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生涯学習通信

「風の便り」(第102号)

発行日:平成20年6月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 男女共同参画の核心-「なぜ家事はそんなに辛いのか!?」

2. 非権力行政」としての「社会教育」推進

3. お知らせ: 第84回生涯学習フォーラムin行橋-福岡

4. 形式と内容 -社会的承認と親睦のさじ加減-

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

男女共同参画の核心-「なぜ家事はそんなに辛いのか!?」

1  人口の半分

 頂いたお便りの中に「男女共同参画の問題」にこだわっていますね、という感想を拝見しました。確かにこだわっています。こだわりの最大の理由は、文明と歴史状況が、ここまで変化したにもかかわらず、人口の半分がいまだフェアに処遇されていないという事実があるからです。また、結果的に女性問題は男女共同参画に限らず、少子化から高齢者介護まで副次的な社会問題の発生源になっているからです。
 この間、何本かの論文を書いて来ましたが、人間はつくづく論理的な存在ではないのだということを実感しています。男女共同参画に限らず社会システムの変革は「既得権者」が存在する限り、理屈通りには行かないということです。男女共同参画の場合、「既得権者」は男性ということになります。その「既得権」が「家事」を巡って具体的な男女間の衝突の原因になっているのではないか、ということが小論のテーマです。男にとっても、女にとってもなぜ家事はそんなに辛いのでしょうか。
 
2  「対等」とは「家事の共同分担」を意味する!?

 男女共同参画の諸問題は「変わってしまった女」と「変わりたくない男」が社会生活・共同生活のあらゆる場面で葛藤し、対立し、時には激突することに起因しています。女性は労働の機械化・自動化によって「筋肉機能の劣勢」から解放されました。「変わってしまった女」の「対等の自覚」の根本の理由は、もはや男と「筋肉の優劣」を競わなくてもいいという事実にあります。経験と研修を積めば、あらゆる面で男と互角に渡り合えるという事実も証明され、女性自身も確信した筈です。
 他方、男性は人間の歴史が始って以来、主役を続けて来た居心地のよい己の地位を手放したくありません。「変わりたくない男」の根本の理由がそこにあります。
 それゆえ、図書館の棚に「妻への詫び状」というタイトルの本を見つけて思わず手に取りました。編集は「日経マスターズ」です。(大分前になりますが、「風の便り」でも高齢化社会を先取りした民間の生涯学習誌が出るぞ、という予告小論を書きました。それが「日経マスターズ」でした。)「変わりたくない男」は本当にこれまでの自分を妻に詫びて変わり得るのか、という疑問がわいたからです。詫びたあとに己の生活の何をどう変えようとするのか?夫の「詫び状」の内容いかんでは男女共同参画の展望が開けると考えたからです。
 夫婦間の男女共同参画に関する主要問題は、小難しいフェミニズムの哲学や社会システムのあり方ではなく、具体的な日常生活における「対等の原則」と「分業のあり方」だからです。中でも家事と育児の分業から協業へのプロセスが最も難しい実践の課題なのです。
 夫の定年後はすでに育児は終っています。それゆえ、妻に詫びている夫たちが「家庭を顧みることがなかった」と過去形で語るとき、大方は「育児を顧みることがなかった」ということと同義です。したがって、すでに「子育て」の苦労が終った以上、妻が定年後の夫に望むことの大部分は家事の共同分担に集中しています。いろいろ理屈をこねなくても、家事の共同分担こそが男女「対等の原則」の実践だからです。しかし、夫からの詫び状の大部分は抽象的かつ情緒的なものでした。それゆえ、家事の公平分担を具体的に記述したものはほとんどありませんでした。筆者の幼少年教育論の場合も同じなのですが、教育原理は現場の指導技術に正確に"翻訳"され、実践に反映されない限り、現実の子どもを変える事はできません。抽象的、理論的な原理が大事であるのと同じように、それらの思想や方法を日常の実践に結びつける仲介をするのが指導技術なのです。家庭の場合も同じでしょう。"今まで家の事を顧みずに済まなかった"という夫の思いは極めて重要です。但し、その反省の思いと同じくらいに、その思いを日常の「家事の技術と実践」に反映する事が大事なのです。あらゆる理念は日常的な行為と行動に反映されて始めて具体的な意味を持つからです。その証拠に次のような調査結果があるのです。「詫び状」も「反省文」も、夫の日常を変えない限り「空手形」に終わる事は明らかなのです。
 日経BP社の調査によると、妻が定年後の夫に望んでいることは次のようなものでした。答えは複数回答の結果ですが、頻度の高かった順に並べてみると以下の通りです。(*)
「身なりに気をつけること」(41、2%9)
(自分で自分の)「時間を過ごすこと」(39,8%)
「掃除」(38.4%),
「炊事」(30、9%),
「ゴミ出し」(30.9%),
「洗濯」(18、4%)
上位2つは男性本人の自覚、自立の問題ですが、次の4つがすべて「家事」であるところに注目して下さい。定年後の家庭における「対等の原則」は、実質的にも、心理的にもすべて家事に象徴されているのです。
*(2004年5/27?6/8、日経BP社/日経BPコンサルティングの「調査モニターサービス」の登録者による複数回答)

3  なぜ家事はそんなに辛いのか

   一体、家事はなぜそんなに辛いのでしょうか?現実に家事の大部分を分担している女性にとっても、その分担を回避して来た男性にとっても、理由は多岐に渡ります。以下は筆者の想像による分析の結果ですが、「筋肉文化」の特性を考慮し、実際の日常生活の繰り返しを勘案すればそれほど難しいことではありません。
歴史的な理由から、具体的な理由まで男女両性が「家事」にこだわる理由は以下の通りです。

(1) 男がすべき重要な仕事ではない

 「筋肉文化」は男に筋肉を必要とする仕事を分担させました。やがて男は社会の主導権をとり、頭脳を必要とする仕事も分担するようになり、結局は重要な役割はすべて男がするようになりました。男性支配の社会生活は、つい最近まで、あるいは現在も続いていると言った方が正確でしょう。その結果が「性役割分業」です。「家事は男がすべき重要な仕事ではない」ということになったのです。多くの男性は今でもそう思っていることでしょう。だとすれば、現代の女性がそうした発想に寛容でいられる筈はないのです。

(2) 社会的評価の対象にならない

  家族が分担する家庭内労働は、長い間、社会的評価の対象になりませんでした。しかし、「扶養家族」概念に異議を唱えて来た女性の主張を聞くまでもなく、「家政」は明らかに外部労働の分野です。「家政婦(夫)」に代表される職業もすでに長い歴史があります。家事の派遣業務は現代の注目すべき職種になりつつあります。家族による家事を「社会的評価の対象にならない」として経済行為から除外する考え方は「内助」という表現に代表されて来ました。「内助の功」は久しく男性が使用して来た概念です。しかし、今や、法律上の取り扱いが変わり、「内助」は「外助」と同等として認知されました。熟年離婚時の「夫の年金」の「分割」が妻に保障されるなど「社会的評価の対象」になったのです。定年後の男性が家事を正当に評価しないことは女性の労働と貢献を正当に評価しないことに通じているのです。「妻に定年はないのか!」という女性の側からの指摘は、家事労働の社会的意味を理解しない男性に対する精一杯の皮肉なのです。

(3) 「個性」や「創造性」の余地が少ない

 家事の大部分は日常の繰り返しです。それゆえ、慣れてしまえば、家事の大部分に「個性」や「創造性」の余地がないと言っても誤りではないかも知れません。お昼をお茶漬けで済ませたり、玄関を掃いたり、ゴミを出したりすることに特別な能力は要らないでしょう。「だから男性の仕事ではない」、ということでは女性もだまって聞いてはいられないでしょう。日常のルーティンワークにはすべて当てはまるのですが、必要であっても「繰り返し」で「退屈」、不可欠であっても「汚く」て「辛い」というような業務は、英語で「Dirty Work」と言います。欧米の先進国はダーティーワークを安い賃金で、外国人労働者に請け負わせることが常でした。これからもその風潮は続くでしょうが、やがてそうした「ダーティーワーク分業」もできなくなる時代が来ます。その時のことを考えてみれば、みんなで分け合って「退屈」や「辛さ」を分散するしか方法がないではないですか?家族の中も同じでしょう。みんなで分け合って「退屈」や「辛さ」を分散するしか方法がないのです。そうしないと必ずどこかに不満や怒りが集積してしまうのです。これからは労働分野においてもダーティワークだからこそ余分なお金を支払うことが常識になる時代が来ると思います。妻だけが家事の「ルーティン」を分担しなければならないのはアンフェアで不公平というものです。

(4) 誰でもできる

 家事は誰にでもできます。子どもにでもできます。「だれでもできるのなら」「あなたでもできるでしょう」というのが女性の論理ではないでしょうか?特別パーティーのシェフは務まらなくても、料理も、炊事も、洗濯も少しの練習で日常のことは簡単にできるようになるのです。だから誰にでもできるのです。だったら男性の分担もまた当然ではないでしょうか?

(5) 間断なく続く

 家事の最大の問題は「間断なく続く」ということです。毎日、あるいは、いつかは、誰かが汚れた皿を洗わなければならないのです。定年後に男性の決まった任務がなくなる以上、女性が男性に「間断なく続く」生きるための作業の分担を願うのは当然のことでしょう。
 重いものを持って同じ道を繰り返し登らなければならないシジフォスの神話のように、考えようによっては家事は延々と繰り返される辛い「罰」なのです。人間が食うことと排泄を止めない限り、家事だけは死ぬ迄続くのです。余暇時代が到来し、定年後の生涯時間は80年と言われるようになった現在、間断なく続く家事の繰り返しは女性の分担であるとする根拠は男性にも見つからないでしょう。

(6) 「奉仕する側」と「奉仕される側」に分かれる

 家事はファミリー・サービス(奉仕)です。それゆえ、家事の分担が男女どちらかの一方に偏れば、片方は「奉仕する側」となり、他方は「奉仕を受ける側」になるのです。妻が自分のことに熱中している最中に突然"めしはまだか?"などと言われて頭に来るのも分かろうというものです。恐らく、男性の側には長年家の外で言うに言われぬ苦労をして家族を養って来たという自負があり、「奉仕される側」に坐る事は当然だと思っているのかも知れません。外部労働における男性の労苦の歴史が事実であったとしても、定年はその事実の終わりなのです。ここからは新しい歴史が始まるのです。まして、共稼ぎで過ごして来たご夫婦の場合は、男が家事を分担しない理由はまったくあり得ないでしょう。
「自分で時間を過ごせる活動を見つけて」と妻たちが言っているように、定年は労働から活動への「移行期」です。この時、従来の分業は終わり、新しい家庭内協業が始まるのです。過去は過去、これからはこれからです。その思考法に夫がついて行けないとき、妻にとっても夫にとっても、定年は地獄になるでしょう。


4「家事力」は「生活力」

 妻たちは家事力を「生活力」と呼んでいます。家事は退屈であろうがなかろうが、間断なく続き、家事を怠ればその日の生活が停滞するからです。したがって、家事を分担しない者は、「生活力」に欠け、日常の負担になるのは当然なのです。「負担」は心身のストレスです。定年後、家事を分担しない男はストレスを引き起こす原因である「ストレッサー」だということです。負担は実質的負担と心理的負担の双方に股がっています。家事における「奉仕」と「被奉仕」の関係を固定化すれば、日常の人間関係は、時間の上でも、作業量の上でも、支配と被支配の関係に転化し、主従の関係に転化し、家事をし続ける側の心理的独立を犯すことになります。
 夫が定年で帰って来た家庭の妻の健康に着目した黒川順夫氏は近年一躍時代の脚光を浴びました。「何もしない夫」、「相も変わらぬ支配的な夫」、「部下に対処すると同じように妻に対処する夫」などが妻の健康を著しく害しているというのです。指摘されてみれば当然のことですが、ストレッサーが家の中にいるということになるのです。それが有名になった「主人在宅ストレス症候群」(*2)です。その症状は,胃潰瘍、気管支ぜんそく、高血圧、慢性肝炎、脳梗塞,うつ状態などの症状になって現れるといいます。家事を侮ってはいけないのです。家事の背景には男女の対等、夫婦の共同、終ることのない人生のルーティンの課題が潜んでいるのです。

(*2)黒川順夫(くろかわのぶお)、「主人在宅ストレス症候群」、双葉社、1993年 、新「主人在宅ストレス症候群」は2005年

追記;関連の参考論文で「夫が自分と暮らしていることが死亡に繋がりやすい」(愛媛大、藤本弘一郎グループ、1996?1998の間、60?84歳、3000人調査)があります。

5 「子どもよりも手がかかる」

 問題の書「妻への詫び状」の後半は「妻たちの座談会」になっていました。妻たちの「言い分」で筆者の注目を引いたのは以下のようなところでした。読者にもそれぞれの受け止め方がおありでしょうから、蛇足の解説はあえて省略します。座談会のキーワードを妻の独り言のようにまとめたのは筆者の「文責」です。「 」の中は、座談会の中で、筆者がキーワードと受け止めた妻たちの発言です。

-妻のいい分-

定年後の夫は「子どもより手がかかる」のです。たまに疲れて、「家事から開放されたい」などと言おうものなら、彼は「激昂します」。夫の帰還は私が「自由を奪われる」ことと同じです。つくづく妻にも「定年が欲しい」と思う時があります。たまらないのは「大切にされて当然」という一方的な夫の思いです。私は大切にされなくてもいいのでしょうか?そのくせ彼は毎日「テレビとビールだけ」で過ごしています。皆さん、耐えられますか?私には堪えられません。
要は「独りで時間を過ごせない」くせに、「妻が地獄を味わっていること」が分からないのです。妻をなんだと思っているのでしょうか?「会社のやり方を家でも通し」、「話し合いはまず通じません」。「考える回路がちがう」ので「不満が雪だるまみたいに膨らむ」のです。
 「母親が子どもに手をかける」のと「同じ役割を求めている」のです。「どこへも行かない夫」は呆れたことに「オレが居ないと張り合いがないだろう」と宣い、「ご飯はテーブルに湧いて出て来ると思って」いて、「雨戸は自然にしまる」と考えているのです。その上、食事が気に入らないと「オレはこういう食生活だから」と言って譲りません。一番の関心事は「オレのメシ」なのです。

 夫婦の中もお互いに「言わなきゃ分からない」と本には書いてありますが、実際は、「言っても分からない」のです。

筆者は男ですが、パートナーがこれでは黒川順夫先生のご指摘を待つまでもなく、妻も病気になるでしょう。
 


 

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