編集後記
先駆け
40年の沈黙
”遠い町の話ですけど、お願いしたい事があって、、、、”と友人が訪ねて来た。”もう大分前の出会いなのですが、、”と前置きして、彼女は遠い仲間の戦いを語った。彼女たちはかつて女性の地域リーダーを養成する「女性(婦人)の翼」で研修を共にした仲間である。この種の研修事業に税金を投入して実際にどのくらい役に立つのであろうか、と疑問を持っていた筆者であったが、彼女の話を聞いている内に認識を改める事になった。「翼」の事業は社会を変えつつある。彼女たちは今、世間に先駆けて、新しい時代を切り開いているのである。
彼女の友人は町の歴史ではじめて町会議員の選挙に立候補したのである。その町では過去40年間町会議員の選挙はなかったという!その事に疑問を感じた立候補である。40年の歳月は長い。ほぼ半世紀である。恐らく町の子ども達は身近な人々の選挙運動というものを見た事はあるまい。町会議員が選挙で選ばれるという学校の知識を実感した事もあるまい。子ども達には、きっと誰かが、それも男達が「選挙」の必要がないように、裏で仕切って来た、という事に想像力が働くであろうか?恐らく、働くのであろう。若い世代がしらけて、この国の制度を信用しないのは分かるような気がするのである。
しかし、何はともあれ、彼女の立候補は40年ぶりの選挙を引き起こした。「女ごときが、、」という反発や論理が目に見えるようであるが、選挙をせざるを得ない状況を作り出した時点で彼女の歴史的「勝利」は動かない。子どもに対しても、大人に対しても、政治学習の教育効果は抜群である。男女共同参画学習の教育効果も抜群であろう。戦後民主主義では誰もが「国民主権」を言い、「住民参画」を言う。建て前としては「男女の平等」も言う。人々が口にする「主権」の原点は為政者の選出である事は論を待つまい。現実の選挙がいかに”くだらない”と思われても、実際の候補者に”投票に値する人がいないではないか”と感じたとしても、町民主権の原点は選挙であろう。
私は遠い同志を応援に行くという友人の思いに打たれて、依頼された応援演説の原稿を一気に書いた。本人の事は知らないのであるが、前世のどこかで巡り会ったと考える事にした。
演説草稿には、選挙こそが町民主権の出発点であり、40年の沈黙を破って、今、女性がその第1歩を踏み出したのである、と書いた。子ども達にも、民主主義の原点を見せよう!、と書いた。「女子は半天を支える」のに、一人の女性議員も出せないのは意志決定における公平の原則に反する、と書いた。
やったことのないことは出来ない
やった事のない事は出来ない。教わってない事は上手には出来ない。これは教育学の常識である。大人の場合も、子どもの場合も同じである。女性の社会参画に関して、男性からも、女性自身からも、相対的に女性の側に能力、自信、意欲、積極性などが欠けているという意見が出される。状況から見て、ある程度までは事実であろう。しかし、男性の能力、意欲、自信などを育ててきた要因を考えてみれば、問題の根源は明らかである。豊富な社会参画の経験こそが男性の能力や自信を育てたのである。教育学の常識の通りである。換言すれば、社会参画の機会を奪われた女性が、男性と比べて相対的に社会参画に必要な能力や意欲を開発できなかったことは当然の帰結である。
女性の活動舞台を広げることなしに、現状の女性の能力や意欲を問題視することは判断の公平を欠いている。当然、子どもの場合と同じように、能力や意欲の向上は一気には望めまい。それゆえにこそ、彼女の友人は時代を切り開く先駆けなのである。 |