司会者の目線-インタビュー・ダイアローグへの抗議
山口大会の「インタビューダイアローグ」が終わって登壇者のみなさんとお昼をごちそうになっていたら、聴衆のお一人から強烈な抗議のメッセージが届きました。
"進行にも、発言にも文句がある"。"登壇者の発言は、総じて主題から外れ、核心に触れていず、実践の具体性が欠如し、協議は質問をはぐらかし、テーマの「地域ぐるみの子どもの育成」からほど遠い"というご趣旨でした。要は、物足りなくて、つまらなかったというご不満です。
思わず、抗議の趣旨は正しく、ご不満は分かるけれど、司会者には司会の礼儀と節度があり、司会者の目線から見れば、インタビュー・ダイアローグの限界をご理解下さいと申し上げたい気持でした。司会者は「聞き役」です。リード役ではありますが、提案役ではありません。「私はその節度を守っただけで」、「司会の領分を越えて発言をすることは対話を破壊します」とつぶやいたものでした。その場はそれで自分を納得させたのですが、疲れ果てて帰宅して、ぶっ倒れて眠ったあとに、当日の「抗議」についていろいろな思いが湧いて来ました。言えるものなら、「ああも言いたい」、「こうも言いたい」と夢の中で出て来たことを順不同に書きなぐりました。御不興にお感じになりましたら平にご容赦下さい。
1 なぜ資格のない、専門的なトレーニングが不十分の教員達がまっとうな教育ができたのか!?
常磐大学の坂本 登先生が教えを受けた小学校の先生方は代用教員が多く、正式の教員資格をお持ちの方はお二人しかいなかったということでした。それに引き換え現在は、高等教育が広く行き渡り、学校も、家庭も、子どもを取り巻く教育資源たるや「ありあまるほど」であるのに、なぜ家庭教育一つ満足にできないのであろうか? 筆者は、(学校教育だって満足に出来てはいない)と思っているのでわが意を得たり、と坂本発言を歓迎しました。
しかし、話題は現代の家庭教育学級の再編の方向に行ってしまい、筆者が期待した「型の教育」の方向に「ダイアローグ」を誘導することは出来ませんでした。
「型の教育」の不在
筆者が期待した問答は二つです。
第1は方法論です。かつて幼少年期の「教育のやり方」は「生きる型」を重視し、その指導に集中していたということです。 反対に、現代は、「型」の指導は、時に否定し、時に軽視し、多くの教育関係者が非教育的であると断じています。結果的に、教師の指導はバラバラで、個性だの創造性だの抽象的・情緒的な文言に振り回され、子どもは心身両面でへなへななのだ、ということです。
過去は、教えるべきことは「型通り」にすればよかったから、父母にも出来たし、特別高度な教育のトレーニングを受けていない先生方でも出来たということです。例えば、「あいさつ」がその一例です。あいさつは人間関係の基本中の基本です。あいさつに込めるメッセージは、意識するとしないとに関わらず、「おはようございます」も「こんにちは」も、「いっしょにやりましょう」、「あなたと仲良くしたい」、「あなたの味方です」、「あなたが好きです」などでしょう。あいさつは「友好宣言」の型です。人間が社会をつくって協力し合い、助け合って生きることを選択して以来、友好宣言こそがあらゆる人間関係の元です。
「型の教育」は他律
それ故、子どもにはあいさつを生活の第1歩として「型通り」に教え込む必要があるのです。「型通りに教える」とは、「やってみせる」→「やらせてみる」→「修正して教える」→「再度やらせてみる」→「褒めて」→「さらに練習を積ませる」→体得して「反射的に出るまで繰り返させる」ということです。動詞は「させる」ですから、他動詞;他律による指導です。子どもの「主体性」や「自主性」を待たない、ということが肝要です。子どもがやりたかろうとやりたくなかろうと「あいさつ」は型通りに「させる」ものです。「型通り」とは、「姿勢」を正して、はっきり大きなこえを出して」、お辞儀の角度も折り目正しく、相手を見て、尊敬を込めてするということです。こうした指導の「型」を決めていたのですから、教員免許状があろうとなかろうと簡単なことでした。掃除や整理整頓、後始末や自分自身の身辺整理も同じです。
これらは日常生活を快適・かつ効率的に運ぶための基本の型です。これも子どもの意志に関係なく、型通りにさせればいいのです。協力や役割分担や責任の遂行は共同生活・社会生活の基本中の基本の型です。それ故、協力せざるを得ない場面を作り、役割分担を遂行しなければならない機会を作って、型通りに「させれば」いいのです。「させる」とは、「他律」ですから、言葉を飾らずに言えば、「指示する」ことであり、「命じる」ことであり、「強制」することです。
言葉使いに始まる礼節や作法は保護者や師に対する学ぶ者の尊敬を表す表現の型です。「言うべきこと」、「言い方」、「言ってはならぬこと」などの基本は決められていました。礼儀や作法をわきまえないということは、保護者や先生方に対する尊敬の念を持っていないということですから厳しく嗜めなければなりません。これも「型通り」に教えれば良かったのです。
言葉も「文型」
最後に、日本語は「文の型」の組み合わせで出来ています。それゆえ、言葉を教えるという出発点は文の基本型を教えるということです。文の基本型を学ぶことこそコミュニケーションの原点です。あらゆる表現・コミュニケーションは言葉を基礎としているからです。昔の先生方は、それら言葉の基本型を「型通り」に教えたのです。教え方は音読と暗誦と書写であったでしょう。大切な教え、美しい日本語は声を出して読ませ、難度も繰り返して暗誦させ、最も大事なものはノートに筆写させたのです。教材さえ選択しておけば、幼少年教育に特別高度な教育技術はいらなかったことはお分かりいただけるでしょう。薩摩の郷中教育における「朝読み、夕読み」の伝統が一つの典型です
教育力はプログラム
恐ろしいことに現代の教育は、上記のどれ一つを取っても、「型」として幼少期の子どもに教え込んではいないのです。あいさつから始まって日本語に至るまで、健全かつ基本の生き方を幼少年期に体得させておかなければ他者との共同の中に生きる子どもが育つ筈はないでしょう。家庭に教育力がないということは、家庭の子育てプログラムやしつけのプログラムが機能していないということです。地域はほぼ全滅です。教科教育はともかく学校も人生のしつけについては似たような状況です。要は、社会生活をしつける教育プログラムが存在しないか、あるいは教育プログラムは存在しても、方法論が間違っているので機能していないということです。しつけや指導の方法論が間違っているのは、子どもの判断や自主性に振り回されて教えるべきことを教えず、しつけるべきことを「型通り」にしつけていないからです。その根底には、子どもを教育の主体におく子ども観の誤りがあります。
優れた日本語を暗誦させれば子どもは自ずと文章の型も、リズムも、語彙も、テンポや言い回しも学んだのです。友だちとの「同調」も学んだ筈です。もちろん、そこに書かれている「生活や生き方の中身」もまるごと学んだのです。
個人の指導力より優れた型が不可欠
現代の教育は、なぜ、古典や優れた現代文を丸ごと音読させ、暗誦させないのか?子どもの記憶力や吸収力が最も豊かな時期になぜ必要なことをきちんと教えてやらないのか?教育の「適時性」をなぜ無視するのか?この点にこそ問題の核心があるのです。インタビューダイアローグにご不満の方のご不満がこの点にあるのであればまさに筆者も同感です。現代の教育観は、個々の教員の力量が優れた古典の力量に優るとなぜ考えられるのかふしぎでなりません。家庭の教育がなっていないのも、学校の教育があるべき効果を発揮しないのも、歴史の遺産をまるごと「型」として子どもに教えないからです。幼少期の教育方法にこそ問題の核心が存するのです。
「子ども観」の失敗
それゆえ、第2の問題点は「子ども観」です。このことはずいぶん繰り返して書きましたので、簡単にします。未熟な子どもを一人前に扱えば幼少年期の教育は出来ないということです。子どもの主体性」論や「子どもの自主性」論に振り回されている限り、子どもを鍛えることはできません。子どもの主体性を尊重することは子どもの拒否権を尊重することだからです。子どもがいやだと言えばそれを尊重し、子どもがきついと言えばそれも尊重する、とすれば、「我慢して突破しろ」、「辛くてもがんばれ」とは言えなくなるのです。この単純な理屈を見失ったところに学校教育や家庭教育の無知があります。幼少年期の教育の根底には、強制と叱咤激励があります。子どもの欲求を否定せざるを得ないところがあります。この原理を見失ったところに、総じて、現代教育の蒙昧があるのです。幼少年期の子どもを指導者と対等に置いてはならないのです。父母と対等に置くなどとはとんでもないことなのです。坂本先生は家庭を取り巻く人間関係の構造が子どもにも父母にも「生き方」を教えなくなったというご指摘でした。その通りでしょう。それ故、社会教育に「家庭教育学級」を取戻して、親子を取り巻く人間関係を再構築することこそ大事であるというご指摘でした。それもその通りでしょう。
しかし、そんなまどろっこしいことをやっている暇はないのです。親子を取り巻く人間関係の構造が変わる前に日本の教育が崩壊するからです。
法律上の子どもの権利を教育現場に持ち込んではならないのです
家庭にも、学校にも、単純明瞭な為すべきことがあるのです。幼少期の子どもには子どもが嫌がろうと興味・関心があろうとなかろうと「させるべきことはさせる」、「教えるべきことは教える」、どんなに退屈であろうと、褒めて、煽てて、一緒になって、身に付くまでの「練習を繰り返す」。それが師弟同行であり、型の教育です。家庭が駄目でも、教員の専門資格が足りなくても「型」を教えれば、子どもは確実に変わります。「生きる力」もつきます。それが教育方法の力です。
「型の教育」を繰り返したら、子どもは「型にはまり」、「型通り」にしか育たないとご心配の向きには、世阿弥の名言「型より入りて、型より出でよ」を提示するに留めます。世阿弥の指摘は「基本の習得が先」、「自由な創意・工夫はそれから」、ということでした。まずはわが「型より入りて」、然る後に、わが「型より出でよ」とは、方法論においても、内容論においても、教育の極意を示しているではありませんか。「型」を習得したあとは、それぞれの思った通り、自由に工夫してやってみろ、ということです。この国は幼少年期の「型の習得」も不十分、青年期の「自由にさせること」も不十分です。家庭教育に限らず、あらゆる教育分野が閉塞している理由がそこにあります。法律上の子どもの権利を教育現場に持ち込んではならないのです。
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