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生涯学習通信

「風の便り」(第98号)

発行日:平成20年2月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「母」と「母性」は同じではない

2. Speech & Communication

3. 厳然たる生涯学習格差

4. 「民の時代」−「志縁の時代」

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

Speech & Communication
1  アメリカのキャンパスで
  もう30年もまえのことです。西も東も分からないアメリカのキャンパスで「Speech & Communication」という授業を聴講したことがあります。論理の組み立てから、話し方、立ち方、発声、目線に至るまで実習を含んだ授業でした。大学は北キャロライナ大学の教員養成部門でした。アメリカの大学がこのような授業科目を設定したのは、将来、教員を目指す学生には『話す能力・伝える能力』が大事であると考えているのだと想定しました。
  しかし、当時の日本で、私が学んだ教育学部には存在しない発想でした。日本では、授業がだれた雰囲気になったりした時には、教える側の責任ではなく、いつも「学生がたるんでいる」という雰囲気の時代でした。個人的体験を振り返っても、日本の長い学生時代を通じて、学生を授業に引き込んで行く、論理と弁論に長けた先生はたったお一人しかお会いしなかった、という実感があります。ところがアメリカには、至る所に雄弁で説得力のある先生や牧師さんがいたのです。彼我に於けるSpeech & Communicationの能力の違いは歴然としていました。
  今や、テレビの国際化によって、CNNもABCもFOXもAXAもBBCも各種の外国チャンネルを見ることが出来るようになり、彼我のSpeech & Communicationの能力を比較考量することができるようになりました。
  政治・経済の国際化がもたらしたものだと思いますが、一部の日本の政治家や評論家も、一頃に比べれば、ずいぶんと分かりやすくなりました。しかし、まだまだ欧米の政治家・評論家群と比べれば論理の組み立てと弁論の表現力は追いついていないのではないでしょうか?
  過日「風の便り」95号で論じたように、確かに、日本の文化は「控えめ」や「慎み」を尊ぶ「間接表現」の文化であり、欧米は「表現の華麗さ」や「主張の論理性」を尊ぶ「直接表現」の文化である、という違いはあります。しかし、その日本においても、教師や政治家は言葉を持って、文化や政策を語らねばならない職業ですから、Speech & Communicationの能力は不可欠と言っていいでしょう。学生のサークルで『ディベート』なども盛んに行われるようになりましたが、果たして、今の日本で、Speech & Communicationの授業科目を開講している教育学部はいくつあるのでしょうか?
欧米の職業人たちは意図的にトレーニングと練習の機会を準備しているのに対し、日本は相変わらず「沈黙は金」であるなどとうそぶいているようではSpeech & Communicationにおける彼我の距離は縮まることはないでしょう。

2 伊万里市立山代西小学校の挑戦
  過日、伊万里市立山代西小学校の研究公開授業を参観いたしました。当方の都合で、1時間目のスピーチの研究授業が終ったところで学校に到着しました。出迎えてくださった佐賀県杵西教育事務所の北村所長さんは開口一番「子ども達のスピーチを見せたかった」とおっしゃいました。筆者が関わっている八木山小学校の小山研究主任さんの感想も「とても感動的でした」ということでした。子ども達はきっと素晴らしい「でき」だったのでしょう。まことに残念なことをしました。その代わり、この山代西小で「スピーチタイム」の授業を始められた小池公仁隆校長(現在、多久市立納所小学校長)先生の講評をお聞きすることが出来ました。資料を一瞥しただけで実践に裏打ちされた素晴らしい方法であることが分かりました。わずか7ページの薄い講評資料でしたが、教育界が多用する情緒的で抽象的な曖昧概念は一つもなく、中学生にも、高校生にも、大学生にでも応用可能な実践の理論です。講評をお聞きし、改めて資料を拝見して、一冊の優れた教育書を提示された思いでした。久々にアメリカのSpeech & Communicationを思い出したという次第です。読者の皆様と共有しないことは誠にもったいないと考え、筆者の出来る範囲でご紹介の労をとるべく筆を執りました。また当日公開された研究授業の教室のまえには子どものスピーチ原稿が提供されていたので全部いただいて来ました。以下は小池思想の紹介を兼ねた筆者の分析と評価です。


3 Speech & Communicationの意義に着目した優れた教育思想、使い易い「型式」
スピーチタイム創設の思想(小池式スピーチタイム7か条)

 以下は小池先生がお考えになっている「スピーチタイム」の背景を為す考え方です。

(1)  『スピーチタイムは、この力があると理想とする授業が展開できるというこの力を育てる場である』(原文のまま)(子どもが、自分の思っていることを自在に表現できるようになれば教師の授業の組み立ても自在に工夫が可能になるということか。三浦)

(2)  『人間性のふれあいの場である』
 子ども達には日常的なテーマが与えられます。子どもは、テーマの「枠」の中から自分を「打ったもの」をすくいあげてスピーチの材料とします。テーマという「枠」はありますが、自分が伝えたいものを自由に選んでいいのです。今回の発表では1年生は「冬休みのできごと」のなかから、2年生は「わたしの家族」、3年と5年は「好きな○○」、4年生は「今年の目標」、6年生は「1年間の思い出」の中から選んでいます。与えられたテーマの枠の中で、それぞれの子どもが思い思いの個別小テーマを設定し、シナリオ(スピーチ原稿)を書いた上で発表します。自分の主張や感性を表現することで、視点の交流、感想の交流、考え方の交流などが、「伝え合う喜びを知ること」につながり、「子どもがいちばん伝えたがっていることを実現すること」によって、「人間的な交流」に高まって行く筈だということが小池先生のお考えであろうと思いました。

(3)  『感謝の心が育つ場である』
スピーチタイムはとにかく「相手を立てること」を重視しています。自分のスピーチに耳傾け、自分のスピーチに善意と共感をもって聞いてくれた仲間に感謝の気持ちが湧くという想定が背後にあると理解しました。「認知」が自尊感情を満足させ、「共感」や「同感」のメッセージが感謝の気持ちを導くということなのでしょう。
スピーチタイムは「自分を認めてもらう場」であることを実感したあと、少なくとも子ども達はスピーチを恐れることはなくなることでしょう。
話し手を「認知」することから「共感」・「同感」を経て「感謝」に至らせようとする道筋には3段階の細やかな配慮が存在します。筆者は「水路付け」と呼んでみましたが、「指導ステップ」と呼んでも、「誘導順序」と呼んでもいいでしょう。以下3つの「水路付け」はスピーチタイムを支えている優れた基本の技法であり、「型式」です。

i  発言への水路付け1;『聞き方名人』
『聞き方名人』の留意事項は、以下のとおりです。
あ・・あいての顔・目を見て聞こう
い・・いいたいことを感じながら聞こう
う・・うなずきながら聞こう
え・・えがおで聞こう
お・・終わりまで聞こう

ii 発言への水路付け2;『見つけたよコーナー』
さらにスピーチタイムの「進め方」は相手に対する「良かったところ」の感想から始めます。名称は『見つけたよコーナー』と名付けられています。
□ □□という言葉がとてもいいなと思いました。理由は?だからです、という具合に「ほめること」を促す。
○ ○というところは??がよく分かりました
○ ○というところから??と感じました、という具合に共感や同感を促す。
発言の「水路付け」の例はまだあるのですが、冗長になりますので省略します。要するに、聞き手を発言に誘導して「あいてを立てる」ことに集中させる工夫です。

iii 発言への水路付け3『ちゃんと聞いてたよコーナー』
「話し手」への敬意は「ちゃんと聞いてたよコーナー」でさらに補足・裏打ちします。このコーナーの誘導マニュアルは以下のとおりです。
私は・・・なことがありました。
その時・・・と思いました。
もし、○○さんと同じ立場だったら・・・と思います。
スピーチを「ちゃんと聞いていた」証拠は「質問」や話し方や表現についての「アドバイス」として出てくることになります。そこで司会を担当する教師や当日の当番は「もっと聞きたいところ」や「声、話し方、使ったら良い言葉などについて」発言はないでしょうか、と聞き手の参加を促すのです。

小池先生は、水路付けの1?3までを『言葉のキャッチボール』と呼び、例示した表現マニュアルは『キャッチボール言葉』と命名しています。大人も子どもも友だちや先生が自分に共感的に反応してくれれば嬉しいものでしょう。「表現することの喜び」を通して「感謝の心が育つ場」であると命名された所以なのでしょう。

(4)  『子どもの成長を認める場である』
  教師にとってスピーチタイムは子どもの生の声を聞く機会です。積み重ねて行けば表現を構成する各種の力量が進化して行く過程が手に取るように分かるでしょう。子ども自身にとっても、相手の表現や自分に対する「感想」や「コメント」に磨きがかかり、自分自身も相手の共感や質問に反応する中で表現の態度や語彙や表現方法が向上して行くのを実感するでしょう。相手の向上に刺激されて、自分自身が向上の努力を続け、それを教師に認知してもらえる点でスピーチタイムは「自尊感情」の保障の場でもあることでしょう。設定の目的も、教育活動に付けられた「スピーチタイム」というタイトルも、『話す活動聞く活動を保障すること』に特化したプログラムになっていることは当然です。日本の国語カリキュラムには、ディベートやSpeech & Communication
に焦点化した指導「分野」が希薄であるところに注目された見事な方法論と言う外はありません。文明に関する知識・技術も文化に関する知識・技術もすべて基本は「言語」を通して学ぶのです。それぞれの「国語」が重要であることは言うまでもありませんが、中でも他者との交流と相互理解を司る「スピーチ」の力は共同生活のコミュニケーションを支えているのです。

(5) 『伝え合う喜びを知る場である』
(6) 『子どもがいちばん伝えたがっていることを実現させてやる場である』
(7) 『話す活動聞く活動を保障する場である』

上記の(5)〜(7)の3点はまことにその通りですが、スピーチタイムがもち得る「機能」の違い、「評価視点」の違い、「切り口」の違いを取り出したものである、と理解していいでしょう。それゆえ、すでに(1)〜(4)の中で示唆されているものを「視点」を変えて取り出して、指摘したということだと思います。

4  『感想交流』:小池思想による分析の原理
  小池先生によると「スピーチタイム」は、第1に『言葉に着目した対話』であり、第2に『話す聞くの基礎学習としての対話』であり、第3に『お互いのよさを認め合う対話』であると言います。この3つの活動の「円」が交わったところに生まれる子ども同士の交流が『感想交流』と名付けられました。

(1)  『感想交流』とは何か?
  以下は、小池先生の説明をそのまま引用し、ご紹介します。
<感想交流の活動内容>
* 自分の思い・願い・考えをよく表してくれる言葉を自分なりに見つけて使う。
* 共感して聞き、話し手のよさに気づき認める。
* 自分の考えを見つめ直す。
* 考えを深めたり広げたりしながら再度話すことができる。
<感想交流成立の条件>
* 主体的に活動できる場であること(教師中心ではない)
* 新しい価値が発見・生産される話題であること。
<感想交流の意義>
* フィーリングだけに頼らず思考を伴う対話なので思考力や判断力が養われる。
* 考え、思いを求めつつ言葉を交わし合うことから新しい価値が発見・生産される。
* 言葉に託して心を交わすことから形式に流されず内容が豊かになる。
* 共感して聞くために、主張のみに走らずお互いのよさを認めることができる。

(2) 『感想交流』の展開案
  上記の『感想交流』を実現するため、小池先生の工夫は発表→対話→整理→発表→対話のプロセスを確実にするため、次のような段階を想定しています。
第1段階:意見発表(話題提供)
第2段階:『二人の対話』(1対1の対話を通して話し手と聞き手の考えを整理する)
第3段階:『自分との対話』(自分の考えを整理し、再確認する)
第4段階:『みんなの対話』(全体での意見発表と交換)

  このような段階を踏めば、グループダイナミックスの手法に適い、ロールプレ―イングの手法に適い、対話法の手法に適うことになります。結果的にクラス全員の参画が保障されることになり、意見を言わない子どもがいなくなるという点でまさに画期的です。教師による事前指導、事後指導を組み合わせて、スピーチの結果を肯定的、共感的に聞くことを心掛ければ、(1)〜(7)までの目的が達成できるという構想です。現場が生み出したお見事な実践の原理であり、手法であると思います。脱帽です。

(出典は、小池公仁隆、伊万里市立山代西小学校研究発表会、下学年部会資料、H20.1.30です。直接引用は原則として『 』に入れました。)

5 唯一の疑問
  小池先生の方法論の創造と工夫は画期的で心から敬服します。以下は筆者のたった一つの疑問です。
  研究発表に使われた子どものスピーチ原稿(スピーチカードとかスピーチメモと呼ばれています)を拝見しました。日常のテーマから拾い上げたものですから子どもの興味を引きそうな具体的な素材が選ばれていました。表現技術もそこそこで子どもらしいと言えば子どもらしいのでしょう。『二人の対話』でも『みんなの対話』でも臆することなくこれらの原稿内容を発表することは大事なトレーニングであることにまったく異議はありません。しかし、どうひいき目に見ても子どもの原稿(作文)は単純で、稚拙です。観察や意見や感想も平凡で、閉鎖的で広がりをもちません。どの原稿も、確かに子どもの実態を反映し、子どもは自分を飾らず、偽らずに表現しています。しかし、「あるべきスピーチ」は現状の子どものレベルの観察や意見や感想を表現するだけに留まっていていいのでしょうか?もっと高次元のスピーチモデルを提示しなくていいのでしょうか?
  この世にはたくさんの優れたスピーチモデルがあります。子どもの場合でも1992年ブラジルの地球サミットで行われたカナダの12歳の少女のスピーチは伝説のスピーチとまで賞賛されています。「話す」にしても、「書く」にしても、子どもに「思ったとおりに」話させたり、書かせたりするから、たとえ子どもが「話せるようになった」としても、たとえ「書けるようになった」としても、中身が単純で、稚拙なレベルに留まるのではないでしょうか?
古人は歴史がすくいあげて来た古典を丸ごと暗唱して、思想や表現を学びました。「寺子屋」の「素読」や薩摩の「朝読み・夕読み」のごとくにです。
  まず、モデルの「型」に従う。「型」がある程度までマスターできたら、自分の工夫を加えて、自分らしい個性を出すように務める。世阿弥が喝破した「型」より入りて「型」より出よ、とはそういうことではなかったでしょうか?筆者が愛読する宮城谷昌光氏のご本は限りなく美しく、論理的な日本語で書かれています。なぜこの方は古代中国史の素材をかくも素晴らしい歴史小説に作り上げることが出来るのだろうか。どのような修行を積まれたのであろうか、とかねがね疑問でした。
  過日、文芸評論家の秋山俊氏の解説を読んでいたら、宮城谷氏はかつて司馬遷の史記を一字一句写し取って表現と意味を学んでいたそうです。モデルは噛み砕いて身体の中に飲み込んでいたのでしょう。それで「納得」です。
  優れたモデルを学ばずして、凡庸のレベルで何年議論をしても何も世界は変わらないことを「民主主義」は教えたのではないでしょうか。意見や観察だけではありません。日常の表現も出処進退もみんなで相談したところで進化する保障はありません。小池先生がご指摘のとおり『フィーリングだけに頼らず思考を伴う対話』を目指したとしても、子どもという「どんぐりの背比べのなかで」どの程度の「思考」の深化を期待できるか、危うい限りであると思います。意見だろうと観察だろうと、優れたモデルが不可欠なのです。「表現」については尚更のことではないでしょうか?
『肯定的受容』と『共感』を前提として「みんなで渡れば恐くはありません」が、「みんなで話せばいい答えが出る」とは限りません。したがって、『二人の対話』も、『みんなの対話』も、「発言の機会」と友だちとの「対話」を保障したとしても、すぐれた表現者を育てる保障にはならないのです。優れたスピーチの暗唱と発表実践こそが「残された課題」となるのではないでしょうか?

 


 

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