”小人の閑居”−学校週5日制の1年
学校週5日制の完全実施からすでに1年。予想したことが予想したように結果を生んでいる。
「することがない」と3人に1人が回答
昨年春からの完全学校週5日制で、休日が増えたことを小中高生の7割が喜んでいる一方、3人に1人は、「することがなくてつまらない」と思っていることが17日、文部科学省の調査で分かった。当然であろう。「小人閑居して不善を為す」である。子どもは「小人」を代表している。子どもの余暇が充実に繋がるというのは一部のノー天気な教育者の迷妄である。ましてや子どもが自らの自由時間を能動的にして、創造的な活動に繋げて行くだろうという予言は無責任きわまりない関係者の怠慢である。それゆえ、学校週5日制は「土曜教育力」なしに「ゆとりと充実」には繋がらない。自由時間の創造的な活動を発明するには自律のエネルギーと能力が必要である。既存の活動に参加するだけでも、励ましや応援が必要である。子どもはまだ自律のエネルギーの点でも、能力の点でも開発途上にある。親や教員の自覚的な応援と奨励がなければ、子どもは動かない。子どもの成長を目指して、宿題を出すのも、「勉強」と称して学習を強いるのも、子どもの自由に任せて達成できるような簡単な課題ではないのである。調査結果はそのことを示している。
調査は、文部科学省が「子どもの体験活動研究会」(代表=平野吉直・信州大教授)に委託して、昨年10―11月に行ったものである。対象は、全国の公立の小3―高2生と小学生の保護者、それぞれ約7万5000人ずつで、79%の約11万8000人が回答している。
自覚格差−「土曜教育力」格差−「生涯学習」格差
膨大な調査である。しかし、やる前から分かっていた結果でもある。毎週土曜日が休みになったことを「よかった」と答えた児童生徒は、各学年で半数を超え、「まあよかった」も合わせると、7割を超えていた。普通の感覚では休みが増えれば「良かった」になることは決まっているだろう。子ども達に自律のエネルギーと能力がない以上、時間消費の方法は先ず受動的になる。それが調査結果に現れている。
土日の過ごし方は、高校生を除くと、「家でテレビやビデオを見る」が6割を占めた。しかし、一昨年の調査と比較して、「家の近所や学校の回りで遊ぶ」と答えた小3が19ポイント増えて70%に達し、「部活動をする」という小5も18ポイント増えて36%になるなど、屋外で活動する児童の増加も見られた。能動的活動の増加は、保護者の応援と自衛措置が効を奏し始めたとも解釈出来る。五日制の完全実施に関心を持って来た保護者が、家でゴロゴロしている子どもに危機感を覚えるのは当然のことであろう。
一方、「することがなくてつまらない」ことが「よくある」「時々ある」子は、32―37%で、「学校や家ではできない体験をもっとしてみたい」と思う子は「時々」も入れて42―62%に上り、充実感を得られない子も多いことが分かった。この状況が固定的に2年も続けば「生涯学習格差」の発生は不可避である。子どもの「格差」の原因は、親の自覚の「格差」でもあるが、地域や教育行政が提供する「土曜教育力格差」がもたらす結果でもある。
親の意識変化では、「子どもの教育全般について、より関心を持つようになった」と考える人が36―45%に上った。しかし、「子どもは充実した休日を過ごしている」と考える人は、5日制実施前より1割減って5割程度である。半数の保護者は「週5日制の趣旨が社会全体で理解されていない」と答えている。この感想は「理解したくない」と読み替えるべき内容を含んでいるだろう。「土曜留守家庭」の存在は明らかなのに、実際の配慮はないに等しい。「週5日制」が始まっても親の忙しさは変わらない。文科省は家庭教育向けの「手帳」を作ると言うがそんなものを読んでいる暇はないのである。問題は「土曜プログラム」の広範囲な実施である。おそらく、専門機関である行政や学校がのんびりしている分だけ、一般保護者の危機感も深まらない。子ども自身が能動的に動かない限り、自律のエネルギーも、耐性も、能動性も形成されない。そのためには能動的な「土曜プログラム」が必要なのである。そのことの自覚が「少年の危機」の自覚である。危機の自覚がなければ、子どもの「自由時間」は彼等の活動への関心や指導に結びついて行かないのである。生涯学習格差は忍び寄る格差である。ある意味では「見えない学力」格差である。気付いた時にはすでに天文学的な距離が開いていることになる。
行政の応援
文科省では、「休日に配慮している親ほど、子どもの充実度は高い。つまらない思いをしている子も、体験活動をさせてやれば減る」(生涯学習推進課)と分析している。来月には、「週5日制事例集」を市町村教委に配布するほか、週末の学校開放を進め、情報提供に力を入れる、という。(調査結果の引用は読売新聞、4月17日、日本経済新聞、4月18日)文科省も何年同じような「学校開放策」を繰り返しているのか。放課後の学校は地域のもの、子どものものであると強力に宣言すればいい。何のための中央集権教育行政かと思う。中央で決められることははっきりと決めればいい。決められないのであれば、八王子市長の黒須さんの言うように「もっと地方が独自性を出せるような環境を作るべきである」。(日本経済新聞1月18日)休日や放課後の学校は、校長の管理責任を解除して、教育行政に移せばいい。それさえできれば、福岡県も、学校の外の、「アンビシャス広場」に莫大な金をかける必要はないのである。それらの金は「放課後児童健全育成事業」のソフトに廻すことができるのである。ソフトがないのに「広場」だけあったって意味はない。
教師の応援
この時、教員は子どもに何を語っているのか?五日制対応で土曜のプログラムを実施している町の担当者は、教員たちが子どもたちに一言でも活動を勧めてくれれば、参加率は変わるのですがね、と悔しがっている。活動プログラムのソフトは一所懸命工夫している。一言教員の応援があれば、子どもは動く。小さい時ほど子どもは教員を敬愛し、信じている。教員の一言は子どもにとって影響甚大である。しかし、反対派の教員にとって教育行政が土曜プログラムに成功しては”困る”ことなのであろう。戦いはすべて、敵の成功はわが方の失点に繋がり、敵失はわが方の得点に結びつくのである。
学校五日制に対して「教師は何もしない」という世間の強い不満もある。親の自覚が高まって、土曜日のプログラムに自分達がかり出されるのはごめんであるという意識もあるであろう。残念ながら一部の先生方の「部活」への熱意もいまだ「土曜プログラム」の指導には結びついていない。教育行政と組合の対立は水面下で続いているのである。子どもの危機は深まる一方なのに、教育界の社会病理は重い。
八王子市の「教育特区」構想
市長の教育論
不登校も閉じこもりも全国的な拡大は、教育の専門家の敗北である。しかし、行政も学校もそうは考えていないように見える。「教育特区」構想で八王子市の黒須隆一市長は日本経済新聞のインタビューに応えて「不登校生向け小中一貫校」の発想を次のように述べている(2003.1.18)。”午前中は自分の学力にあった勉強を、午後には八王子車人形のような伝統文化やものづくり、スポーツ、芸術などの活動を通じ、生き甲斐や関心を見い出す手助けをしたい。”
義務教育は「履修主義」が原則である。履修主義とは「履修」さえすればいいという原則である。従って、基本的に成果・成績は問わない。多少休みが多くても、小学校の時期が終れば、「履修」が完了した事にして卒業させる事ができるのである。中学校も同じである。したがって、小学校を卒業した事になっていると次は中学校の勉強を始める。休んだ部分を飛ばして上位の学習を始めても分かるはずはない。縛っているのは「学習指導要領」である。市長が「習熟度別の学習」にこだわるのは、子どもを、分からない勉強の苦痛から解放するためである。履修主義の原則の下で、不登校が発生した時、学習指導要領はもっとも有害である。連続した学習を途中で中断して上級の勉強ができるはずはない。市長の感想は”結局は、ほとんどが卒業式の日に家に卒業証書を届けておしまい。過激な言い方かも知れないが見ても見ぬふりをしていたように思う”、という。”校長会も関心がないように見えた”、という。不登校の問題に取り組んでいないではないか、という指摘である。
学習指導要領の示すスケジュールに従って動かざるを得ない学校に同情の余地はあるが、こと不登校については、市長の教育論の方が正しい。周りを見渡せば市長の指摘の通りである。実質的に何もやって来なかった教育の専門家の教育論より遥かに説得力がある。マスコミは小泉構想は口ばかりと連呼するが、「特区」構想一つを取っても、これまでのどの内閣よりも制度の革新を進めている。メディア関係者のように、制度変革の実践経験のない人々にはその意味がいまだ見えていないのであろう。八王子市長はその事を具体的に証明したのである。教育行政は恥を知る事になるか?
現状の分析と原因の分析
しかし、八王子市長の教育論が成功するかどうかは不明である。黒須氏による現状の指摘は正しくても、不登校の原因分析は明確ではないからである。黒須氏は、”(不登校は)たまたま学校がいやになって、それ以上進んでいないという事であって、ちゃんと行く気になって教われば、高いレベルに到達できる子もたくさんいるはずだ。”という。”不登校の子どもが百人いれば、百通りの学校に行かない理由があるはずだ。家庭的な理由もあれば、学校で特に教師や友だちとうまくいかないというのもあるだろう”。
不登校が始まった切っ掛けは市長のおっしゃる通り千差万別であろう。しかし、真の原因は「欲求不満耐性」や「行動耐性」の欠如である。市長が言うように「たまたま学校がいやになった」のではない。いつかは必ず学校がいやになるのである。現象的には「たまたま」だが、いずれは確実にいやになる。耐性が形成されていない子どもは、自らの「状況」に耐えることが出来ないからである。
現象的には、様々な社会的、家庭的な「切っ掛け」を探す事はできるが、不登校の基本原因は本人の「弱さ」である。従って、原因は、百人百通りではない。百人一通りである。肉体的にも、精神的にも状況に耐える力が不足しているのである。本人の弱さを補完しない限り些細な事が挫折の引き金になる。要は、世の中、自分の思ったようには行かないのである。願ったようには進まない事も多い。がまんと根性が足りなければあらゆるつまずきが挫折の原因となる。百人百通りの原因があるように見えるのはそのためである。子どもの関心を「がんばり」や「がまん」に結び付けることができれば、八王子構想は成功するであろう。しかし、子どもの好きなことだけをやらせようとすれば十中八九は失敗するであろう。耐性の欠如は「欲求不満」に耐えたことがないことが原因だからである。 |