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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第67号)

発行日:平成17年7月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「名」 は 「体」 を 表 す −「看板」を変えれば、「中身と方法」が変わる−

2. 試案:異年齢集団のオリエンティールング

3. − 学 校 か ら の 便 り − 「型の指導」(世阿弥)と「訓練された無能力」(ヴェブレン)

4. 第58回生涯学習フォーラム報告

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

「名」 は 「体」 を 表 す −「看板」を変えれば、「中身と方法」が変わる−

1 無境界化現象の帰結

  すでにこの10数年社会教育施設を代表する「公民館」の看板の掛け代えが進んで来た。古い公民館を残したまま、多くの新設公民館はすでに「コミュニティ・センター」や「市民センター」に変わりつつある。その背景には公民館が果たし得なかった機能への「苛立ち」があり、教育の分業化が公民館に課した様々な「制約」や「不合理」が存在する。第24回生涯学習実践研究交流会では、北九州市の寺坂博文社会教育主事が、これまでの社会教育施設を「市民センター」に改名した行政上の流れとその思想的意義を発表してくださった。折から、島根県益田市の大畑信幸氏からは「公民館」を「地区振興センター」に変えようとする動きがあるというレポートが届いた。
  日本社会のあらゆる分野で従来の分業システムが崩れ、規制が意味を為さなくなり、「無境界化」が進行している。分業が崩れた理由は、「専門」が縄張りになり、「分担」が「分担以外」はやらない、という「怠惰」の言い訳になったからである。「縄張り」化した「専門」は必ずなんらかの「利権」につながる。どの分野にも「既得権」を握った人々がいて、変化への「抵抗勢力」となり、「第3の波」がもたらした時代の変化が見えなくなる。人々の課題は複合化し、新しい問題も次々と生まれてくる。多様化し、個別化し、かつ叉総合化する社会の要請に応えるためには、狭義の社会教育も、広義の生涯学習も、施策やプログラムの絶えざる革新が不可欠となったである。しかし、社会教育(生涯学習)行政はその努力を怠ったのである。生涯学習センターが市民センターに変革されるのは必然であり、公民館が「コミュニティ・センター」として看板を掛け変えるのは時間の問題であったのである。
  従来の施策を刷新し、プログラムの方向転換を断行し、異分野と「連携」・「融合」することは「変化の時代」ー「無境界化の時代」の必然であった。今や教育は福祉と融合させなければ、高齢者の健康保持も、育児支援も果たす事はできない。男女共同参画と育児支援を一対のものにできなければ、まず「少子化」は止められない。

  子どもと老人が当面する社会的課題の解決には「教育と福祉」の「融合」が不可欠であり、「幼老」の「共生」が必要である。まして、財政難の時代には既存施設の機能の複合化とプログラムの総合化は避けて通れない問題であった。


2 施設機能の再定義とプログラムの融合

  筆者は常々、全面的な「融合」手術が必要なのは「学校」である、と指摘して来た。しかし、如何せん、現行の学校システムは、百数十年の歴史を引きずった「頑迷」にして「固陋」、「縄張り」と「既得権」の上にあぐらをかいた難攻不落の城である。しかも、そのことに政治家が気付かず、国民が無関心であれば、学校が第2の「道路公団」や「郵便局」になるのは当分先のことであろう。それゆえ、生涯学習における施設改革は「義務教育」の心理的な制約がかかっていない公民館のような社会教育施設から始めるしかなかったのである。
 高齢者が地域に溢れているのに教育と福祉の連携はほとんどできていない。したがって、現状では、健康学習・実践も、介護予防教育も実効は上がらない。現状の家庭環境や社会情勢をみれば、心理的にも、物理的にも、「子どもの居場所」が明らかに必要なのに、学校はほとんど全く関心すら示さない。教育行政は「学社連携」や「学社融合」をいうが、社会教育の学校に対する説得力は全く働いていない。もちろん、公民館の現状機能では「子どもの居場所」も、「年寄りの居場所」も確保出来ていない。加えて、公民館には福祉プログラムが獲得しているような財政の基盤は無い。福祉との連携を考えただけでも、公民館の複合化、学校機能の総合化は生涯学習推進上論理的な必然である。今大会で提起された、北九州市の「市民センター」構想、福岡県須恵町の「学校公民館」構想いずれも生涯学習施設の未来論を垣間見せている。


3 できるか?−教育と福祉プログラムの総合化

  従来の公民館が主として担ったのは、「学習」と「文化」と「軽スポーツ」である。したがって、そのスローガンは「集う−学ぶ−結ぶ」であった。「集う」と「結ぶ」はあらゆる活動の「副次的」機能である。それゆえ、核になるのは「学ぶ」であった。教育の分業論に立てば、当然のことであった。しかし、世の中は高齢化の真只中である。少子化の真只中でもある。地域は自らの環境を住民の力を結集して守らなければならない「環境の時代」に突入している。また、相次ぐ災害や犯罪は地域に「自衛」を促している。かくして社会教育施設は必然的に「学習」はもちろん、「福祉」と「環境」と「防災」などの機能を総合化する必要に迫られたのである。しかも、福祉は高齢者の介護と子どもの居場所を確立しなければならない。生涯学習施策は、子どもや高齢者のように社会が「自立」を要求することが困難な人々への保育や介護と教育活動を組み合わせる必要がある。福祉分野だけでは、本来の福祉が達成できず、教育分野だけでは、真に、社会が必要としている教育・スポーツ活動を提供するためには、福祉との協働が不可欠である。子育て支援も、高齢者の福祉も総合的なサービスである。成果をあげるためには、従来の分業システムでは無駄が多すぎるのである。福祉や介護のサービスと、各種具体的な教育・スポーツサービスの総合化こそが迫られているのである。公民館が趣味、教養、スポーツなど学習や文化活動のみに専念する時代は終わったのである。学級・講座方式の時代がおわったのである。


  それゆえ、北九州市は平成7年に「市民福祉センター」を設置した。役割は「保健福祉活動」、「生涯学習活動」、「コミュニティ活動」の3本柱である。それまでは一つの施設が、「公民館」と「福祉センター」の二つの機能を担った、いわゆる「2枚看板方式」が取られたのである。「総合化」の思想に基づき「看板」を2枚にしたのは行政の英断である。もちろん、行政組織本体において、教育と福祉を分業化しているのに、「現場」だけが総合化できるはずはない。社会教育の側から多くの不満が聞こえて来たのはそのためであろう。しかし、「看板」を2枚にすれば、施設概念が変わり始める。おいそれとプログラムの「総合化」は起らないが、少しずつを職員の意識と実践は変わって行く。それが「看板効果」である。北九州市では、こうした中で「市民福祉センター」の館長の「一部公募制」が導入されたのである(平成15年)。導入理念の背景には「公設民営」の思想がある。平成17年には、「公民館」の名称も、「市民福祉センター」の名称も廃止され、「市民センター」に統一されて行く。分業を前提とした施設の名称を冠する限り、行政機能の統合化は永遠に不可能だからである。分業とは専門以外の任務は果たさなくていいという仕組みである。それゆえ、市民の生活全般に渡って教育も、福祉も、介護も、プログラムの総合化を図るためには、まず「看板」を掛け代えなければならなかったのである。「名」は「体」を表すからである。公民館では育児支援も、介護予防も、福祉ボランティアの養成もできない。「公民館」が「公民館」の看板を上げている限り、上記の仕事は彼らの任務の範囲ではない。逆に、看板を掛け変えれば、新しい施設の機能は新しく定義する事ができるのである。学校は「コミュニティ・スクール」に、公民館は「市民センター」に名称を変えるべきである。その時初めて異分野間プログラムの「融合」を論じる事ができるのである。
 

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