うちで金魚を飼うようになって、3年半ほど経った。肉食魚のエサ用に売られていた一匹15セントの小さな金魚たちだったが、今ではすっかり立派に育って、美しいヒレを持って、結構な大きさになっている。全部で五匹いて、一匹は一年年長さんで、残りの四匹は一緒に仲間に加わった。それぞれ成長の度合いが違っていて、年長のオレンジと同じサイズになったのもいれば、あまり身体は大きくならなくて小さなままのもいる。
数ヶ月前から、毎朝エサを与える時だけ電気をつけるようにしてみた。すると最近になって、電気をつけたらエサの時間だと理解するようになって、水面に口をパクパクさせるようになった。金魚も、パブロフの犬と同じ原理で学習するのである。これなら他にも輪くぐりとか、何か芸でも仕込めそうな気もしたが、飼い主にそこまでのモチベーションがないので、彼らはただエサを食って、ただ泳いで、用を足して、暗くなったら寝るだけである。金魚を飼うまで知らなかったが、金魚は夜になると静止して、まぶたが無いので目を開けたまましずかに寝ている。
一匹だけ、お腹が弱いのか、ガスが溜まってフワフワ浮いてしまう白いやつがいる。他の金魚が夜は静かに静止して寝ているのに、そいつだけはフワフワ浮いてしまって、体勢の維持ができずにバタバタ泳ぎながら寝れずにいた。それが何ヶ月も続いたのだが、ある夜水槽を覗いてみると、そのお腹の弱いやつは、水面のところまで浮上して静止していた。今までは水中にいようともがいていたところを、どこかのタイミングで水面に背を出せばバランスが取れることを学習したらしい。それ以来、そいつも夜は静かに寝れるようになった。そのおかげかお腹の調子も少しよいみたいで、以前よりも快適に泳いでいる感じである。
金魚たちが学習しているのは、これともう一つ、エサをもらえない時にはエネルギーを消費しないように、なるべくじっとして過ごすことである。これは命に関わるのでみんな早くから学習している。だが、彼らが学習したと思われるのは、たったのこれだけである。
あと、うちではニンテンドッグスのビーグルとチワワとラブラドールたちを飼って一年以上になる。こちらも飼い主がぐうたらなため、エサをやって風呂に入れて、たまに散歩に連れて行くだけで、たいして芸も仕込んでいない。そのため、いまだにお手とおかわりと伏せくらいしかできなくて、ドッグコンテストにも参加できない。チワワだけはなぜか勝手に逆立ちとバク宙を身につけて、たまに独りで飛び上がって遊んでいる。
金魚もニンテンドッグたちも、まだ学ぶ余地をたっぷり残しているようだが、いかんせん育てる側に根気がないために、学べないまま日々を生きている。おそらく教えるのが好きで、時間と根気を持ち合わせた飼い主に出会っていれば、彼らももっといろいろと学んでいたことだろう。
毎日少しずつの学習の積み重ねが、年単位になると大きな差となって現れるのは、人間でもペットでも、学ぶ者全てに言えることである。そして、学ぶ側がどれだけ学べるかは、育てる側の技量やモチベーションにかなり依存している面が大きい。特に、金魚の水槽や学校の教室のように、そこに関わる存在が飼い主や担任だけというような閉鎖された空間において、そうした状況は深刻化する。人生や魚生においてどれだけ学べるかは、たまたま出会った飼い主や教師の技量やモチベーションに大いに左右される。
池や小川のように開放された空間であれば、金魚は他の生き物や自然環境から学ぶ機会を得ることができ、教室を出て社会と触れ合う機会を増やせば、子どもたちは外の人や環境から学ぶことができるようになる。だからといって、野生に放り出しただけでは、危険極まりなく、過酷な環境で生きるために学ぶことになってしまう。そうではなく、安全な環境を保ちながら閉鎖度を下げることで、運悪くモチベーションの低い飼い主や教師に出会うリスクを分散させることが一つの方策となるのである。
またそれによって、育てる側の負担を軽減させることにもつながるというのも重要な点となる。学ぶ側も根気はいるが、教え育てる側も根気がいるのである。叱るのはエネルギーが要るし、つきっきりで面倒を見るのは消耗する。それでも親や教師は子どもたちを教え、育てなければならない。中には子育ての適性が著しく低い親もいれば、教科を教える技量は高くても、面倒を見るモチベーションの低い教師もいる。それは避けられない。みんながみんな高いモチベーションを持ち合わせているということはありえないのであって、その場合に必要なことは、そうした実情に合わせたシステムを作るということである。
ペットであれば、無芸なのもまたかわいいので許せるが、モチベーションの低い親や教師のもとで育った無芸な人間というのは、その将来を考えるととても気の毒である。ペットのようにずっとエサを与えてはくれないし、大人になれば自分で食っていく必要があり、また家族を養う立場にもなる。子どもの頃に学習の空白期間のある人は、将来そのつけをどこかで背負わされる羽目になる。運がよければ開花したかもしれない才能も、開かないまま朽ちてしまうかもしれない。若いうちに身につけられなかったものを後でキャッチアップを迫られることもあるかもしれない。 そうした状況を回避するための一つの方向性としては、モチベーションの高い人が関わる機会を増やしたり、そもそもモチベーションの低い存在に依存せずに済む開放的な環境を整備していくことだと思う。