第51回生涯学習移動フォーラム報告:溺れるほどの「論語」
1. 「論語と朗誦の教育論」
今回は佐賀県多久市への移動フォーラムであった。論語と朗唱がテーマである。長崎県、福岡県など多久市以外からもたくさんの方々が参加して下さり、花を添えていただいた。論文はすでに前回発表済みなので、今回はシンポジュームを持ってフォーラムのメイン行事とした。また大会そのものが文化庁の補助事業「芸術と文化のまちづくり」と組み合わさったため、「論語」が前面に出た。多久保育園児の朗唱も、多久市立納所小学校の児童による寸劇を組み合わせた朗唱も、素材はすべて「論語」であった。
もともとのフォーラムは「朗唱」の教育的意味を論ずるものであった。テーマは「いまなぜ、朗唱か?」であり、方法論として、朗唱の意味を問うことが主題であった。
事業の抱き合わせにより、結果的に、論語と朗唱を一緒に論じるという中途半端なものになった。論語は「素材」であり、「哲学」である。翻って、朗唱は基本的に素材を問わない「教育の方法論」である。二つの異なった対象をつなげて、同時に論じることは簡単にはできない。今回のような異質の事業の相乗りは難しいということを実感したフォーラムになった。司会も辛かったが、登壇者もさぞや発言の整理に困られたことであろう。また、朗唱の実践は、率直に言って、いまだ道半ばの感があった。
登壇者からは、注目に値するさまざな発言をいただいたが、筆者の関心は別のところに向かった。もしも論語が多久市の学校教育の全面に及んだとしたらどのようなことが起るのだろうか、という興味である。宗教教育や修身教育が考えたであろう方法論についての問題意識である。換言すれば、「意識を制御すれば、行動を制御できるか?」という問題意識である。今回の巻頭論文と合わせて整理をしてみた。
2. 溺れるほどの論語
多久市では多くの子ども達が論語を暗唱している。論語の警句や孔子の哲学の断片を論語カルタのような形で諳んじている。幼い時から日々を生きる論語の指針が溢れるほど頭の中を占拠していたとしたら、それらは子どもの態度や行動に当然様々な影響を及ぼすに相違ない。筆者は巻頭の小論において、教育は「言葉」ではなく「態度」を、「意識」ではなく「行動」を教えるべきであると論じた。筆者は、言葉の抽象性を批判し、意識の捕らえ難さを指摘したのである。
しかし、巻頭小論における筆者の論点は、テレビ文化に犯された現代の雑駁な環境の中の子どもを想定している。論語の「生きる指針」の言葉が隅から隅まで子どもの頭を満たしている時のことまでは想定していない。溺れるほどの論語に心身を浸し、論語の人生訓が子どもの日々を満たした時、彼らの態度や行動は果たしてどのように変わるであろうか。そこまでは想定していない。言葉は子どもの行動を変えうるか、それとも「論語読みの論語知らず」に終わるか。言葉のレベルと量が問われるのであろう。
筆者も、人間が時に観念の動物であることを知らないわけではない。人間の意識が行動を律することを知らないわけではない。あらゆる英雄的行為も、あらゆる宗教的犠牲も、良きにつけ悪しきにつけ、意識が行動を律していることは見聞のとおりである。洗脳がその極端な事例であり、信仰も時に観念の優位であり、勝利である。稀には言葉が「こころ」を占拠することがあるのである。
3. 論語は言う
論語は言う。『君子は言に訥にして、行いに敏ならんと欲す』。口だけで言うな!態度や行動で示せ!という意味である。筆者の巻頭小論を一行で喝破している。小学生の朗唱の素材は、『これを知るをこれを知るとなし、知らざるを知らずとなせ。これ知るなり』であった。知らないことは知らないと言え、それが知の始まりである、という教えである。「風の便り」を書いていると時に身に滲みて恥ずかしい。
また、人間性が基本的に変わっていない以上、『古きをたずねて、新しきを知る』は時代を超えた格言である。論語が人間の生き方の真実を切り取ったように、筆者の愛する藤沢周平さんの時代小説には人間生活のあらゆる要素が描かれている。環境や時代が人間のこころの幸・不幸に影響することは極めて少ないのである。人間の原点は古今東西基本的に変わらないのである。
『巧言令色』は『すくなし仁』と続く。大学の経営を担当した時、この類いの人々に沢山出会った。そうした連中が大口を叩いて、等しく1票を持っているところが民主主義の哀しいところである。
保育園児が朗唱したなかに『人知らずしてうらみず、また君子ならずや』とあった。研究者として独立し、評論商売に暮らしていると理解されない時の辛さはひとしおである。"人知らずしてうらむ"ことも多い。なかなか君子にはなり難い。
『賢を見てはひとしからんことを思い、不賢を見ては内にみずから省みる』。良いモデルを探してその人のようにしなさい。悪いモデルを見たらあのようには振る舞うまいと思いなさい、という教えである。「学ぶ」は「真似ぶ」であること、「真似ぶ」の対象となるモデルの選択がもっとも重要であること、簡にして、要を得ていること教育学の比ではない。
三省の教えは子ども達の日々を総括する。『われ日に三たびわが身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか』である。これらの名言をすべて暗唱し、子どもの頭が論語の哲学で満たされている時、おのずと日々の態度や行為ににじみ出るものなのかも知れない。しつけの「核心」は他律であり、強制であり、洗脳でもある。三つ子の魂百まで、と言う時、三つ子の魂は植え付けるのであり、耳にたこができるまで言い聞かせて、洗脳するのである。態度や行為と平行して言葉も教えよ、ということなのであろう。
もし、論語に溺れるほどに接した多久市の子ども達が朗唱やその発表の実践によって、日常の態度や行為を形成することが証明されるのであれば、巻頭小論の一部は撤回しなければならない。『学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや』である。
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