スキルの鈍りに対する感覚

 渡米して一週間が経過。時差ボケのせいで夕方以降は気を緩めると寝落ちして、起きると早起き過ぎでまだ真夜中、という毎日が続いた。そろそろ単なる早起きくらいの時間に戻りつつある。
 日米で生活のなかで使うスキルが違うため、移動してすぐはしばらく使わずに鈍っていたスキルのリハビリ期間のような感じになる。切り替わるスキルの筆頭はもちろん英語。誰しもが経験するように、しばらく使わないでいると普通に聞けていた音が聞けなくなり、言えていたことが言えなくなる。これは第二外国語なので仕方のないことだ。日本語でも多少ある。スピーチのつなぎ言葉が出てこないとか、社会人の作法的な表現が反射的に出てこないとかそういうところに現れてくる。
 ただ、移動も回を重ねてくると、数日前から無意識のうちに頭が準備しようとする。英語で考え出したり、戻ってから人に会うときのことを想像して受け答えを考えたり、CNNを見るようになったりする。アメリカに戻った後も、テレビドラマの会話を意識して集中して聞いたり、日常であえて会話が発生するようなことをして、練習機会を作ろうとする。自分がおよそどれくらいできるかがわかっているので、そこまで戻すための調整のような感じで活動している。自分の英語が今のレベルから上達しないのは、調整のレベルを超えたことをする努力を怠っているからだということも一応わかるようになる。
 車の運転も、日本では全く運転しない一方で、こちらに戻ってくると日常生活の一部になる。2ヶ月以上も運転しないと感覚が鈍っているかなと思いきや、5分も運転すればだいたいもとの感覚が戻ってきて、いつの間にかブランクのことは忘れて以前と変わらない感覚で運転できるようになる。水泳やゴルフや、しばらくやってなかったゲームをたまにやったときなどでも、基本的に何でもそんな感じ。身体的な運動技能の方が自分が意識している以上に身体が覚えているので感覚が戻りやすい。
 何事であれ、しばらく離れていればそのスキルは鈍って、自分がこれくらいできると思っていたことができなくなる。機能的な衰えと違って、鈍っている程度であれば少しやれば元に戻る。筋肉も脳みそも、いったん鍛えておけばそのレベルまでのキャパシティができる。あるスキルに熟達してくると、自分がどこまでできるかがわかり、鈍っていると自分ができていない状態を知覚できるようになる。スキルのレベルと自分の位置を把握できないのは、まだそのスキルに熟達していないか十分でない状態だろう。
 そしてその熟達の度合いも相対的なもので、自分のレベルが上がればまた未知の状態が訪れ、今までわかっていた気になっていたのは何だったんだ、という気になる。傍から見て達人の域にある人が、未熟さ認識していたり、素人目には違いがわからない動作が実はとても奥深いものだったりする境地がある。それらはその域に達してみないと、説明されただけでは解釈や想像を組み合わせて理解するしかなく、同じ目線ではまず理解できない。
 自分の力量の最大値とその中で今の自分がどれくらいできているかを知覚する力というのがスキルの熟達に付随していて、自分の達したレベルより下のレベルについては、少し動作を見ればだいたいどれくらいのレベルかを評価できるようになる。そのとき下地になっているのは自分の経験と感覚なのだろう。格闘技であれば相手と組めば自分より上か下かがわかるようになるし、人間力的なものも相手と対峙すればわかる。腕相撲で腕を組んだ瞬間に勝てるかどうかがだいたいわかるような感覚だ。自分の力量に対して自分が向かっている相手がどこにいるかで判断する感じだと思う。
 個々のスキルについてそれぞれそういう感覚があるとして、学習そのものに対する感覚を磨くことで、それぞれのスキルの感覚を助ける面もある。それがメタ認知や自己統制といった学習の分野で語られている熟達を早める学習の要素だったりする。
 学習について理解を深めることを本業としていても、学習について頭で考えてばかりいると、個人的な学習に対する感覚と結びつかない。なので自分の感覚を起点にして考えている肝心な時に、前に読んだ誰それの関連文献が結びついてこない。こういうのが自在に結びついてスラスラ言えるのがその分野の学者としての熟達なのだろう。
 そういう基準で考えて、自分がどれくらいわかっているかもわからないし、自分の最大値に比してどの位置にいるかもわからない。それをなんとかしようという努力も不足している。つまるところ、自分はこの分野の学者としての熟達には程遠いということだろう。