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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第46号)

発行日:平成15年10月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「学校マニフェスト」の時代

2. 政治問題の背景

3. 第39回 大分県 立生涯教育センター移動フォーラム 「地域の教育力を問う」

4. 総合的学習の破産−文教政策の清算

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

「学校マニフェスト」の時代

政治に学ぶ「学習契約」

   「マニフェスト」は宣言を意味する。片方に宣言する者がいて、他方にそれを聞く者がいる。それゆえ、マニフェストは約束の公表を意味し、契約を意味する。マニフェストを履行しない者は何よりも「信用」を失う。日本の政治もようやく曖昧にして、いい加減な「公約の時代」が終わって、約束履行の信を問う「マニフェストの時代」に入った。少なくとも今回の衆議院選挙はその転回点になろうとしている。「公約」も「マニフェスト」も実質は同じであるとする論者もいるが、両者は同じではない。「公約」の概念は「約束不履行」の手垢が付き過ぎているのである。間抜けな話ではあるが、「約束の履行を約束する公約」は、手垢の付いていない、新しい別の表現を取らねばならなかったのである。それが「マニフェスト」である。言葉の意味は同じでも新しい時代の気分を込めるためには新しい表現が必要になるのである。

   これまで本紙が論じて来た「チャータースクール」の「チャーター」も、「アウトソ−シング」の委託契約も、夏休みの「宿題解決キャンプ」の契約もその基本精神は「マニフェスト」に外ならない。要は教育における「約束」の公表とその履行の評価が大事なのである。約束の公表と履行の義務化は、通常ビジネスにおいて、「契約」と呼ばれる。すでに1970年代のアメリカは成人の「自律的学習」を理論化し、教育に「契約」の発想を導入した。マルコム・ノールズは学習のプロセスを「目標追求行動」と考え、その具体的実践の段階を学習者と指導者の「学習責任」及び「指導責任」に分類し、お互いの努力義務を明記した「学習契約論」を発表している(*)。欧米に於てはこのように政治分野と教育分野の「マニフェスト」の時代が同時並行的に進んで来たが、日本では明らかに政治が先行した。「学校マニフェスト」も、「公民館マニフェスト」も、大学における「学習契約」も寡聞にして人の話題に登ることはない。教育は今こそ、これまで小馬鹿にしてきた政治分野の英断に学ぶべきであろう。政治は政策宣言の実行評価を国民に問うところまで来たのである。

マニフェストの衝撃 −契約の裏側は評価

   日本の政治はその責任を問われることは稀であった。しかし、マニフェストの時代になって、政治の約束は責任を問われることになる。一方、日本の教育は学習者やその保護者に対して「公約」そのものを公表したことがない。当然、約束を守ったか、否かを問われたこともない。その意味で「マニフェスト」は日本社会への衝撃である。その意義はいくら強調しても強調し過ぎることはない。

   約束が実行されない時、ビジネスでは契約不履行の責任を問われる。それゆえ、契約の裏側は評価である。教育は、教師を含めて評価の対象になることは稀である。学校マニフェストの時代、教育マニフェストの時代は始めて教育に本格的な結果評価を導入すると言うことである。

「学校選択制」は先駆け

   西日本で始めて選択制を導入した福岡県穂波町の森本精造教育長は公表された学校パンフレットは学校の公約であると指摘した。学校選択制は「学校マニフェスト」への第一歩である。選択の前提は学校案内の作成である。それは保護者の選択判断の資料である。各学校が作成し、家庭に配布する学校案内はいまだ抽象的な中身に留まっているが、公表すれば公約になる。公約も守る気がなければこれまでの政治と同じになるが、公表はマニフェストへの先駆けである。

   いまだマニフェスト発想になれていない関係者は、教育目標に具体的な指導成果の約束をしていない。保護者も「学校の約束」が具体的でなければ、守られたのか、否かを評価することは難しい。しかし、一気には行くまい。それは次の段階に期待すればいいであろう。

   個別の学習契約は民間が先行し始めている。本紙8月号に紹介した 日本旅行主催の「夏休み宿題解決キャンプ!」はまさしく「サマープログラム」のアウトソ−シングであり、「請負契約」である。子ども達は、宿題の解決を目指して南アルプスのわき水で有名な山梨県白州町で8月8日から5泊6日し、自然の中で、サマープログラムに取り組む。

 研修を受けた大学生や大学院生のリーダー3人が相談相手。図鑑や辞書、顕微鏡なども主催者が用意していくという。明らかに学習指導のアウトソーシングであり、保護者との「学習指導契約」が背景となっている。

評価の裏側は「精進」

   評価の裏側は精進である。確実に評価が行なわれる以上、手抜きはできない。それは契約者に対する「外圧」であり、心理的義務感である。契約が物事の実効性を高めるのは当事者が「外圧」と自己自身の心理的義務感を行動のエネルギーとするからである。翻って、それらが存在しない学校や社会教育には自家発電を継続するエネルギーが枯渇するのである。まして、監督者が自らが構成する職員会議や教授会であるというような学校や大学には「外圧」も、義務感も個人の行動場面には届かない。人間の堕落が起り、仕事の手抜きが起るのは当然の帰結である。したがって、評価の不在は精進の不在を意味する。当然、契約の精神も前面には出て来ない。社会教育や生涯学習の分野も、いまだ評価はいい加減である。公民館マニフェストにはほど遠いのである。

(*) Malkolm S. Knowles, Self-directed Learning,AP/Forellett Pubulishing Co.,Chicago,1975,pp.62〜63

   学習者が指導者の助言と同意を得て学習目標、学習資源と学習戦略、学習成果の証拠資料の提出、学習成果の評価方法と評価基準を設定し、それらをスケジュール化して、実施する。目標追求行動としての学習の各段階を学習者に明確に意識させると同時に、指導者の指導責任の範囲を明確化する利点がある。

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