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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第107号)

発行日:平成20年11月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 教育公害の足音

2. なぜ家事はそんなに辛いのか

3. 豊津寺子屋の男女共同参画

4. 「一筆啓上家族への便り」

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

教育公害の足音

1 気弱な無軌道

 最近のTVニュースや新聞をご覧になっていると思います。30歳以下の日本人の犯罪が毎日報告されています。「一人前」になりきれなかった日本人の気弱な無軌道が続いているのです。彼らこそがへなへなでわがままで「自己中」の過保護2世です。世間も、世間に迎合したメディアも、保護の欠如に基づく「虐待」をセンセーショナルに報道し、大騒ぎをします。しかし、保護の過剰と鍛錬の欠如に発する半人前の非行や犯罪の教育上の責任については気付かないのか、口を閉ざしています。自立できない子どもの背景には、常に子どもをだめにする特定の社会的条件があるかのように論じます。
 子どもをだめにしたのは特定の社会的条件ではありません。真の原因は、心身の鍛錬の欠如であり、鍛錬を妨げて来た「子ども観」です。具体的には、子ども中心主義と子どもの主体性論です。
 始まりは団塊の世代です。彼らの子育ての頃から家庭にも学校にも過保護が目立ち始めました。それゆえ、彼らが「過保護原世代」です。その子どもが「過保護一世」、そのまた子どもが「過保護2世」です。実態は家庭と学校が手をつないで子どもの「主体性」や「人権」を守ると言う建前で育てた世代です。子ども「主体性論」は子どもの「拒否権」と等値されました。「きつい」。「面白くない」、「やりたくない」、「やだ」と言えば誰も強制できない状況を作ったのです。体験が大事なことは大体浸透しました。しかし、子どもの承認が得られなければ、大事な体験も与えることは出来ないのです。「主体性」や「自主性」という教育的美辞麗句の前に、指導者は自ら1歩も前に進めない状況を作ったのです。
 結果的に、自分の気に入らないあらゆる鍛錬を拒否できる「過保護2世」は、体力も耐性もなく、教育界が金科玉条として唱えた主体性も自主性も獲得することはありませんでした。主体性を尊んで逆に主体性を育て損なったのです。
 何よりも規範意識の欠落は若者全体を覆っています。やっていいこととやってはいけないことの区別が、幼少期に「叩き込まれて」いないのです。彼らの「気弱な無軌道ぶり」は、過保護と過干渉の同時存在が育てた結果です。

2  ルールを取る

 子どもとルールが対立したらルールを取る。それが幼少期のしつけであり、鍛錬です。しかし、家庭も学校も子どもの「主体性」論に呪縛され、「泣く子」に負けて、ルールを選べないのです。そこから教育の崩壊が始まるのです。子ども会が崩壊し続けているのは、役員が既に子どものコントロールができないからです。役員になったらわがまま勝手な子どもに振り回され、まじめなお母さんは子どもの世話で胃に穴があくでしょう。悪ガキにうかつに注意しようものなら、近所の保護者から怒鳴り込まれかねません。誰も子ども会の役員などやりたくないのは当然なのです。子どもの単純な「好き嫌い」も、教育用語の粉飾と小理屈をつけて「自発性」とか「興味関心」という美辞麗句で置き換えれば認めざるを得なくなるのです。子どものわがままも「主体性」や「自主性」と呼べば、過保護と放任の理屈はつくのです。子どもの主体性を尊重するという事は、子どもの「拒否権」も尊重せざるを得ないということです。全国の「家庭教育学級」を通して、子どもの「興味・関心」が重要だといい、子どもの「主体性」・「自主性」を尊重せよと教育の専門家に言われれば、一般の保護者には何が「わがまま」で何が「勝手」であるかの線引きが難しくなるのは当然です。それゆえ、子どもの「主体性」論が巾を利かせるようになれば、「子どもの目線」が大事で、「社会の視点」は相対的に大事ではなくなったのです。子宝の風土と児童中心主義の結合は文字どおりの「屋上屋」を重ねたことを意味します。重ねてはならないものを重ねれば、子どもの決定権が異常に肥大化します。未熟で、自己中心的な子どもが日常を支配するようになれば、わがままと勝手が増殖します。「好きな事しかやらない」子どもを、「主体的」であると解釈する論法がまかり通るからです。子どもが「やりたくない事をやらないで済む」のは、子どもの「興味・関心」を抑圧するな、と尤もらしく教育論で語る人がいるからです。


3  欲求のコントロール

 人間は欲求の固まりです。自己抑制の教育に失敗すれば,子どもは欲求至上主義になり、共同生活の秩序は崩壊します。人間のエネルギーは欲求から発し、どのように分類しようと欲求は無限であり、しかも資源は有限です。無限の欲求で有限の資源を奪い合えば秩序は直ちに崩壊するでしょう。
然るに、しつけや教育の第一任務は「欲求の自己コントロール」を教えることです。端的にいえば,教育機関から刑務所まで最終の達成目標は「ルール」の心理的・社会的強制にあります。「欲求のコントロール」こそが秩序を維持する基本だからです。裏返せば,人間は欲求の固まりだということです。
  乳幼児の段階で,言って聞かせても,人並みに欲求の自己抑制が出来ない場合には,保護者や教師のような第3者がコントロールしなければなりません。それゆえ、しつけにも教育にも,叱責、懲罰、強制によるコントロール、説得や奨励や賞賛を組み合わせた自己抑制力の育成が不可欠なのです。しつけ糸で止めて、「型」を教える,ということは「欲求の自己抑制」力を体得させることと同じ意味なのです。
筆者には「教育公害」の足音が聞こえます。



 


 

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