「教育の無い保育」と「保育の無い教育」
◆ 教育機能をもたない「子ども部」
朝日新聞は「学童保育の施設整備追いつかず」という特集記事(2004.9.15)、日本経済新聞は「少子化対策は『子ども部』で」(2004.9.22)という記事を掲載した。「子育て支援」が日本社会の緊急課題であることが徐々に認識されつつあるということである。しかし、新聞記事を含め関係者の認識には重大な欠落がある。それが保育における「教育機能」の軽視である。(逆に、教育の方は、教育における保育の機能を軽視している。)保育の関係者も、新聞記者も、子どもの居場所を作れば、昔のように、子どもは自分で遊びはじめると信じている。それゆえ、紹介された「子ども課、子ども部」には子どもの活動プログラムを常設する発想はない。学童保育施設に関する認識も同じである。朝日の記者は「子どもが無理なく生活する場」というのが学童保育施設の基準である、と書いている。「生活の場」における子どもの活動は視野に入っていない。それがいかに成長期の子どもの時間を無為に過ごさせることになるか、関係者の自覚は全く足りない。「学童保育」30数年の歴史で、「見守り」だけを行った「無為に近い時間」の修正は未だ行われる気配はない。もちろん、、国の補助金にも、現在の自治体にも、少年の指導者を揃えて活動プログラムを導入するだけの資金はない。だからこそ、「幼老共生」の思想が必要であり、熟年の指導者と子どもの活動を組み合わせる発想が重要なのである。
◆ すでに子どもは遊べない
すでに子どもは自律的には遊べない。世間も、福祉行政もそこが分かっていない。教育行政ですらも十分には分かってはいない。現代の子どもの遊びについては多くの研究報告が蓄積されているが、その内10本も読めば現状は明らかである。子どもの24時間は、学校と塾とテレビとコンピューターゲームで消費されている。時間消費の形態は「受け身」であり、「孤独」であり、極めて「消極的」である。まして、「生きる力」を鍛え、社会生活の「予行演習」となるべき、子ども集団のダイナミックな遊びは「死滅」している。今や、「自由時間」が指導の対象となり、「遊び」もまた教育の対象になったのである。
◆ 「半人前の親」
ある県の社会教育委員の会議にお招きをいただいた。寺子屋のパイロット事業を下敷きにして「保育と教育」を統合する「保教育」の概念を提案した。最大の理由は「半人前の親」の存在である。礼儀正しい委員の皆さんは筆者が提案した「公民館事業の限界」、「学校の義務的開放論」などには反応されたが、親の資質の問題については沈黙を守られた。しかし、子ども問題の核心は「親が親足り得ない」ところにある。子どもより自分の欲求を優先する「半人前の親」に子育てはできない。子どもを背負って深夜のゲームセンターに出没する親に子育てはできない。育児の重要性を自覚せず、育児の知識・技術に乏しい親も「一人前」は育てられない。真面目でも、一生懸命でも孤立した親は育児の困難に圧倒される。現代は「親」が問題なのである。だから「子」が問題を背負うのである。保育所も、幼稚園も幼児の自立をどこまで達成しているであろうか?子ども達は規範に従えず、ルールを守れない。それゆえ、小学校に入学してくる多くの子どもが「児童」になれない。「児童」とは規範に対して自己コントロールのできる子どもである。児童は、「鐘がなったら教室に入る。遊びが面白くても止める。自己抑制ができるからである」。児童は、「先生が教室にお見えになったら席につく。それが決りだからである」。児童は、「先生の指示でおしゃべりを止める。教科書を開く。それが授業を始めるルールだからである」。
児童になれない子どもは当然「集中」も「傾聴」もできない。それゆえ、他の児童の学習の大いなる妨げとなる。授業が崩壊するのはそこからである。幼少期の保育・教育に大いに疑問があるが、一番の原因は疑い無く親の育て方である。
「養育」を社会化しなければならない第一の理由は「少子化の防止」であるが、第2の理由が「半人前の親」の増大である。「子育て支援」事業が直接子どもの指導に乗り出さねばならない理由は、「子宝の風土」の社会は子どもを一人前にする「守役」の任務を負っているからである。かつてはそれを「子やらい」と呼んだ。
◆ 分野横断型のプロジェクトの不在
福祉分野のなかで機構をいじることはできる。教育行政のなかで機構をいじることもできる。紹介された「子ども部」の大部分は同一分野内の統合結果で生まれている。しかし、必要なのは保育と教育の統合である。
子ども部が必要なのではない、「保教育」を担当するプロジェクトが必要なのである。教育と福祉分野が協力できるプロジェクトが必要なのである。中央の組織が文部科学省と厚生労働省に分かれている以上、自治体もその縦割りを受け継がざるを得ない。したがって、子ども部を作ったところで通常は縦割りの論理に矛盾しない同一分野内の組織編成にならざるを得ないのである。唯一可能な方法は事業目的にそった行政内プロジェクトを編成するしかないのである。地方政治家のリーダーシップが重要になる所以である。
◆ 閉鎖的で、頑迷
唯一安心で、安全な子どもの居場所、遊び場は学校である。朝日新聞は「学童保育の施設整備追いつかず」と書いたが、施設が無いのでは無い。「コミュニティ・スクール」の発想が無いのである。学校には学童保育に協力する姿勢が無いのである。学校が子育て支援に施設を開放しない理由は「目的外」使用ということである。しかし、保育は当然教育機能を内包する。教育も又保育機能を内包している。目的は共に子どもの「健全育成」である。学校が地域の子育て支援に施設を開放しないのは、想像力が乏しいだけでは無い。学校は閉鎖的である上に、頑迷なのである。学校は世の中で特別の仕事をしていると自負し、錯覚している。教員の多くは世の中と付き合ったことは少ない。これらを監督する教育行政も教育長を始め似たような感覚なので救われない。異分野から参画している教育委員は「教育委員会」で一体何をやっているのか?
学校は生涯学習施設である。前号で論じた通り、子どものために企画設計された、唯一安心で、安全な子どもの居場所である。学校はコミュニティの文化スポーツに活用するのは当然である。まして、同じ学校の子どもの健全育成活動に使用するのは当然である。にもかかわらず学校が「学童保育」に施設を開放することはいまだ稀である。文部科学省も保育に施設を提供せよという指導をしたことはない。理由は「縄張り」が異なるということであろう。保育は他分野の仕事であって、自分の縄張りではないのである。かくして、「目的外使用」の論理を支える理由は「縄張り」に過ぎない。この点、子育て支援は大切であるとおっしゃる社会教育委員さんですら認識は甘い。発言のなかに、地域の子育て支援に教師の協力が得られるであろう、という幻想が見えかくれする。学校の施設すら開放しないのに、教員の協力が可能であるはずは無い。可能にするためには教員の任務分掌の中に明確に「地域への協力」を謳わなければならない。
学校関係者はコミュニティとは十分に連携していると言う。しかし、学校のいう「学社連携」は学校に都合の良いコミュニティ資源の活用を意味するに過ぎない。コミュニティが必要とすることに学校が協力するという意味は全く含まれていない。まして「学社融合」論は「融合」して何を生み出すかということを全く無視した空論である。社会との融合を進めて新しいコミュニティ・スクールを生み出そうという展望は皆無である。
子育て支援が日本社会の緊急課題であることに異論がないならば、協力しようとしない学校は社会の「敵」であると前号に書いた。社会教育委員との協議を経てその思いはますます強まった。筆者は、県の教育長名で「学校開放及びコミュニティへの協力を推進せよ」という趣旨の通知を各学校の責任者あてに出してみて下さい、と発言して提案を締めくくった。さて、反応はどうであろうか?
学校の「子育て支援」への開放は、当面、文部科学省にも、県の教育行政にも期待できない。だとすれば、市町村自治体のトップが強権を発動するしかない。教育長を任命したのは首長である。地域が安全で、安心な子どもの居場所・活動場所を求めているのに、税金で作った学校施設を学校関係者だけに占有・私物化させてはならない。
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