今、なぜ子どもの「居場所づくり」なのか?
中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会での出会いの御縁が廻り廻って沖縄県西原町にお招きをいただいた。講演は表記のテーマで依頼があった。しかし、筆者には、現代の少年問題は、「居場所」を作っただけではダメだという強い思い込みがあった。多くの学童保育や福岡県の「アンビシャス広場」事業のように「居場所」を作っただけでは、少年の集団も、少年の活動も、少年の「生きる力」も育たない。必要なのは子ども集団の育成であり、「活動」の意図的な組織化であり、指導である。要は、組織化と指導の「原理」と「中身」と「方法」であると力説した。結果的に、講演はテーマと中身が大きくずれてしまった。後になって、「居場所づくり」に関心のあった方々には飛躍し過ぎていただろうと大いに反省した。西原町へのお詫びを兼ねて改めて「なぜ『居場所づくり』なのか」を整理してみた次第である。
T 今、子どもはどのような状況にあるか?
(1) 「居場所」、「遊び場」がない
子どもの「居場所」を行政が準備するということは、すでに子どもの周りに安全で、快適な「居場所」がないということを意味する。地域は既に昔の地域ではない。したがって、想定される理想的な「居場所」は学校である。学校は子どものために設計されている。環境も子どものために整備されている。それなのに学校は頑として地域にも、放課後や休業中の子どもにも施設を開くことはしない。「養育」が社会的機能になったという認識がないからである。教育行政も学校の施設開放を強力に指導することはない。教育行政にも養育支援の認識がないからである。恐らくは、行政分業の論理に則って養育は「福祉」の担当であるといいたいのであろう。しかし、子どもの危機的状況を分析すれば、福祉と教育の統合は論理的必然である。子どもの居場所の確保には、学校の開放が必然である。原理的には、文部科学省が学校を生涯学習施設として認定するだけで解決する。活用の具体策は、学校の地域開放を指示する通達1本で解決する。教育行政の現状は既存システムの呪縛に制約され、この程度の整理ができないほどに哀しい認識のレベルである。
(2) 能動的、全身的、集団的運動・遊びをする時間が少ない
大方の研究報告を読めば、子どもの日常を構成しているものは、テレビと塾とゲームと学校である。子どものスケジュールの中に家族との同行はあまり出て来ない。友だちとの同行もあまり出て来ない。社会参加の機会もない。発達途上にあるにも関わらず、全身運動も足りない、集団的遊びも少ない。現状ではそうした活動をする時間も、条件も少ないのである。それで子どもは大丈夫か、という社会の心配はもっともなのである。
心配の背景には子どもの生活の「受動性」があり、テレビやゲームの「擬似環境」がある。メディア環境に没入する時間が多くなれば、子ども達が自らの肉体や自然から遊離する危険が増すであろう。漠然たる危機感の淵源はそこにある。子どもの自主性、主体性、積極性、能動性が重要であると言うのであれば、時間の消費が受動的になるのは極めて危険である。自主性も、主体性も、積極性も、能動性も、すべて自主的、主体的、積極的、能動的活動を通してしか「体得」することができないからである。同様に、己の肉体や感覚の向上も、自らの肉体、感覚を駆使して初めて可能になる。テレビやゲームの擬似環境に浸っていれば、汗も、苦労も、疲労も、痛みも、空腹も、筋肉の躍動も、風の心地よさも知る由もない。これらはすべて身体を通して実感する以外分かりようがないのである。まして、自然も世間もその実態に触れる機会が少なくなれば、子ども自身が「自然」ではなくなる。自然として生まれて来た子どもが自然から遠ざかり、子どもが自然の一部を構成しなくなる時、人間に何が起るのか?われわれはいまだ知らない。但し、人間の中の「自然力」とでも呼ぶべき、体力も、生きる気力も、肉体の感覚機能の多くも衰えるであろうことは疑いない。能動的で、自然の実態と社会の現実に触れて成長した「自然世代」と、その機会を失いつつある「不自然世代」が大きく異なるであろうことは想像に難くない。少年の無気力も、彼らの凶悪犯罪もどことなく「不自然世代」の成長の停滞を暗示していないか?
(3) 子ども集団は形成されていない
「居場所」がなければ、当然、子ども達は集まれない。集まって活動が出来なければ、仲間は出来ない。「居場所」の不在は、子ども集団の不在を意味している。現代の地域環境、現状の生活環境では、集団の作り方は子どもに伝わってはいない。集団での遊び方も子どもには伝わっていない。仲間集団が最も重要になる少年期の一時期を「ギャングエイジ」と呼ぶ。子どもは群れの中で社会生活の予行演習を行なう。少年集団が不在だということは多くの子どもが「ギャングエイジ」を通っていないことを意味する。だからこそ、居場所での活動メニューが重要なのである。仲間集団を育てる指導者が重要になるのである。
(4) 「生きる力」が衰退している
居場所がなく、集団がなく、日々の生活が「受動的」であれば、社会生活の「予行演習」を十分にすることはできない。思いきり身体を使う機会がなければ体力はつかない。難しい課題に挑戦しなければ、耐性は育たない。結果的に、「生きる力」の5大条件は十分に獲得出来ていない。5大条件とは「体力」、「耐性」、「道徳性」、「基礎学力」、「やさしさや思いやりの感受性」である。
U 子育て支援プログラムの目的 プログラムの目的は家族と子どもの現状への対応である。「居場所」がなければ、居場所を作る。活動がなければ活動を作る。指導者がいなければ指導者を住民の中から確保しなければならない。すでに地方自治体には日常的な子育て支援に専門家を配置する財政的余裕はない。社会教育も、福祉も公的な予算で指導者を養成・派遣する余裕はない。そうした状況の中での子育て支援を発想しなければならない。
(1) 学校開放の重要性
今、子育て支援の最大の目的は子ども集団を形成できる「居場所」の確保である。子どもにとって安全で、保護者にとって安心な「居場所」の確保である。それは「学校」に外ならない。学校は子どもが毎日通い慣れている。毎日使っている。子どものために設計された施設である。子どものために準備された環境である。放課後や休業中に子どもが学校施設を利用することを拒否する校長や職員会議は子どもの「敵」である。育児と社会参画を両立させようと日夜奮闘している女性の「敵」である。関係者は自覚していないであろうが、理念的には、男女共同参画思想の「敵」である。
ほんの僅かな工夫をすれば学校に迷惑をかけない施設利用は難しいことではない。校長が管理責任に耐え切れない、というのであれば、管理権を教育行政に移管すればいい。「空き教室」を活用するのではない。使用中の施設でも工夫をして「共用」するのである。子育て支援が重要であるというのであれば、校長の管理責任が大事なのか、それとも子どもの安全や向上が大事なのか?学校は事の重要性を評価し、その答を公表すべきである。あくまでも管理や学校教育だけが大事であるという学校は「チャータースクール」方式によって民間に移管すればいいのである。
しかし、教育行政もまた学校の指導が出来ないほどに事態の認識が薄い。教育は「養育」を門外のこととして消極的にしか捉えていないのである。
(2) 居場所は必要条件、活動プログラムを加えて十分条件
居場所を確保するだけでは最低の必要条件が整ったに過ぎない。豊かな活動メニューがあって初めて十分条件が整う。従来の子育て支援にはプログラムが稀薄であった。これからの子育て支援はプログラムが鍵である。子どものための放課後および休暇中の健全育成プログラムを提供するシステムが整った時初めて「子育て支援」と呼ぶべきであろう。学校外の活動目的もまた「生きる力」の形成であることは論を待たない。
(3) 内容の多様性、方法の弾力性
活動の内容は多様であることが望ましい。子どもはそれぞれに個性的である。興味や関心も異なる。子育て支援の方法も弾力的でなければならない。家族は様々な課題に当面している。保護者も多様な状況にある。子育て支援も多様でなければならないのはそのためである。しかし、行政には人的にも、財政的にも、大規模支援の力量はない。本気で支援事業をやろうとすればボランティアの力を借りなければならない。しかし、日本文化にとってボランティア思想が外来のものであることは明らかである。日本社会はいま子育て支援においてボランティアの定着実験を始めようとしているのである。日本型ボランティア制度の確立に成功すれば、「ボランティアの縁」が子育てを支え、地域の活力を支え、新しい人間関係のネットワークを形成する時代が来るのである。 |