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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第61号)

発行日:平成17年1月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「主体性」の原則と謙譲の美徳 −ボランティア文化の異質性−

2. "シリアスゲームジャパン"

3. 部分課題から全体課題へ−教育課題から政治課題へ−

4. 第52回&第53回生涯学習フォーラム報告

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

部分課題から全体課題へ−教育課題から政治課題へ−

  日本経済新聞は今年の元旦号から「少子化」問題の特集を組んでいる。以後毎日少子化に関する各界の意見や調査データーを掲載した。子育て支援は今や教育・福祉課題から社会全体にまたがる政治課題となったのである。ようやく事の大きさが分かって来たということであろうが、問題の核心はなぜこのような状況を招来したかについての分析と処方が正しいか、否かである。日経は政治問題化した少子化の状況を1面トップで、「さあ 国も会社も男も女も」という大見出しで表現し、「衰退の足音」が聞こえるので「少子に挑む」ニッポン大転換の時であると中見出しの活字が踊っている。  

■ 1 ■  廃校2千

  この10年で廃校になった小中高校は2千を越したという。当然、廃校にならない学校の教室にも空きができたはずであろう。だったら、それらの空き教室は子育て支援のために使われているのか、記者は取材するべきであろう。57号に「教育の無い保育」と「保育の無い教育」という一文を書いた。文中に朝日新聞の「学童保育の施設整備追いつかず」という特集記事(2004.9.15)を引用した。児童数が激減しているのに、学童保育の活動施設が足りないはずはない。学校を活用すればいいのである。記者の認識は厚生労働省が管轄する「学童保育」という既存事業にこだわっているため、地域全体で子育て支援をどう進めるかという全体構造図が見えないのである。文部科学省と厚生労働省の行政の縄張りを打破すれば、地域に資源は十分存在するのである。無関心な世間は当然気付いていない。新聞もテレビも一度くらいは、学校施設を含む教育資源の開放キャンペーンを打ってみてはどうであろうか?
  どこの町でも筆者と自由に話すようなった社会教育の関係者は学校のかたくなな姿勢を批判する。昨今ようやく日の目を見た「学社連携」のスローガンもほとんどすべてが学校の都合に合わせた「連携」である。社会教育の都合で学校資源を開放することは稀であり、教員が関わることはほとんど無い。もちろん、「学社融合」などは社会教育の実践をしたことのない学者が作った「絵空事」の概念である。「融合」の結果、これまでの学校とも、これまでの社会教育とも異なったより次元の高い新しい何かが生まれたという事例は全国を探してもないであろう。

■ 2 ■  教育における「保育」の欠落、保育における「教育」の欠落

  表記のテーマもすでに紹介済みであるが、日本経済新聞は「少子化対策は『子ども部』で」(2004.9.22)という記事を掲載した。しかし、新聞記事を含め関係者の認識には重大な欠落がある。それが保育における「教育機能」の軽視である。もちろん、逆もまた同じである。教育関係者は、教育における保育の機能を軽視している。保育の関係者も、新聞記者も、子どもの居場所を作れば、昔のように、子どもは自分で遊びはじめると信じている。それゆえ、紹介された「子ども課、子ども部」には子どもの活動プログラムを常設する発想はない。学童保育施設に関する認識も同じである。朝日の記者は「子どもが無理なく生活する場」というのが学童保育施設の基準である。子どもの活動は視野に入っていない。それがいかに成長期の子どもの時間を無為に過ごさせることになるか、関係者の自覚は全く足りない。「学童保育」30数年の「無為に近い時間」の修正は未だ行われる気配はない。
  教育の側も近視眼的な視点は同じである。教育分野が提供するほとんどの「居場所づくり」のプログラムは、まず子どもの「指導/活動プログラム」が中途半端である。「保育」の視点は皆無である。それゆえ、保護者の状況、特に就労を希望する女性の立場を全く考慮していない。文部科学省の子どもの居場所に関する補助事業も、福岡県が大々的に宣伝している「アンビシャス広場」も実態を見れば、「保育」の機能が欠落し、活動指導の発想も「貧困」の一語に尽きる。「アンビシャスな少年」など育つはずはない。
もちろん、現在の自治体には、少年の指導者を揃えて活動プログラムを導入するだけの金はない。だからこそ、福岡県京都郡豊津町が実践しているような「幼老共生」の工夫が必要なのである。『豊津寺子屋』は保育と教育を総合的に考えた数少ない「保教育」の実践である。

■ 3 ■  今、なぜ、子育て支援か?

  子育て支援の問題は他の問題以上に5W1Hの分析に配慮しなければならない。これまでの生涯学習のように、どこでやってもいい、誰がやってもいい、何をやってもいい、個人の欲求に合わせて適当にやっていればいい、という種類の問題ではないからである。事は子どもの成長・発達に関わり、社会の活力に関わるからである。
  5つのWの最初は「WHY」である。「今、なぜ、子育て支援か?」である。元来「私事」であった子育てをなぜ社会が支援するのか?、なぜ、「今」なのか?。当然、単一の理由ではない。現代の子育て支援は「複合問題」である。子育て支援の理由は、大きな政治課題から相対的に小さな個人的課題に向かって、沢山の小さな「なぜ」に再分解される。第一の「なぜ」は「少子化」対策の不可欠性である。第二の「なぜ」は、家庭の教育機能の衰退である。第三の「なぜ」は「子どもの生きる力」の衰退である。第四の「なぜ」は女性の社会参画の条件整備の必要である。第五の「なぜ」は子どもの安全と劣悪な環境からの保護である。「子どもの居場所」が問題になるのはその為である。第六の「なぜ」は母の「自由」である。最後の「なぜ」は世代間交流や地域の活性化である。もちろん論者によって、課題意識は異なる。子育て支援の必要も理由も、論者の立場により、意識によって、論じ方は大いに異なる。
  したがって、実施理由の重要度の選択順位も異なる。上記の順序は筆者の問題意識の順序である。異論が出るであろうことは承知している。


■ 4 ■  『子どもは負担』

  元旦の日経は子どもは『負担』、『子育てより自分』と感じる人が増えた、と指摘した。同じ元旦号に古代ローマも少子化」に悩んだ・・という特集記事がのった。作家の塩野七生(しおのななみ)さんが古代ローマの政治対策を紹介している。子育てが「選択」の対象になった以上、子どもの減少に伴う社会の負担を公平に分担すべきである。まして、老後は社会に依存して暮らす時代である。「子育てより自分」を優先するのであればその付けも払えというのが古代ローマの制度である。アウグストゥヌスの「独身税」はその典型であろう。未婚の女性は税によって社会の負担を分担させたのである。逆に、子どもの多い人を優先的に公職に採用して結婚と出産を奨励したともいう。「子持ちの人が得をする制度をつくれ」というのが塩野さんの提案である。さらに、夫の遺産相続は子どもがいなければ、10分の1に削減し、残りを没収したという。
  まさに少子化対策は政治課題であった。厚労省の「次世代育成支援」とか、文科省の「子どもの居場所づくり」程度で済む話ではないのである。

■ 5 ■  何を、どのようにやるのか?

  分業の社会は当該分野を専業で扱う「専門家」が支配する。教育は教育のことだけを考え、スポーツはスポーツのことだけを考え、保育は保育のことだけを考える。それが専門の縄張りであり、行政の縦割りである。もちろん、個人の日常生活ではこれらをすべて総合化して行っている。ただし、総合化するのは個人の判断であり、個人の責任である。
  しかし、社会のシステムになると、個人の判断も、個人の総合化の責任もほとんど届かない。分業が「タコつぼ」になるのはその時である。行政上或いは研究の分担上たまたま便宜的に分けただけなのに、担当者は自分の領域だけしか見えなくなる。時には、自分の領域だけが重要であると錯覚する。専門家や研究者の陥る落し穴である。分業化された分野の担当者は、あたかも自分が担当する以外の領域は存在しないかのように、自分の領域だけを論じる。かくして、保育は保育だけになり、教育を排除する。逆に、教育は教育だけになり、保育の必要は考慮しない。こうした「タコつぼ」化現象は、専門家や官僚の縦割り思考と行政の進め方にもっとも顕著に現れる。そしていつの間にか、結果的に、一般の人々の思考をも分断してしまう。
  子ども会も、PTAも、婦人会も、スポーツ少年団も、時に、自分達の分野しか考えていない。行政も、民間も自らの担当を限定して、結果的に、分業社会の思考習慣を作り出している。まさに「タコつぼ」文化と呼ぶに相応しい。それゆえ、「学童保育」は「保育」しかやろうとはしない。老人福祉は「老人」を弱者としてしか見ない。子ども会は、子どもを取り巻く状況がどんなに変わっても、従来の事業形態と事業内容から脱却できない。PTAも同じである。PTAが主体となった子育て支援事業は寡聞にして聞いたことはない。学校に至っては教育行政の石頭と相まって、外からその変革を論じることは徒労に近い。
  しかし、子育て支援は現代の総合的課題である。複数の直接的、間接的目的を同時に包含した現代の複合的システムである。それゆえ、現行の分業化された発想では解決が難しい。人間の歴史は、あらゆる社会問題を分化と統合の組み合わせで解決して来た。今こそ、現代の子育て支援は、各種事業の統合を必要とした時期にかかっているのである。「なにをやるか」は「なぜやるのか」から答を出さなければならない。沢山の「なぜ」があるのであれば、沢山の方法を組み合わせなければならない。理想的には、子育て支援を必要とするすべての理由に応えなければならない。子どもの居場所も、子どもの安全も、子どもの元気も、保護者の安心も、母になる女性の社会参画の条件もすべて満たした時、本物の子育て支援である。部分的支援も支援には違いないが、同じ金を使い、同じく労力と時間をかけるのであれば、総合的な支援でなければならない。現代の、分野別、問題限定別の個別支援は随所に矛盾と無駄を生み出さざるを得ないのである。

■ 6 ■  なぜ「場所」にこだわるのか? 

  こと子育て支援に関する限り場所の問題は決定的に重要である。なぜなら、場所をどこに設定するかによって、子どもの安全と保護者の安心と活動の内容・方法の可能性が決まるからである。人的資源に付いては、すでに述べたように、できるだけ多くの地域の方々の参加を得て、人々が地域の子どもを知ることが最優先の条件である。
  一方、物理的には、子どもが移動や活動に際して、孤立しない環境を作ることである。それゆえ、子どもの居場所は放課後の「移動」の必要がない「学校」でなければならない。休暇中の子どもの居場所も通い慣れた学校であれば、「居場所」までの往復の問題は最小限に止どめることができる。学校こそが公金で建てられた子どものための施設であり、子どものことを考慮した環境だからである。学校施設は、安全も、安心も設計の中に組み込まれている。当然、子どもは日々の教育活動を通して、施設を使い慣れている。通学路も通い慣れている。子どもの居場所に日常活動のメニューを入れるのであれば、学校の「使い勝手」の優位性は他のどの施設よりも高い。学校は、子どもの活動を組み立てる上でもっとも、多様性に富み、広くて、安全で、便利で、もっとも合理的に作られている。しかも、どの子も、どの保護者も心理的に、それぞれの学校に所属している。地理的条件や使い勝手の異なる児童館や公民館とはそこが決定的に違うのである。
   また、学校が子育て支援に開放されれば、初めて学校は子どもを核としたコミュニティ・スクールとなるのである。少子化の進行が止らず、子どもの生きる力が衰退し、その安全も脅かされ、居場所や活動の確保が緊急の課題となった現在、学校が子育て支援の中核施設になることこそいわゆる「学社連携」の最大の課題である。教育行政は学校の多目的開放、なかんずく、子育て支援のための施設開放を法令的に定めて、積極的に推進する時期に来ているのである。文部科学省が事態を理解しない以上、地方の自治体は条令を持ってしても、学校施設の子育て支援への開放を義務付けるベきである。
 

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