人前」であるが故に、故意であろうと、でき心であろうと、さまざまなルール違反や危険を犯す。体罰を含めて、厳しく叱った思い出もある。「強制による教育」の経験のない方々は幸福なのであろうが、そうした人々を基準にして教育の原則を決めるわけには行かない。なぜなら、少年の「逸脱」にも、「非行」にも必ず「被害者」がいるからである。社会や学校が「非行」を放置すれば、被害者の恐怖も、迷惑も無視される。「忘れられた被害者」は荒れた学校の裏側である。そのことを人々が論じないことに疑問を持たなくてもいいのか?私には「被害者」が忘れられて議論の対象にならないことの方が疑問であった。
物理的な処罰を禁じられている以上、学校内の非行には通常「説諭」以外には手の打ちようがない。荒れがひどくなって来ても、警察に通報するなど学校外の機関と連携することも稀である。日本の教育界は、かつて体罰と事故によって世間を騒がせた「戸塚ヨットスクール」を葬って以来、誰も荒れた少年に対する「強制的処方」は出さない。裁判の経過とマスコミ報道を通して、「戸塚ヨットスクール」は「反教育的」、「非人間的」、「非民主主義的」の象徴となった。しかし、事故の責任と事故に至る不注意は裁かれるべきとしても、戸塚ヨットスクールが提起した問題は今も生きている。その原理は「強制による教育」である。荒れた中学が荒れたままで長い期間放置されるのは「強制による教育」をためらうからである。犯罪者を収容する少年院以外、戦後日本は少年に対する「強制による教育」を拒絶してきた。常識的に考えても、少年は突然犯罪者になるわけではない。彼らの日常が「逸脱行動」に慣れ、他者を顧みない非行の反復と増幅が犯罪につながって行く。それゆえ、教育には段階的アプローチが必要である。突然、少年院の「強制による教育」に至る前に、「忘れられた被害者」を救うための「強制による矯正」は必要ではないのか?筆者の発言が理解を得たとは思えないが、言いたかった事はそういうことであった。前にも書いたが、行政のトップも、反「戸塚ヨットスクール」の評論家も、自ら一度荒れた中学の教壇に立ってみることである。少年とは言え、暴力を振るうことをためらわず、ルールをルールと思わない非行の前では教育がいかに無力であるか、知らないふりは許されないのである。
人権問題の断片−原因と結果−
まだ先の事だが友人から人権問題を網羅的に考えるという講演の依頼が舞い込んだ。依頼の主旨を見て気付いたことがあるので、忘れないうちに感想を書き付けたのが以下の「断片」である。折から政治の場では「人権擁護法」の案が審議されている。擁護すべき対象が異なり、人権「侵害」の種類と原因が異なり、社会での発現形態が異なる問題をどのように法律にするのであろうか、と考え込んでしまう。
依頼の文章には、「男女共同参画、高齢者、子育て支援等の実態に鑑みて、人権の問題を総合的に考える場にしたい」とあった。当然、障害者差別、部落差別、外国人差別の問題も含まれるのであろう。これらは果たして一律「総合的に」論じられる問題なのであろうか?もし「総合的に」論じる事が難しいとなれば、一体、検討中の具体的な法律はどのようなものになるのだろうか?
近年、公平/平等の視点から社会を見た時、人権問題にはさまざまな対象者がいることがはっきりした。また対象者の違いによって具体的な人権「侵害」の種類と原因が異なることも明らかになったように思う。上記のように複数の対象者を並べてみると、具体的な問題が浮かび上がる。女性の人権をいう場合の主たる「侵害者」は女性の権利や役割を対等に認めない日本社会の「文化、伝統、しきたり」であり、そこから派生する制度や男性の側からの「制約」や「暴力」が代表する。「DV法」や「男女共同参画社会基本法」の中身を読めば明らかであろう。これに対して高齢者の場合の深刻な現象は「虐待」であろう。その原因は老衰に伴う「ボケや痴呆」の結果、通常の人間機能や感情的反応を失った高齢者が介護などの場で人間として遇してもらえないという問題である。麻薬防止のポスターに、「クスリ止めますか、それとも人間止めますか?」とあったが、通常の人間反応を失った高齢者は、「人間を止めてしまった人間」と受取られているのではないか?痴呆老人の虐待は、高齢社会が量産しつつある全く新しい問題である。障害者の場合も、原理的には高齢者の場合と同じく、障害に伴う「機能不全」と障害者が実生活に於いて社会に依存せざるを得ない状況が「見下し」の差別を招くのであろう。
子どもの場合も明らかに依存的存在である。子どもの「虐待」が象徴するように、子どもの人権侵害は、端的に「育児の放棄」と「暴力」と「いじめ」に現れる。同和問題や外国人差別は歴史や文化や人種の違いがもたらした「制度的不平等」や結婚差別に代表されるような「忌避感覚」であろう。こうしたさまざまな違いがある以上、これらの不公平・不平等を統一的概念で表すことは極めて難しい。日本語にはいまだ適切と思える総括的表現が発明されていないが、英語が言う「社会的に不利な条件におかれた人々:the
Socially Disadvantaged」がそれに近い。
振り返れば、「混血」の子どもを育てて来たプロセスでいかに日本社会の「画一性」と衝突したか、近年、改めて思い出している。人権問題の真の原因は社会が有する異なった人々への想像力の不足である。人権を巡る政治的対立や軋轢は言わないとしても、女を見下す人権主義者がいたり、外国人を毛嫌いする平等論者が出るのも所詮は多様な立場への想像力が不足しているのであろう。
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