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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第98号)

発行日:平成20年2月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「母」と「母性」は同じではない

2. Speech & Communication

3. 厳然たる生涯学習格差

4. 「民の時代」−「志縁の時代」

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

「母」と「母性」は同じではない

1 父が「母性」を体現し、母が「父性」を体現することは可能です
  第3回山口「人づくり・地域づくり」大会冒頭の鼎談で全国高等学校PTA連合会元会長の渡邊綾子さんから「子ども達」が変で、特に男の子が「へなへな」で、「見るに忍びない」という指摘がありました。「見るに忍びない」の中身は、「ヒト科の動物として鍛えられていない」ということ「「彼らの日常から『社会』が抜け落ちていること」、「男と女の違いが不鮮明であること」などでした。渡邊さんによれば、恐らくその理由は、現代の家庭の子育てに父の参加が少なく「母性」だけで養育と教育をしているからではないか、ということでした。渡邊さんは敢えて、「母」と言わずに「母性」とおっしゃいました。筆者は、原因は「母性」ではなく、「母」だと思っています。
  「母性」を出産能力や授乳の機能に限定しない限り、生活や教育に関して、「父性」も「母性」も機能的に分類することが可能です。
  筆者は、自分の生い立ちの体験も含めて、父が父であるとともに、「母性」を体現し、母が母であるとともに、「父性」を体現することは十分可能であると考えています。世間には、父の手一つで優れたお嬢さんを育てた例も、母の手一つで立派な息子を育てた例も山ほどあるではないですか?

確かに、渡邊さんのご指摘のとおり、現代の子どもは「へなへな」です。当日の発言だけからは、渡邊さんが男女両性の子どもを意識されたか、否かは定かではありませんが、「へなへな」なのは、「男の子」に限った話ではありません。男女ともに「へなへな」です。渡邊さんにとって「男の子」の「へなへなぶり」が目立つのは、先輩世代の中にある「男の基準」とのずれが甚しいからだと想像しています。
  子どもがたくましく育っていないということは事実ですが、それは事実上、養育としつけを担った「母」(決して「母性」ではありません)に「社会の視点」と「鍛錬の視点」が欠落していたからです。
  戦後日本において、職住が分離し、圧倒的にサラリーマン時代が到来した時、たまたま、家庭教育を担わなければならなかったのが「母」であったということです。日常の労働の風景の中に父がいた時、父は労働のモデル、社会人の手本として、そこに「いる」だけで子育てに関わることが出来たのです。それ故に、子どもの日常に、「父が不在」となった時、子どもが「労働」を通して、「他人の中」で生きて行かなければならないことを忘れた「母」はまことにうかつなことでした。そのことに気付いて子どもの社会性と心身の「鍛錬」に手を貸さなかった父はさらに輪をかけてうかつでした。
  子育てが「社会の視点」を欠き、子ども時代に心身の「鍛錬」を怠れば、「自己虫」と「へなへな」が育つのは必然の結果だったのです。この結果は、母性の責任ではありません。養育の過程に「父性」を体現することを忘れた「母」の責任です。ここで「父性」とは、筋肉文化の時代の定義に倣って、『社会性や鍛錬の重要性の自覚と実践』を意味し、「母性」とは、『保護と共感と安心』を意味しています。父が母性を与えることが出来、母が「父性」を体現することが出来るとは意識と実践の問題であって、決して生物学上の「性差」の問題ではない筈です。

2  「筋肉文化」の長い支配とその終焉
  「筋肉文化」とは筆者の命名です。「筋肉文化」は、人類が生き抜くための労働と戦争を主として筋肉に頼らざるを得なかった時代の文化です。社会は、当然、筋肉の働きに優れた男が主役であり、「男支配の文化」によって運営されたのです。
  農耕も狩りも漁も男の腕が頼りであった時代は何万年も続いたのです。道具もなく、法律も整備されていない時代に「女・子ども」を守ったのも男の筋肉でした。それゆえ、社会の主役は「男」であり、男は兵士でした。人生の戦場もいくさ場の戦場も男の舞台でした。もちろん、「女のいくさ」という表現のとおり、女性も様々な戦いに巻き込まれましたが、基本的に脇役であり、基本的に男の戦いの被害者でした。
「男らしさ」も「男の子らしさ」もそうした「筋肉文化」の産物です。
  労働と戦争の中で文化は男の生き方を教えました。何が「潔い」のか、何が「勇気」なのか、何が「美しい」のか、何が「友情」なのか、その他諸々の「大事なこと」の定義が行われたのです。その中で形成されたのが、「男らしさ」です。労働の主役はどうあったらいいのか、人生の戦いでも、実際の戦争でも、主役の男達にはどのような振る舞いが要求されるのか?筋肉文化が支配した時代の社会が男性に寄せた「期待と願望」の総体が「男らしさ」であったと言って過言ではないでしょう。これに対して「女らしさ」とは、主役の男達が留守を守る女達に求めた「期待と願望」の総体だった筈です。文明が発達し、自動化と機械化は極限まで進みつつあります。男女の筋肉機能の差は極小になりました。「男の腕」に頼らなくても社会は廻るようになったのです。文明に力を借りれば、男だけに「出来て」、女には「出来ない」ということもほとんどなくなりつつあるのです。筋肉文化が終焉し、男女共同参画の文化が出発しているのです。文化が変われば、当然、「らしさ」の中身も変わります。渡邊さんが見た「へなへな」の高校生は、「父性」の体現を忘れた母に育てられただけではなく、筋肉文化が男女共同参画文化に移行する「移行期」の世間に登場した「未完のスタイル」なのです。換言すれば、従来、筋肉文化が伝えて来た「男らしさ」が衰退し、いまだ新しい「男らしさ」が生まれていない「混沌」の時代の高校生をご覧になったのでしょう。基準が確立していない以上、「おんなっ子ぽい」男子高校生は、特に、自分を恥じてはいないのです。女子高校生の方も、自分と同じような地平に立っている男子高校生を嫌悪してはいないのでしょう。
  渡邊さんがお感じになったように、先輩世代と比べた時、「男の子」が「男の子」らしくなく、「へなへな」であるという感想には二つの意味があります。第1は、まさしく現代の家庭の養育としつけの機能に「社会の視点」が抜け落ち、「鍛錬の視点」が抜け落ちているということです。第2は、「筋肉文化」の時代が終わり、男女共同参画の時代が始まり、親も、若者も、もはや昔と同じような「男らしさ」を求めていないということです。
  新しい時代が心身の「筋骨たくましい」男を求めるか、否かは分かりませんが、今のところ、「生きる力」の構成要因も変わらず、他者と共生するという社会の仕組みも変っていません。したがって、原理的に人生を「生き抜いて行く」条件は何ら変っていないのです。当然、心身の鍛錬も、共同生活の仕方を教えるという「社会の視点」も忘れてはならないのです。現代の多くの高校生は上記の両方を欠いているというのが渡邊さんのご指摘だったのだと思います。
  筆者にとっては、昔も今からも「男らしさ」の根本は「気は優しくて、力持ち」だと思っています。研究者としては、男女共同参画社会がどのような「男性像」・「女性像」を求めるかはいまだ未知であるとして保留しておくべきでしょう。
* 「筋肉文化」の詳細は、拙著: The Active Senior p.89、「変わってしまった女と変わりたくない男」をご参照ください。
 


 

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