再び米国生活

 ステートカレッジの自宅に到着しました。昨日は丸一日移動日で、成田からデトロイト経由の約16時間の移動。飛行機が1時間早く着いたのはよかったものの、入国審査と税関は長蛇の列で、抜けるのに1時間以上かかった。
 短期の語学研修と思しき大学生らしきご一行様が前にいて、誰も英語が通じなくて時間がかかっていた。みんなで英語を学びに出てくるのはよいのだけど、多くの場合、みんな日本人ばかりでつるんでしまってせっかく出てきた意味がなくなってしまい、あまり力がつかないままに帰国となってしまう。これも彼らのせいではなくて、何百時間も英語の時間を取っていながら、入国審査のやり取りくらいもできるようにならない日本の学校の英語教育の方にむしろ非が大きいと思う。習うより慣れろ、で海外に出た方が身につきやすいのは確かであっても、いきなり水の中に放り込まれた状態で泳ぎだすには根性がいる。泳ぎ方の見当もつかない状態で放り込まれたような状態では、みんなで手をつないで水につかったままになってしまうのも無理はない。
 それはさておき、アメリカ北東部に位置するペンシルバニア州のステートカレッジは、もうずいぶん寒い。今朝は余裕で氷点下。先週までは摂氏で20度くらいあがっていたそうなのだが、もう晩秋を過ぎて冬らしくなっている。紅葉のきれいな時期も過ぎていて、葉がかなり落ちてしまっている。これから北国の寒い冬がやってくる。
 今年は日本で一年の半分くらい過ごしたせいか、日本的な感覚が元に戻ってきている感じがする。一番感じるのは、清潔さが日本標準になった気がすることだ。著名ブロガーの渡辺千賀さんも書いていたが、アメリカ生活が長くなると、多少の薄汚さや食べ物の鮮度などは気にならなくなる。というかいちいち気にしていると生活ができない。それが、日本では赤福の偽装問題とか頻繁に報道されていて、食べ物の衛生には敏感になるし、家の広さの違いなどから、部屋の汚れが気になりやすい。日本での生活をしばらく続けてきて、そのペースに身体が慣れてしまっているようだ。衛生面の細かいことが以前より気になりだしたのを感じる。またもうしばらくすればこちらのペースに戻るのだろうけど、このような二重生活も長くなって、普段の何気ないことががらりと変わるために気づくことがあって面白い。
 戻ってきた翌朝は例によって時差ボケで夜明け前に目が覚め、やたら頭がすっきりしている。考えを整理しないといけないことはこういう頭の冴えたときに一気に進めて、その後は録りためたビデオを見ながら朝ごはんを食べて、メールや書類を片付けたりしながら過ごすのが今週の朝の日課になる。

2 thoughts on “再び米国生活

  1. >短期の語学研修と思しき大学生らしきご一行様が前にいて、
    >誰も英語が通じなくて時間がかかっていた。みんなで英語を
    >学びに出てくるのはよいのだけど、多くの場合、みんな日本人
    >ばかりでつるんでしまってせっかく出てきた意味がなくなってしまい、
    >あまり力がつかないままに帰国となってしまう。これも彼らのせい
    >ではなくて、何百時間も英語の時間を取っていながら、入国
    >審査のやり取りくらいもできるようにならない日本の学校の英語
    >教育の方にむしろ非が大きいと思う。習うより慣れろ、で海外に
    >出た方が身につきやすいのは確かであっても、いきなり水の中に
    >放り込まれた状態で泳ぎだすには根性がいる。泳ぎ方の見当も
    >つかない状態で放り込まれたような状態では、みんなで手を
    >つないで水につかったままになってしまうのも無理はない。
    言語の運用能力の問題よりもむしろ、入国審査がどのような
    目的で執り行われているかの知識を持っているかどうかに
    かかっていると思います。 
    どのような質問が来るのかをおしえておけば、英語の表現力
    が足りなくとも、何を伝えたらよいのかという知識の知識で
    なんとかなるでしょう。

  2. >toyonさん
    コメントありがとうございます。
    > 言語の運用能力の問題よりもむしろ、入国審査がどのような
    > 目的で執り行われているかの知識を持っているかどうかに
    > かかっていると思います。 
    > どのような質問が来るのかをおしえておけば、英語の表現力
    > が足りなくとも、何を伝えたらよいのかという知識の知識で
    > なんとかなるでしょう。
    そういう知識の知識も含めて言語の運用能力ですから、
    それはそれで必要なことです。
    しかしここで問題にしているのは、何百時間の学習の後なのに
    スタートラインがあまりにも後ろすぎることです。
    未知の状況においてそれまで学んだことが何の足しにも
    なっていないのはどうかと思います。
    一般的な運用能力か、個別の文脈に即した実践知識か、
    という二分論ではなくて、根本的に学習の密度が疎な
    状況を改善する方向で考える必要があると思います。
    また、日本の英語教育は読解重視だからという意見もありますが、
    普通に教育を受けても読解すらろくに使えるレベルには到達しませんから
    これも言い訳にはならないと思います。

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