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生涯学習通信

「風の便り」(第46号)

発行日:平成15年10月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「学校マニフェスト」の時代

2. 政治問題の背景

3. 第39回 大分県 立生涯教育センター移動フォーラム 「地域の教育力を問う」

4. 総合的学習の破産−文教政策の清算

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

第39回 大分県立生涯教育センター移動フォーラム 「地域の教育力を問う」

   第39回フォーラムは大分県立生涯教育センターとの共催による移動フォーラムとなった。プログラムの中身は普段の5倍ほど盛り沢山であった。課題は大分県側が設定した。大テーマは「地域の教育力」である。第1部は二つの事例発表;大分県PTA連合会の地域連携の方策と山香町の「プロジェクトY」の報告があった。共に地域の教育力の向上を目指したものであったが、教育力とは具体的なプログラムの総体である。具体的なプログラムを論じることなく、組織やスローガンを論じても決して教育力は実現しない。連携を論じるのであればプログラム実施上の連携を論じるべきである。教育界は学校教育、社会教育、家庭教育を問わずこのことを肝に命ずるべきであろう。各地の大会に参加して余りにも空疎な組織論、理念論が多すぎる。

   フォーラムにおいて「地域の教育力」を取り上げるのは2回目である。第2部のインタビュー・ダイアローグ「地域の教育力とはなにか?ー力をつけるための方策論」に福岡から3名、大分から2名が登壇した。福岡は、九州女子短大の古市教授、福岡県教委の樋田主幹、穂波町野の森本教育長である。大分側からは「大分生涯学習フォーラム21」の岩佐会長、生涯 教育センターの宮崎副所長が出席した。午後は国東半島の豊後高田市の「学びの21世紀塾」を素材として報告とシンポジュームを行った。登壇者はいずれも豊後高田市の河野潔学務課長、都甲桂一教育長、小払勝則PTA連合会長、明石里子西都甲公民館長、21世紀塾講師の宇野寿恢さんであった。司会は午前、午後の部ともに三浦清一郎が担当した。論文参加は「学校、家庭、地域が問われるものー体得の再認識と体験の質と量の再吟味−」(三浦清一郎)である。

1   地域の教育力は学校の教育力の関数ではないか?

   日本社会の一人前は保護者の付託を受けた「守役」という第三者が育ててきた。学校制度が導入されて以来の「守役」は当然学校であった。学校が一人前の基準を決め、それを保護者にも、世間にも提示して来たのである。それゆえ、学校の教育力は地域の教育力と無関係であるはずはない。それゆえ、森本教育長は地域の教育力を問うためには、学校の教育力を問わなくていいか?、と投げかけたのである。土曜プログラムにしても、学校施設の開放にしても、教員の地域活動への参加にしても、学校は密接に地域の子どもの活動に関わっているのである。まして、準備された地域の活動プログラムに対して教員の側から応援が得られない時、子どもの参加は進まない。せめて一言、「君も行ってみたら!」といってもらえないだろうか?教育行政を預かる教育長の切実な願いはいまだ学校には届いていない。

2   地域社会の構造変動

   今や地域はかつての地域ではない。したがって、従来の理論や方法の延長で地域の教育力の回復は出来ない。そのことを忘れて行政は子どもを地域に返し、家庭に返したのではないか?地域にかつて存在した集団は今は存在しない。当然、かつて機能した機能もない。ゆとりの旗印の下に子どもを学校から切り離しても子どもを受け止めるプログラムを創造できなければ、「ゆとり」は「充実」には結びつかない。地域はいまだ新しい地域集団を発明していない。地域に散在する活動の意思や力量を繋ぐ機能を作り出すことが行政の新しい任務である。古市提案は午後の部の豊後高田市の「21世紀塾」構想に繋がって行く。指導者を繋ぐ機能も、活動を繋ぐ機能も従来の方法では実現出来ない。原因は地域社会の構造変動そのものにある。

3   指導者は「人財」

  子どもの育成において人は「財」である。にもかかわらず様々な事情で子どもに関わるべき大人は本気になっていない。行政は様々な施策を講じているが、本気になってもらえるだけの方法と中身が伝わっていない。そうした事情の中には、地域社会の構造変動も、学校と社会の遊離もある。行政はそれに気付いていないわけではない。ようやく子どもの「居場所づくり」も始まる。そこには指導者はもちろん指導者を繋いで行くコーディネーターも配置する予定である。やはり問題は学校と社会教育との連携にある。学社連携の掛け声はあるが、具体的な芽は未だ出ていない。行政は「仲介」の機能を発揮すべきであるが思っているほどには発揮出来てはいない。樋田さんがいう子どものための生涯学習行政論は学校と地域社会が具体的に協力することである。宮崎さんが指摘した「向上と助け合いの新しいネットワーク」構想も同じ方向を目指している。しかし、学校はいまだ分かっていない。

4   家庭も学校も具体的な教育意思を表に出すべきである

   家庭は社会の基本単位である。地域も家庭の集まりが構成する。地域の教育力の基本は家庭にある。家庭教育の意図が稀薄であることが問題なのである。時に、教育意図はあっても、その意図は肝心のことを忘れている。それが子どもの「耐性」である。社会教育もそのことをきちんと言ってはいない。地域が家庭を巻き込んで生き生きと活動するためには社会教育が培った日常の関心、人々の交流、プログラムの連携などがあるはずである。地域の教育力は社会教育のエネルギーに比例している。岩佐会長の診断は社会教育が活力を失っていることこそ地域の教育力の停滞を招いたと指摘する。森本教育長は同様のことを学校に指摘する。何よりも学校がかかげる教育スローガンと実際の指導方策のギャップが大きい。その理由は指導の具体的な方針が見えないからである。結果的に、達成目標は公表されない。穂波町では、学校選択制を導入して、各家庭にパンフレットが配付されるようになった現在でも、学校の約束の大部分は理念的、抽象的、方向目標の叙述に留まっている。子どもはどこまで変わるのか?変えたいのか?具体的な教育意思を表に出すべきである。

5   認識のギャップと視点のズレ

  宮崎さんが紹介した大分県の調査によると、学校関係者は学校と家庭の連携は取れていると80%を越える人が考えている。一方、保護者は30%強の方々しか連携が取れているとは思っていない。一事が万事であろう。関係者の基本認識が異なれば協力は生まれにくい。世間はこの頃「子縁」というが、実際には地域の活動において、「子縁」はいまだ薄いのである。おそらくは指摘されたすべての問題で様々な視点・認識がずれているのである。共通の関心と具体的なプログラムで連携できなければ、地域の向上はない。したがって、子どもの向上も遠い。かくして行政の役割もおのずと見えて来るのではないか。社会教育施設の使命も明らかであろう。教育は教育意思を明らかにして、その具体的な達成目標を示すべきである。

6   豊後高田市の実験

   民主主義が言われようと、住民主体が言われようと、日本はいまだ「お上」の風土である。住民の行政依存は変わっていない。行政の質が悪ければ、住民のための行政は行なわれず、行政の都合ばかりが強調されて、施しの行政に終始する。「学びの21世紀塾」は行政主導の地域教育の実験である。発想は市長の政策であり、担当は教育委員会である。当然、企画から実行まで全面的に行政がイニシャティヴをとった。「21世紀塾」の実行は自治体首長の意思である。行政が確固たる教育意思を持たない限り、市民主導の教育活動はほとんど不可能である。行政が音頭を取れば、多くの善意ある市民が様々な協力を惜しまないのである。「首長の意思」こそ鍵である、とPTA連合会長が断言する。評価は分かれるであろうが、それが「お上」の風土である。

   各種補助金は活用しているが、予算上の市の負担は大きい。しかし、受益者は負担を求められてはいない。事業の意義を理解して活用すれば土曜日でも、放課後でも、様々な学習/活動機会が得られる。選択する子どもと選択しない子どもの「生涯学習格差」は確実に拡大する。

7   成功の条件−子どもの関心、市民の意見を具体化

   「学びの21世紀塾」の成功は市民の意見を行政が取り入れたからである、とPTA連合会長は診断する。市民の意見は実際の指導に当たる「塾」の講師や公民館長によって工夫される。学業指導では子どもの習熟度や個々の悩みに注目した。集団のプログラムでは、「異年齢で」、「日ごろ出来ないこと」で、「楽しく」、「地域の協力が得られること」を企画の条件にした。行政が本気になっているので学校の協力も得られている。もちろん事業の実施主体である公民館から丁重な協力依頼も行なわれている。市役所の職員も、学校の先生も、指導に出ている。そのことが市民の目に見える。少なくとも学校週五日制に対応した活動メニューは様々に準備されている。子どもの活動が活性化すれば、市民の諦めムードも変わって来る。問題は公金使用の効率性であろう。参加総数は二百数十名とお聞きした。総予算は600万である。参加者一人に投入する公金は大きい。受益者の負担を求めなくていいのか?参加しない子どもに税金投入の意義を説明できるか?会場の質問も公金の使用の説明責任を言わなくていいのか、広報をすれば、説明したことになるのか、というものであった。選択を原理とする生涯学習の困難な問題である。

8   箇条書の結論(三浦清一郎)

  「参加論文」の結論を箇条書きにすれば、以下のとおりである。学校も、社会教育も、家庭も、子どもを取り巻く現状の分析が不十分である。当然、対応策も不十分である。教育は企画においても、人財の活用に付いても、企業や政治に学ばねばならない。

(1)   「教育力」とは「活動/学習プログラム」の総体である。

(2)   現代教育は「体得」の概念を忘却し、軽視し、結果的に「学習」で人生の必要事項が学べると錯覚している。

(3)   子どもの日常は、学校と塾とテレビとC.G.が占領し、結果的に「受動的」で、「擬似環境」に埋没した時間を過ごしている。

(4)   当然、多くの子どもに核になる各種体験が欠損し、「生きる力」は弱く、特に、基礎となるべき「体力」、「耐性」が弱い。

(5)   「体力と耐性」は指導の前提である。指導の前提条件が整っていないので教科教育をはじめ、あらゆる指導が多くの困難に当面する。

(6)   強調されるべき体験の質と量には順序性がある。体力と耐性を前提とし、道徳性、基礎学力、思いやりややさしさなどを、自然体験、異年齢集団体験、社会参加体験、困難体験などを通して培うべきである。

(7)   体力と耐性に限らず、人生の「核体験」は、教科教育の学習では形成できない。学校が、家庭、地域と連携すべき理由はここにある。

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