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生涯学習通信

「風の便り」(第44号)

発行日:平成15年8月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「受動と擬似」環境からの解放 −少年の「日常」とは何か?−

2. ようやく、学校開放! 繰り返すか?独善と蒙昧

3. 「非常」の顔

4. 第37回生涯学習フォーラム報告 「サマープログラム」

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

第37回生涯学習フォーラム報告 「サマープログラム」

   第37回フォーラムは夏休みの真っ最中である。なんとなくサマープログラムは通常の生涯学習とは異なるのではないか、という視点で8月のテーマに取り上げてみた。どこが異なるのか、何が通常と「サマー」をわけるのかについては設定の当初は漠然とした理由しか思い当たらなかった。事例発表者の選定には事務局を担当して下さっている福岡県立社会教育センターの肘井さんに大変な御苦労をかけることになった。

   にもかかわらず最適の発表者が見つかった。第一事例は(株)全教研の第一地区本部長甲木(かつき)英徳さん、第二事例は福岡県立英彦山青年の家の井上憲治研修課長である。お二人ともそれぞれのお休みや事業の合間を縫って来て下さった。紙上を借りて厚くお礼申しあげたい。論文参加は「サマープログラムー非日常的活動への挑戦」(三浦清一郎)である。

1   サマープログラムはビジネス

   甲木さんが所属する(株)全教研はいわゆる大手の「塾」である。塾がサマープログラムを実施しているのである。むしろ夏は塾にとってのかきいれ時なのである。学習指導、受験指導の合間に息抜きをかねて「小豆島理科実験教室」とか、「星野村天体観測」とか、「中3夏期学習合宿」とか「アメリカンサマーキャンプ」のような特別プログラムが実施される。いずれも経費は安くないが参加者数は驚くほどの数である。日本旅行(株)が始めた「夏休み宿題解決キャンプ」のようにサマープログラムは今やビジネスになるのである。参加する子どもにとっては、一方で従来型の自分で宿題をこなす夏休みとは一変した特別プログラムや勉強合宿であったり、他方では、日常の塾活動の集中的延長となる「夏期セミナー」であったりする。いずれも経費を負担する保護者の自衛意識が塾のサマープログラムを支えている。

2   サマープログラムはどこが特別なのか?

   サマープログラムは名称からしても季節限定の特別プログラムを意味している。夏休みの自由時間でなければできないプログラムである。それでは季節と自由時間以外にはどこが特別なのか?普段やれないことができる。夏休みにしかできないことができる。それは何か?英彦山青年の家ではその特性を歴史体験とか、夏の冒険と捉えている。プログラムは「英彦山山伏塾」であり、「小天狗アドベンチャー」である。プログラムは歴史体験、自然体験、「他人の飯」体験、交流体験、自活体験など多様な要素を含んでいる。しかし、発表後に、フォーラム参加者から質問が出たように活動内容は全体として「やわ」であり、先輩世代の基準に照らせば、自然体験は自然体験になっていず、「冒険」は冒険になっていない。現代の子どもを前提にすると「山伏」も「やわ」にならざるを得ないのである。事前準備抜きで一気に昔の子のやったことを復活することはできないということであろう。まさしく、自然体験も、自活体験も、探険も、冒険も、あらゆる「他人の飯」体験も「現代教育の忘れ物」なのである。

3   夏休みはなぜ非日常なのか?

   サマープログラムの意味は非日常の意味を問うことにある。以下は参加論文の要約である。

サマープログラム−非日常的活動への挑戦−

   子どもの「非日常」とはなにか?

 (1)   非日常は日常の反対である。日常が「普段」であれば、非日常は「特別」である。

 (2)   日常は「いつもやっていること」と同義である。したがって、「特別なこと」もいつもやるようになれば、すでに「特別」ではなく、「非日常」でもなくなる。

 (3)   したがって、日常と非日常の境界は曖昧であり、活動は相互に連続している。日常は非日常によって定義され、非日常は日常によって定義されている。

 (4)   日常活動と非日常活動との区別は活動の中身ではない。活動の頻度であり、連続性である。

 (5)   国語辞典がいうように、日常が「平常」であれば、非日常は「非常」である。日常が平生の「連続」であれば、非日常はその「断絶」である。事故や死がその中身・状況に関わらず非日常と感じられるのは平生の「断絶」の故である。

(6)   学校が子どもの生活を支配するようになって以来、学校が子どもの日常となり、夏休みは非日常となった。日常は、勉学の義務と家の手伝いの束縛と束の間の遊びで構成された。それゆえ、自由を保証された日曜日も夏休みもときめきを伴う義務と束縛からの解放であった。

 (7)  しかし、子どもの生活が変わって子どもの日常も変わった。勉学の義務は残ったが、手伝いを免除され、遊びの変わりにテレビとゲームが登場した。

 (8)   テレビやゲームは初めは非日常の楽しみであったが、普及に伴って日常の活動となり、子どもの時間を支配し始めている。

 (9)   テレビとゲームはすべて受動的な時間の消費である。テレビとゲームが支配的であれば、結果的に、発達期の子どもから能動性を奪うことになる。

 (10)   夏休みは子どもの最大の自由時間である。学校の日常支配が続いている限り、夏休みは今でも子どもの非日常になりうる。それゆえ、サマープログラムは自由時間の最大活用が目的である。活動の中身は子どものを非日常に返し、その能動性を可能な限り発揮させることに重点を置くべきである。

 (11)   非日常の活動とは現在の子どもの日常に存在しないものである。非日常とは「めったにないこと」であり、組み立て自由のスケジュールである。それゆえ、夏休みは、自然を素材とした自由なグループ活動が中心になる。普段やることのできない課題もプログラムの候補となる。子どもの日常には自然との接触がない。集団での共同生活もない。体力と耐性を自己テストする過酷な肉体作業もない。一つの課題を深く掘り下げる機会も少ない。要するに、能動的な活動は極めて稀薄である。サマープログラムはこうした非日常的活動への挑戦でなければならない。

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