使えるスキルの教え方と身に付け方

 ここ2週間の忙しい時期に、自分がどういう風に仕事をさばいたかを振り返ると、ここぞという時に頼りにしているのは、いずれも自分が積み上げてきた経験やスキルだった。それがどうやって積み上げられたかというと、自分のできるレベルよりも難しいものを締切に迫られながら、半べそかいて必死になってやったものほど血となり肉となっている。筋肉をつけるのと一緒で、軽いものをいくら持ち上げても力はつかなくて、逆に自分の力量からかけ離れているものは持ち上がらないし、下手をすると筋を痛める。つまり、楽な仕事からは新たなスキルは身につかず、難しすぎる仕事は無理をしてやっても、次につながるスキルは身につかない。楽な仕事ばかりやってると、飽きるのでモチベーションが下がる。同様に、無理な仕事をやりすぎると、その仕事に対する拒否感が植えつけられてモチベーションが下がる。


 一方、気持ちの緩んだ状態で臨む学習の場というのはあまり意味がなく、ダルそうに授業を受けている学生は何も学んでないか、あるいはいかにダルい授業を切り抜けるか、という変なスキルが身につく。私の場合は、中学から高校にかけて、教師に気づかれずに寝るスキルや、つまらない講義をブロックして、自分の空想の世界で時間をつぶすスキルが身についた。これは大学でも企業内研修でも、つまらない講義の割合がとても多いので、とりあえず役に立った。新人研修の時に寝ていても、見つかって吊るし上げられるのはやる気のない気の毒な同僚だった。こういうスキルが役に立つといっても、それが自分の身を立てるスキルにはならない。受け身な処世術でしかない。それに寝てはいけないときにもヒューズが飛んで寝てしまいやすくなるという副作用もあって、肝心な場面でその副作用に被害を被ったこともあるし、ずっとその副作用と付き合いながら生きていく羽目にもなってしまった。
 スキルを身につけるのに一番有効な方法は、そのスキルが必要な状態に放り込まれることである。私の授業中に寝るスキルは、退屈で死にそうな時間を乗り切らなければいけない状態で身についた。授業で学んでいたことは、テストで点を取らないといけないという必然性から学んだのであって、授業のよさがもたらしたものではない。水泳を覚えさせるには水の中に放り込むのが一番早い、という例えがよく出されるが、基本的にはその通りである。営業研修でも、自動車運転でも、ロールプレイやシミュレーションはある程度は役に立つが、その現場を踏まないことには最終的に必要とされるスキルは身につかない。ただ、リアルな環境というのはいつも学びに向いているというわけではなくて、危険が伴う。水泳でも流れの速い川に100人も放り込めば、運の悪い何人かは流されて溺れてしまうかもしれない。戦闘機の操縦を覚えるために、いきなり新米パイロットをドッグファイトの中に放り込めば、帰って来れないものの方が多いだろう。教える側が面倒見切れる人数と、その場に内在するリスクの度合いを考えないと、タイガーマスクの虎の穴のように、過酷な学習の場になってしまう。それを是とする乱暴な人もいるが、そういう人は脱落者を減らしてゴールまでたどり着く学習者を増やすことが教育的な配慮であるということを理解していない場合が多い。
 教育という文脈で本物の経験を通して学ぶためには、リアルな環境で、リスクを下げたり学びやすくしたりして学習環境を仕立てるか、教室のような教育の場で、体験できる経験の精度を高めるか、という2つの方向性がある。前者は、営業の場で上司が補助しながら実際のクライアント相手に交渉させたり、自動車学校で教官付きで公道を走るような場がそれにあたる。後者は、リアル環境を再現したシミュレーションを使ったり、授業の課題に外部から企業を呼んで、擬似クライアントになってもらうというようなことである。この二つの違いは、学習者がリアルの環境に出向くか、学習の場にリアルの環境を持ち込むかという点である。
 どちらも一番大事なのは、(1) 環境に内在する リスクを下げて、学習者が怪我や損失なしに安心して試行錯誤できるようにする、(2) 学習者のレベルにあわせた学習活動ができるようにする、(3) 本気で取り組む必然性を持ち込むことである。狭い世界で完結する学習は、教室の中に完全にリアルな環境を作れる。本棚の作り方を学ぶ時は、教室であろうが、森の掘っ立て小屋であろうが、道具と材料がそろっていればそこはリアルな環境である。MSワードの使い方を学ぶ時は、ワードの入ったコンピュータがあれば、それ以上にリアルな環境は必要ない。ただ、そこで重要なのは、学習の必然性である。学習者が本棚を作ることに意味を感じないのであれば、本棚を一個作ったところで、本棚を自分で作るようにはならない。ワードで、普段は作りもしない社内パーティのご案内の文書を作る課題をいくらやらせたところで、現場で作る文書の精度が上がることはない。いずれは必要になるから、と教えたところで、必要になる頃にはすっかり忘れて一から覚えなおしである。
 ゆえに、教育者の立場からは、学習者がそのスキルを覚えて、実際に使う場に近い環境と課題を提供し続けることが必要である。英語を教えるなら、単語と文法をばらばらに教えるのでなく、実際に使う場を提供して、その場に必要なスキルのパーツを教えるというアプローチをとるべきである。かといって、いきなり難しい課題を与えるのではなくて、難しい課題の一番シンプルな骨の部分をまず教えて、徐々に複雑化させながら、現実の課題に近づけていくことである(ライゲルースの精緻化理論やランダのランダマティックスはこういう考え方をとっている)。
 学習者の立場からすれば、教育者のお膳立てが悪ければ、取れる手立ては少ないが、簡単にできて有効なのは、自分の内的なモチベーションを意識することと、そのモチベーションと学ぶことをつなげようとすることである。いつか必要になるかららという理由だけで自分をたきつけて学んでも、自分の使う気が起こらないことの方が多いし、どんな風に必要なのかのイメージがないままに学んでも的外れになってしまう可能性が大きい。仕事で使うのであれば、仕事で使うように学ぶことである。学ぶことを選ぶ際には、自分がやっていることに対して不足を感じていることを選んだ方がよい。何か手に職をつけたいという理由で簿記を学んでも、実際に経理の仕事をする時に仕事にあわせて学びなおす手間が多くなるが、経理の仕事を自分がやってみて感じたスキルの欠落感をもとに学んだ方が、学んだことと課題とが直結して効率がよくなる。その点において、資格のための学習というのは、資格を取りたいというインセンティブがもたらす効果はあっても、使えるスキルという観点においては、非常に無駄が多い。資格を取るための学習内容が、実際に使う内容と文脈に直結していればよいが、そうでない場合が多い。資格ブームや生涯学習ブームのような雰囲気に流されて学習を始めると、それはきっかけの一つとして意味があるとしても、成果として得られる使えるスキルが身につくということはあまり期待できない。それらは娯楽としての学び、消費としての学びという意味はあっても、使うための学び、創造のための学びにはつながりにくい。まずは基本に返って、自分は何がしたくてそれを学ぶんだ?ということを自分に問いただし、今学んでいることや学ばさせられていることが、自分にとって意味を持つとしたらどんな形だろうか、と突き詰めて考えることである。もし、どうやってもモチベーションと学ばさせられていることがつながらないまま学びを強いられているような場合は、人に気づかれずに寝るスキルや、人に迷惑をかけずに退屈を紛らわすスキルのような処世術を身につけるということでよいと思う。退屈な講義やヘボなドリルによって、将来の学習意欲を消費させられてしまうよりはずっとましである。