社会復帰の"実践的"処方箋
1 挫折からの再出発
過日、子どもさんが仕事上挫折をして、休職して家に引きこもり状態になった母上にお目にかかった。そのご心配、困惑、悲しみは母の頬を伝う涙が何よりも雄弁に物語っていた。
筆者の発想は現行の教育界のカウンセリング発想とは大いに異なる。したがって、世間の常識とも異なる。聞いたお話に対して思うところはあったが、具体的な助言は控えた。一度に筆者の考えを理解していただくことは難しいであろうと判断したからである。
しかし、事実は単純明解である。現実社会に挫折した若者の社会復帰の処方箋は、若者の出来るところまで引き返した上で、新しい『「活動実践」を始めるしかない。大学改革に失敗して、職を引いて以来、自分自身が苦しんだ「自由の刑」からの脱出も同じような状況であった。社会の「無用物」と化した自己の挫折感と無力感から復帰するためには、自分のやれる範囲の社会的活動の中に再び回帰するしか方法はない。当該の若者もしばらくは心身を休めようとするであろう。しかし、身体は休めても、心は休まらない。それが挫折である。再出発のためには、社会の役割を引き受けて、他者の為に自分の責任を果たすよう活動に復帰することである。この一文をお送りして母上が多少の共感を示されるようであれば、活動の場所と機会を紹介したいと考えながら綴っている。
2 「負荷」の基準
個人には体力や体質やそれぞれの違いがある。いわゆる「個体差」である。体力や体質は現象的に観察がし易いので、分かりやすい「個体差」である。これに対して「気質」や「耐性」は外見や現象からではなかなか判別が難しい。あくまでも相対的な意味であるが、身体的個体差に比べて、精神や気性の特性は見えにくい「個性」である。この「個体差・個性」こそが挫折や不登校の裏の原因である。表の原因は、いうまでもない。本人の能力を越えた課題の「困難性」である。したがって、挫折から立ち直る予防法は二つある。一つは己の能力を越えた困難な課題を避けることであり、他の一つは己の能力を向上させることである。
通常の挫折は困難や無理が祟ったのである。状況の困難が原因となって、日常の心身のストレスが重なると身動きが取れなくなる。一般的には、「無理が祟った」のである。しかし、もう一つの見方をすれば、個体が「無理に耐えるだけの強さ」をもっていなかったのである。「無理が祟った」と言う見地に立てば、「無理をしない」事が解決法になる。
逆に、本人の個体が「無理に耐え得なかった」と言う見地に立てば、鍛練不足の「弱い個体」こそが問題の原因である。
いずれの場合もそれぞれの個人が耐えうる「負荷」の基準によって診断も処方も変わってくる。鍛練によって個人が耐え得る「負荷」の基準は大幅に移動する。生涯スポーツや少年の教育が大事なのはそのためである。それゆえ、挫折を回避するためには、「無理」や「負荷」に耐えうるだけの体力、体質、耐性、気質を養わなければならない。困難を回避するだけでは挫折から立ち直ることは出来ない。ましてカウンセリングの言う「積極的傾聴」によって、相手の気持ちを分かってやったとしても、それは相手の現状を「受容」し、肯定しただけの事である。そこから当事者が解決に向けて歩き出せる保障はどこにもない。カウンセラーは、「そうだったの」とか、「分かるわ」とか「辛かったのね」とか、積極的傾聴によって相手を受け入れる。しかし、次にどこに向かって行くのか?不登校も、引きこもりも解決が難しいのは、「受容」したあとの行く先が不明だからである。
3 「守役」に預けよ!
少年の場合、保護者にはお気の毒であるが、子どもがすでに不登校や引きこもりに陥った時、保護者では治療は出来ない。何故なら、不登校の原因は、子ども自身、保護者自身だからである。並み居る保護者の前でこれをいうのは辛い。苦しんでいる保護者がいることを思えばさらに辛い。しかし、「子宝の風土」においては、原理的に、保護者は不登校の"治療"には向かない。不登校は保護者の養育の信念が原因である。「子宝」の過剰な保護が原因である。子どもの欲求を過剰に受容し、子どもの意志を過剰に尊重したことが主たる原因だからである。子どもを大事にすることが保護者の信念である以上、保護者の養育方法は簡単には変わらない。それゆえ、保護者の手厚い保護の現状の中から子どもが自立を達成することは極めて困難である。
子宝の風土においては、子どもの自立は世間に頼み、他者の指導にゆだねると決まっている。それが「可愛い子には旅」の思想である。「他人の飯」の実践である。具体的な実行役は、伝統的に「守役」と呼ばれてきた。「苦しんでいる家族」には、わが子を他人に、それも厳しいトレーニングを請け負ってくれる他人に預けよ!と助言すべきである。「他人の飯」を食わせよ、とは子どもの思いや意志を聞くな、ということである。「他人」の下ではわがままも、勝手も言えない。引き受けてくれる他人は、制度的には、「ご養育係」であり、「守役」であり、「めのと」であり、「乳母」であり、「指南役」であり、「師匠」であった。日本社会の現在の不幸はそうした「守役」が身近にいないことである。個別の例外的教員は別として、今の学校では「守役」にはなれない。学校もまた、保護と受容の理論で子どもに対処するからである。不登校や引きこもりに対して、学校カウンセラーを増員するという施策くらい的外れな資源の使い方も珍しい。カウンセラーが機能するのは教育(養育)する側に明確な「社会の視点」がある場合のみである。「子宝」の風土には、「社会の視点」が欠落し、「子どもの視点」だけが充満している。結果的に、日本社会は、子どものわがままや勝手を過剰に受容する。選択が許されるのであれば、楽な方に流れるのは人間の常である。過剰な受容のもとで、わがままが許されれば、子どもが困難な課題に立ち向かうことを期待するのは不可能を求めているのと同じである。
4 過剰な「受容」の副作用
子育ても、学生指導も、人間関係も、「受容」には限度が必要という点では同じである。「受容」は、傾聴と、理解と、支持と、同意を表す。それゆえ、「受容」が過ぎれば、「わがまま」と「勝手」を増殖する。相手が自分を「受容」してくれることを前提とすれば、「自分を受容しない相手」を「自分を愛していない」証拠だと受け止める。「話を聴いてくれない相手」を「冷たい」と判断せざるを得ない。それゆえ、相手の「弱さ」や、「わがまま」や、「勝手」を承知の上で「受容する」のは必ずしも愛情ではない。子どもをダメにするのは、簡単である。子どもの要求を全部聞いてやることである。それだけで子どもの耐性も、社会性も一気に崩壊する。過剰な受容は、時に、偽善、時にアンフェアーである。時に放任であり、過保護であり、無分別でもある。それゆえ、残酷である。この種の「受容」が続けば、「受入れないこと」は「愛していないこと」と同義になる。「聴かないこと」も「愛していないこと」になる。自分の要求が通らない時、親も先生も分かってくれないなどと「半人前」がうそぶくのは明らかに「受容」の過剰の副作用である。
挫折は「自信」の喪失である。挫折からの復帰は自分自身が「自信」を取り戻さなければならない。そのためには自分の可能なところまで活動のレベルをさげた上で、再び活動の中で「自信」を取り戻して行くしかない。過剰な受容の副作用を取り除き、「自信」を取り戻すためには、本人の選択の余地なく親元を離すことである。守役としての「他者に預けること」。活動のレベルをさげて、「社会への貢献を自身で証明すること」。そのための応援と助言と拍手を欠かさないこと。処方箋はこの3点である。換言すれば、「他人の飯」を食い、己の存在価値を実感し、世間の承認を得ることである。
母上がこのことを理解した時、筆者にも挫折した若者に対するささやかな提案がある。
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