二つの質問−生涯学習の幸運
生涯学習施策が日本社会の重要課題と重なったのは幸運と考えるべきである。従来のような、学級/講座の提供・管理も重要ではあるが、少子化対策と介護予防と男女共同参画を同時に遂行する施策に比べれば、その「相対的重要度」は格段に劣る。それゆえ、社会教育も公民館も学級/講座は市民の自主活動に任せて、「養育の社会化」事業に取り組むべきなのである。「子どもの元気」と「熟年の元気」と「女性の元気」と「地域社会の活力」を同時に達成できるのである。この1−2か月生涯学習の講演はこれが筆者の主張である。
筆者の提案に対して広島県芸北教育事務所の研修会と福岡県筑豊教育事務所の研修会で次のような質問が出た。質問者はいずれも女性であった。女性の活力が研修会の空気を決定している。
Q1 『学童保育を充実したところで女性の元気を保障したことにはならない』
「育児の最も困難な時期は乳幼児期である。それゆえ、学童保育を充実したところで女性の元気を保障したことにはならない。乳幼児保育の充実や乳幼児期の育児に悩む母の孤立と孤独こそが一番の問題なのである。」
ご指摘の通りであろう。現状では、生涯学習は乳幼児保育には踏み込めない。手がかりは「幼保一元化」にあるが、特区構想が打ち出されたにもかかわらず自治体の動きは鈍い。福祉の分野でも筆者の「寺子屋」構想のやり方は実行可能である。熟年ボランティアはそれぞれに子育ての体験者である。子どもの「見守り」程度であれば加勢はいとたやすい。しかし、当面する保育所の問題は、子どもの「放課後」や「長期休暇中」の自由時間の過ごし方ではない。保育所の問題は「待機児童」を無くすことであり、保育時間を親の生活スタイルに適合させて行くことである。
更に、行政の分業システム上、生涯学習部門は保育所の指導はできない。保育所も指示には従わないであろう。保育の分野から筆者に声のかかることもまずない。申し上げることはたくさんあるが、「分業」が「独占」となり、「専門」が「縄張り」になるのは組織社会の常である。生涯学習のやり方は取り敢えず教育の分野で試してみるしか方法がないのである。保育所段階における寺子屋構想は、保育と教育のプロジェクトチームができれば実行可能である。介護にせよ、保育にせよ、福祉分野に教育の発想が欠落しているのが問題の根本である。
Q2 「考えが古くて、頑迷で、押し付けがましい年寄りが本当に子育て支援の戦力となるか!?」
答はYesである。質問者は社会教育の年寄りに手を焼いているのである。わがままで、勝手で、押し付けがましいからである。古歌の通り、放って置けば、年寄りは、「くどくなる、気短になる、愚痴になる、心は僻む、身は古うなる」である。当然、ご指摘のような問題が起る。しかし、彼らは今日の日本を作って来た人々である。質問者を始め若い世代を育てて来た世代である。かつての「生きる力」は若い者の到底及ぶところではない。問題は如何せんその彼らも「老いた」ということである。「戦い」を忘れたということである。使わない心身は一気に衰える。それゆえ、事業の核心は彼らに「生きる力」を思い出してもらうことである。その方法は「枠」をはめることである。自侭に過ごせば老人は一気に衰弱する。子ども達が「型」から社会の生き方を学んで行くように、熟年も改めて寺子屋指導の「型」にはめなければ、表記の質問のような事が起る。到底、戦力にはならない。
ボランティア研修が重要なのはそのためである。指導者心得や指導原則の確立が重要なのもそのためである。それゆえ、研修の担当者に口当たりのいい指導者を選んではならない。熟年とは、すでに衰えて、鍛え直さなければ「使い物にはならない」世代であることをはっきりと彼らに伝える指導者でなければならない。方針に従わず、「型」を拒否する熟年に子どもの指導を任せてはならない。先輩の老人だからといって、彼らの行動上の逸脱を許してはならない。目的は子どもの健全育成である。方針を決めるのは彼らではない。指導原則を決めるのも彼らではない。実行委員会が確固たる方針を確立する意味がここにある。指揮は彼らより若い者が取る。「老いては子に従う」事を理解させなければならない。熟年は馬鹿ではない。しばし、労働から離れてこの世の戦いから縁が遠くなっているだけである。ひとたび戦意を回復し、活動の「型」を習得し、指導の意味を理解された時、熟年は若い者に優るとも劣らない。
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