「受動と擬似」環境からの解放 −少年の「日常」とは何か?−
8月の定例研究会:生涯学習フォーラムは夏休み特集を意識して「サマープログラム」を論じた。執筆を終ってみると、論文の内容は結果的に筆者が初め意図したものと大きく異なった。執筆の視点と焦点がサマープログラムの方法論から「子どもの日常」とはなにか、という問題に移行したからである。
フォーラム終了後、たまたま、島根県松江の研修会にお招きがあり、その機会に掛合町の和田明さん、松江教育事務所の神門三郎さんのお骨折りで島根の東部の方々19名が「前夜祭」の懇親・交流会に集まって下さった。御注文により懇親の前座として小論を発表することになり、フォーラム参加論文の「日常と非日常」の問題をかいつまんで報告した。驚いたことに交流会ではショートスピーチが一巡する中で多くの方々から様々な共感と感想が出された。「日常」問題に付いての解釈は人それぞれであったが、みなさんが自分の日常に引き寄せて、多様な視点から「日常−非日常」の意味を論じたのが新鮮であった。そこで今月の「便り」は、初めの計画と異なり、8月の参加論文を急遽、抜粋し、若干の追加と修正を加えて「日常−非日常」の問題を取出したものになった。
1 漠然たる危機感
大方の研究報告を読めば、子どもの日常を構成しているものは、テレビと塾とゲームと学校であろう。子どものスケジュールの中に家族との同行はあまり出て来ない。友だちとの同行もあまり出て来ない。社会参加の機会もない。それで子どもは大丈夫か、という社会の心配はもっともなのである。
心配の背景には子どもの生活の「受動性」があり、テレビやゲームの「擬似環境」がある。メディア環境に没入する時間が多くなれば、子ども達が自らの肉体や自然から遊離する危険が増すであろう。漠然たる危機感の淵源はそこにある。子どもの自主性、主体性、積極性、能動性が重要であると言うのであれば、時間の消費が受動的になるの極めては危険である。自主性も、主体性も、積極性も、能動性も、すべて自主的、主体的、積極的、能動的活動を通してしか「体得」することができないからである。同様に、己の肉体や感覚の向上も、自らの肉体、感覚を駆使して初めて可能になる。テレビやゲームの擬似環境に浸っていれば、汗も、苦労も、疲労も、痛みも、空腹も、筋肉の躍動も、風の心地よさも知る由もない。これらはすべて身体を通して実感する以外分かりようがないのである。まして、自然も世間もその実態に触れる機会が少なくなれば、子ども自身が「自然」ではなくなる。自然として生まれて来た子どもが自然から遠ざかり、自分が自然の一部をかつてのようには構成しなくなる時、人間に何がおこるのか?われわれはいまだ知らない。但し、人間の中の「自然力」とでも呼ぶべき、体力も、生きる気力も、肉体の感覚機能の多くも衰えるであろうことは疑いない。能動的で、自然の実態と社会の現実に触れて成長した「自然世代」と、その機会を失いつつある「不自然世代」が大きく異なるであろうことは想像に難くない。少年の無気力も、彼らの凶悪犯罪もどことなく「不自然世代」の成長の停滞を暗示していないか?
2 「ときめき」の条件−夏休みの意味
8月のフォーラム論文は「サマープログラム」を論じた。夏休みの子どもには普段やれないことに挑戦する機会を創ってやろう、と考えたからである。学校が子どもの日常を支配するようになって以来、おそらくほとんどの子どもにとって夏休みは特別の意味を持つようになった。待ち遠しい「ときめき」の季節である。学校で過ごす時間は義務であり、束縛であり、くり返しであるが、夏休みはこれらの義務的スケジュールからの解放だからである。
日常のプログラムはノルマの課題である。やる事も、やるべき時間も決まっている。それゆえ、日常とはノルマを果たすためのスケジュール化された時間である。
一方、夏休みは学校のスケジュールからも、勉学の義務からも解放される。夏休みのプログラムは日常のノルマの外の課題である。それゆえ、サマープログラムの時間は組み立て自由である。時間の観点から見れば、非日常とは組み立て自由のスケジュールを意味する。子どもにとって夏休みは時間割りから解放された非日常の季節なのである。夏休みのプログラムは、義務から解放され、自由な選択を前提とした「挑戦」や「祭」のときめくプログラムとなり得るのである。しかし、果たして、「日常」とは何であろうか?「ときめき」を生み出す条件は何であろうか?サマープログラムの意味を問うということは「非日常」の意味を問うことに繋がるのである。
3 「普段」と「特別」
2003年の8月28日(日本時間)火星が7万3千年振りに地球に大接近するという記事がニューズウィーク(July28、2003、p.51)にあった。夏休みのプログラムに火星観察を入れる少年グループがあるかも知れない。7万3千年ぶりの接近は「めったにないこと」である。火星を観察するのはもちろん、灯りのないところへ行くことも、野外で夜更かしをすることも、子どもにとってはまさに非日常の活動であろう。頻度の観点から見れば、非日常とは「めったにないこと」と定義できる。広辞苑によれば、「日常」とは毎日のようにあることであり、「普段」であり、「平常」であり、「平生」である。それゆえ、「日常」は特別ではない。これに反して、「非日常」とは特別である。めったにないことを体験するためには、日々のくり返しを離れるしかない。日々の安心と平和からも離れる。毎日繰り替えしている「日常」は知り尽くしているが、「非日常」は未知の時間である。未知には成功の保証はかならずしもない。成功の保証がないままに、敢えて危険を冒して挑戦することが「冒険」であり、「探険」である。少年のサマープログラムは、成功の保証のない危険な冒険であってはならないが、慣れ親しんだ日常と異なるがゆえに、未知への挑戦のときめきを演出することができる。
4 「日常」と「非日常」
どのような基準を採用しても、どこまでが日常でどこからが非日常であるかをきめることは難しい。非日常は「日常に非ず」という意味であるから、広辞苑が定義する「普段と平生と平常」の反対である。かくして、日常は非日常によって定義され、逆に非日常は日常によって定義される。国語辞典がいうように、日常が「普段」で、非日常が「特別」であるとすれば、「普段」は「いつもやっていること」で、「特別」は「いつもはやっていないこと」になる。しかし、頻度や連続性の定義は簡単ではない。どの程度が「いつもやっていること」になるのか。どの程度繰り返せば連続性になるのか?
さらに、頻度や連続性を基準にして「日常」、「非日常」を定義しようとすれば、当然活動の中身を特定することはできない。定義の鍵は「いつもやっているか、否か」であって、活動の中身は原則的に関係ない。それゆえ、初めは特別の活動でも毎日やっていれば「特別の活動」ではなくなる。中身がなんであれ、「いつもやっていること」は「日常」であり、「いつもはやっていないこと」は「非日常」となる。
したがって、時代により、地域により、家族により、子ども本人によって、子どもの「日常」の中身も当然変化する。活動の中身を吟味するためには、子どもの日常も、非日常も、発達と教育の視点から暮らしの中身が検証されなければならない。もちろん、日常が平穏である保証はなく、幸福である保証もない。それゆえ、非日常が事件である必然性はなく、ときめきを意味する保証もない。内容的にも、時間的にも日常の概念は極めて曖昧であり、複雑なのである。その分だけ、われわれは自らの思いを日常に投影している。日常が代え難く平和であったり、耐え難く退屈であったりするのはそのためであろう。
5 確固たる日常
日曜が待ち遠しいのは、確固たる日常が存在する故である。毎日が日曜日であれば日曜は待ち遠しくはない。日曜が待ち遠しいのは、それが自由の祝祭だからである。それゆえ、ウイークデーとは、義務と束縛のくり返しであり、果たさなければならぬ事がスケジュールを満たしている。毎日が日曜日であれば日曜日の自由と祝祭性が日常化してしまう。この時、日常は退屈の代名詞となる。
やらなければならない義務を前提として、何をやってもいい自由が輝くのである。毎日が休みの時、日曜の楽しみが失われるのは「自由」の定義も、「祝祭」の定義もできなくなるからである。「自由」は義務と束縛によって定義されているのである。力を尽くして義務を果たし、単調なくり返しのリズムに耐え、逃れ難い普段と平常の退屈を自覚しているからこそ「非日常」の祝祭性が輝くのである。自分の内面に確固とした日常のリズムと平生の努力が確立しない限り、祭は祭にならない。ウイークデーの義務と束縛に耐えていない時、日曜日は心ときめく日曜日にはならない。人間の人生理解の不可思議である。「寒」の自覚をなくして「暖」を理解できず、「暗」の実感を経ずには「明」は理解できない。日常と非日常の関係も基本的に同じである。確固とした日常の存在が非日常のときめきを増幅するのである。
日本の祭が輝きを失ったのはそれらが商業化されたからではない。祭の定義の前提であった「確固たる日常」を失ったからである。作業の区切りの喜びも収穫の祝いも、苦しい幾多の農作業や自然との戦いを経て実感される。農業が機械化され、作業行程が合理化されて、労働人口のごく一部のみが農業という自然との共生、自然への挑戦を経験するだけでは、祭はもとの祭ではなくなるのである。労働がもはやかつての苦行でなくなった時、田植えの終了も稲刈りの完了も、昔のときめきを運んで来ないのは故なしとはしないのである。子どもの夏休みもまた似たような道を辿っていないか?
6 「非日常」の「日常化」−テレビと塾とコンピューターゲームと学校
表記の見出しは、子どもの日常を構成する要素の配列である。配列にはある程度の順序性を意識している。子どもにとっての重要度の順である。子どもによってはゲームとテレビの順序は入れ代わるのかも知れないが、それぞれが日常を構成する4大要素の一つである事は間違いあるまい。塾と学校とテレビは子どもの日常となって久しい。しかし、ゲームは最近まで「非日常」であったものが日常化したのである。テレビも、ゲームも、労働や学業の努力から解放される娯楽として登場した。たまの映画や祭の縁日に出かけて行くように「たのしみ」であった。大人にとっても、子どもにとっても、日常から逃避する非日常のプログラムとして出発したのである。情報化時代とは、日常の中にかつては非日常の代表であったメディアの娯楽プログラムを定着させた時代なのである。
7 連続する受動的擬似体験
「テレビに子守りをさせないで」(岩佐京子)以来多くの警告の書が出版された。最近では、森昭雄、「ゲーム脳の恐怖」日本放送出版協会)や川島竜太「自分の脳を自分で育てる」(くもん出版)などがある。映像メディアへの連続的接触が人間を受動的にする事への警告である。いずれにせよ、少年の発達にとって受動的擬似体験の連続は悲劇的である。受動的擬似体験に埋没すれば、人との交流の時間は激減する。親子の接触も友だちとの交流もなくなるのはそのためである。テレビやゲーム機の前で過ごす時間が多ければ、身体を使い、5感を駆使した体得の機会も失う。テレビとゲームの接触時間が長ければ長いほど、子どもの「能動的」時間は失われる。上記「ゲーム脳の恐怖」を表した日本大学の森昭雄氏の子どもの脳の研究では、ゲーム中の子どもの脳波がぼけた老人の脳波に一致していると指摘している。森氏の指摘が確認されれば、ゲームへの熱中は脳そのものの発達を阻害することになる。ゲームが家族を分断し、ゲームに熱中した子どもが癲癇に似た発作に襲われたという例がカナダの研究で報告された(2003年8月10日、殺人コンピューターゲームと子ども、NHK衛生放送第一)。
昔の子どもの日常は学校と家の手伝いと束の間の自由な遊びだった。それゆえ、夏休みは輝き、サマープログラムの林間学校や海浜学校はときめきであった。しかし、現在の子どもは、自由とときめきをテレビとゲームと携帯電話の刺戟で代替している。
刺戟は十分に受けているが、すべては受動的である。これらのメディアとの接触が長いほど能動性の欠如を意味する。日常の興奮と刺激も過剰であることを意味する。
能動性を身に付けていなければ、林間学校も、海浜学校も楽しくはない。能動的な楽しみは楽しむための能力と前提条件が必要であり、楽しむことの学習が必要である。また、日常のメディアの興奮と刺戟が激しければ、非日常のときめきは薄れる事になる。毎日をメディアの擬似体験の興奮に曝していれば、ときめきをときめきとは感じなくなる。刺戟が強い分だけゲームの興奮から離れられなくなるのであろう。ゲームに”中毒”するというのはそういう意味であろう。受動的擬似体験であっても、子どもに与えられる興奮の連続は夏休みの興奮を空しくしてしまうのである。夏休みに限らず、自由時間がテレビとゲームに耽溺する時間になれば、”中毒”は益々進行するであろう。一度受け身になってしまった子どもの感覚体と精神は、社会と関わる事も、自然と関わる事も億劫で、困難になる。交流も、参加も、自然体験も「能動性」の別名だからである。まして、日々受動的に過剰な興奮と刺戟に曝されている子どもは興奮と刺戟を特別には感じない。活動するにせよ、交流するにせよ、能動的な日常のノルマに耐えたものだけが、祝祭性のときめきや感動を体験できる。毎日が刺戟と興奮に満たされていればそこから抜けだせなくなり、新しい体験への挑戦も難しい。林間学校にも、海浜学校にも行く気さえも起こらなくなるのである。すでに、受動の刺戟に麻痺した精神には、努力しなければ達成できない非日常の祝祭は魅力でもなく、特別でもない。
8 テレビ・ゲーム中毒の解毒剤
人々がテレビやコンピューターゲームに教育上のマイナスを直感しているのは、それが日常に入り込んだ「非日常」だからである。かつて、映画に出かけるのは非日常の特別行事であった。わくわくしたのも、どきどきしたのも非日常の祝祭性が興奮を禁じ得なかったためである。テレビはそれを日常茶飯のものと化した。ゲームも同じである。日常に侵入した「非日常」は受動的な擬似環境を日常化し、その中での刺戟や興奮を日常化した。日常が退屈な我慢と束縛の連続で、非日常が心ときめく興奮と刺戟ヘの誘いであるという対立的な構図はテレビの登場をもって終わりを告げたのである。それゆえ、テレビやゲームの登場は子どもを受動的にして、「体得」の機会を奪い去ったに留まらない。無気力や生活の乱れを引き起こしたに留まらない。テレビはかつて存在した日常と非日常の境界線を消し去ったのである。テレビによって子ども達が非日常への脱出願望を失って行くのは当然の帰結なのである。それゆえ、能動性を回復し、非日常を実感するためのサマープログラムはテレビやゲームを消したところから始まる。
テレビはもちろん、ラジオの持ち込み禁止も、携帯の持ち込み禁止も、日常の中の非日常を遮断し、受動的な擬似体験とは異なる人間の5感あるいは6感を駆使した肉体的活動による非日常体験を創造するためである。
子ども達はテレビの中の飢えを知っており、テレビの中の汗や疲れを知識として知っているかも知れない。しかし、現実の汗も現実の疲労困ぱいも体験した事はない。肉体的非日常性とはそういう事を自らの肉体を通して体得することを意味する。肉体を通して理解しない限り人間には会得出来ないことが多い。それが人間の「個体性」であり、「人の痛いのなら3年でも辛抱できる」ということわざの意味である。サマープログラムはテレビ中毒やゲーム中毒の解毒剤である。解毒剤は直接子どもの肉体に与えなければならない。だからこそ体験プログラムが意味を持つのである。 |