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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第83号)

発行日:平成18年11月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 熟年の体力維持とストレス・マネジメントの方法 −助言の論理矛盾と安楽余生の陥穽−

2. いじめの風景  T. Nさんへ 

3. 社会教育委員制度の活性化

4. 第72回フォーラムレポート

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

いじめの風景  T. Nさんへ 

  あなたは教育行政の真ん中にいるので筆者の意見は厳しすぎると思うかも知れません。しかし、折角のお尋ねですので率直にお答えします。
  死ぬことでしか意思表示の出来なかった子どもやその保護者の立場に立って分析してみてください。あなたはやがて組織の中で「偉く」なるでしょう。部下に指示命令するお立場に立つことでしょう。「風」についても、「人間の業や原罪」についても、その時に思い出していただければ幸いです。筆者の表現にお怒りを感じるところもあろうかと思いますが、ご寛容にお許し下さい。追い詰められ、見捨てられた子どもに成り代って思いのたけをぶつけたいのですが、これでも懸命に怒りを抑え、「罵詈雑言」は控えたつもりなのです。

 ■1■ いじめは「風」の為せるわざである

  いじめは「風」の為せるわざである。学校には「いじめは見てみぬ振りをする」という「風」が吹いている。あるいは「いじめは卑怯」で、「いじめは美しくなく」、「いじめたらただではおかない」という「風」が死んだ結果である、と言っても良い。
  この「風」は家風の「風」であり、校風の「風」である。企業人は「社風」の創造に腐心する。なぜなら「風」こそが組織の心理的風土をコントロールし、組織に所属する人々の考え方や作法や行為や態度を決定するからである。「風」の持つ「教育力」は社会心理学の言う「集団の圧力」である。「風」を支える「家訓」や「校訓」や「社訓」は集団行動の方向を決定する組織の行動理念である。組織の思想といっても良い。メディアのいじめ報道を見る限り、学校や教育行政の「いじめを許さない」という「風」は死んでいる。「風」を支える校訓などが紹介された例も知らない。いじめの連鎖が進んでようやく「いじめは悪」だという宣言が出され、「君はひとりではない」という呼びかけが出された。今ごろ出されたということは、これまでこの種の「行動理念」が学校や教育行政の日常にはなかったという証拠であろう。
  「集団の圧力」は「みんなそうする」から「ぼくもそうする」という「同調行動」に帰結する。アメリカの心理学者が行った同調行動の実験、集団圧力の実験は、集団を構成する人々の一致した言行が個人の構成員にどれほど直接的な影響を与えるかを如実に証明している。
  現象的に「風」を構成するものは構成員の「一致した」行動であるが、「一致した」行為・行動の方向を決定するものこそ「家訓」であり、「校訓」である。「家訓」も、「校訓」も、「組織訓」もリーダーが選択し、リーダーがその定着と実践を監督する。組織の思想・行動理念を選択し、決定し、常に構成員に思い出させるのは、組織を預かるトップの役目である。「一致した行為」が「風」の元であれば、「風」はみんなの向いた方向に吹く。この時、「みんなの向くベき方向」は組織の行動理念が決めるのである。それゆえ、構成員に向かうべき方向を指し示すことが決定的に重要である。トップの責任とは組織の行動理念を示して、行くべき方向を常に指し示すことである。
  「家風」がないのも、「校風」が消えたのもリーダーが不在だからである。いじめと無責任と傍観がはびこるのは教育行政や学校に「いじめ」を「悪」と断じる「風」がなく、「無責任」を恥とする集団の意識がなく、「傍観」を卑怯とする組織の気力が欠如しているからである。もちろん、「校風」の不在は学校における行動理念が風化したからである。理念の風化は指導層が「うかつ」で「怠惰」だからである。「みんなで協議すれば優れた結論が出る」と思うのは民主主義の「甘さ」である。協議の結果に意義がないとは言わないが、所詮は多数決の結果は「平均値」で、「妥協の産物」である。民主的合意には誰も責任者がいない。だれも責任を取らない。大学の教授会でいやと言う程体験した平等・民主主義の病理である。「管理職」はせめて「管理職手当」の分だけでも、自分で判断して自分で責任を取るべきである。組織がその構成員に行動理念を示すことが出来ないのは指導層が「管理職手当」の分の仕事をしていないことを意味している。
  教育界に反して、日本の企業に「社風」が健在なのは、企業人が他の組織体に比べて遥かにリーダーシップにこだわり、社風にこだわり、企業の盛衰を担って日々活動を続けているからである。社風を破壊し、社訓に反抗するものは企業組織を去らなければならない。学校や教育行政には、校訓や組織訓が生きていないだけではない。校訓や組織の理念に反抗するものは去れという厳しさがないのである。死んだ子どもは浮かばれない。

 ■2■ 人間性は変わらないー「人間の悪」を教えよ

  人間の「業」は変わらず、子どもも均等に背負っている。いつの世も背の小さいものは「チビ」で、反対は「のっぽ」で、太った人は「でぶ」で、反対は「やせ」で、動作が遅いものは「のろま」で、気が利かないのは「まぬけ」で、物事の感度が悪いのは「ばか」で、勉強しか出来ないのは「変わり者」で、行儀の悪いのは「サル」で、気性が荒いのは「出来損ない」で、気性のやさしいのは「いくじなし」で、礼儀正しいのは「ええかっこし」であったではないか。身体に障害があれば「びっこ」と呼ぼうが「障害者」と呼ぼうが、蔑視の対象になり、見目の悪いものは「ブス」や「醜男」と呼ばれる可能性は大きい。
  知らないものは「仲間」ではなく、異人種は見下し、西洋人は毛唐で、時には「あかおに」や「あおおに」でもあった。どれほど現代が「理想」とする人間の尊厳や人権を謳おうと、恐らく太古から人間性はほとんど変わらず、人間はいつでも残酷・非道になりうる存在である。そのことを子どもにきちんと教えておくべきである。
  なかんずく非行やいじめに対する学校の不作為は子どもを人間の真実から遠ざけているのである。一体全体なぜ厳しく処罰しないのか?非行やいじめの処罰を表に出せば、必ず問題が多くの人々によく見えるはずである。議論も巻き起こる筈である。いじめ問題の対処を学校だけに背負わせるのは酷だということも分るだろう。
  子どもの人権や権利条約などの「建て前」を教える前に、人間のありのままの「業」や「原罪」を教えるべきである。除夜の鐘は108の煩悩を祓うためであると教えなければならない。子どもは素晴らしいところだけではない。蛙の尻に麦わらを突っ込んで空気を入れて殺したのは、筆者の時代の子どもである。麦わらトンボのしっぽを切ってちり紙を差し込んで、火を付けて飛ばして遊んだのもその当時の子どもである。現代の子どもも人間性の原点が変わる筈はない。学校が「教育」のきれいごとの建て前に終始すれば、「いじめ」は起る筈はなく、挫折も自殺もいじめが原因である筈はない、という都合のいい解釈がまかり通る。文部省に集められた自殺原因の集計結果がいかにいい加減なものであったか、今こそわれわれは思い知ったのである。
  子どもの主体性や自主性に振り回されれば、ありきたりの感想文やアンケート調査がまかり通る。外部の第3者をお招きして個別・匿名の事情聴取を実施しない限り子どもは本当のことはいわない。
  秘密が完全に保持され、自らの安全が保障されない限り、子どもは本当のことはいわない。筆跡で自分が特定されると思えば子どもは沈黙する。たとえ、いじめの犯人でも日ごろの仲間を「売る」ことへのためらいも大きい。言葉のいじめに確たる証拠はでない。いじめを特定することは絶望的に困難なのである。関係者はこれらのことが想像出来ないのであろうか?
  子どもは状況に敏感で、自分に都合の良いことしか見ない。自らが傷つかないことしか言わない。関係者はそういうことが分らないのだろうか?われわれは、われわれの子ども時代を思い出すべきである。人権作文に「格好の良いこと」を書いたのも、人前で親切を演じたのも、叱責をさけるためにやむを得ず先生や親の指示に従ったことも思い出すべきである。裏返せば、誉められなければ「やらなかった」ことは多く、叱られなければ「やった」ことも多いのである。人間社会からいじめをなくすことはできない。
  暴力や恐喝や生活上の妨害行為など物理的な迫害は論外であるが、現代の子どもは人間の「悪」と「残酷」にあまりにも無知で、言葉の侮辱にあまりにも弱すぎる。学校も、行政も平等主義者や人権主義者の甘い人間観が伝染して子どもの見方が実に甘く、実に浅い。子どもにも「渡る世間は鬼ばかり」と教えておくべきである。「君たちを守る」とか「君は一人ではない」とかやさしい呼びかけも大事であるが、弱い子どもには「誰もお前の代わりには生きられない」とも伝えるべきである。子ども時代でも誰も代わりには戦ってくれないのである。「学校に相談してくれ」、というが、多くの学校は虐められた子どもを守れなかったのである。断じて守る、という姿勢もメッセージも個々の子どもには届いていないのである。
  子どもにしてみれば、校風が死に絶え、校訓が自分とは関係なく、学校が断固として介入してくれない子ども集団は、時に「悪意」に満ちているのである。いじめの生け贄が次は自分であるかも知れないではないか!
  筆者はアメリカの学校暴力などの実例から、被害者の復讐が始まることを心配している。追い詰められたものは最後の反撃に出る。「村八分」はこの国の伝統であるが、「一揆」の破壊行為もまたこの国の伝統である。「虐められている子ども」の反乱はある種の正当防衛である。世間も無下には扱うまいが、復讐の連鎖が始まれば、学校の混乱は図り難い。

 ■3■ 学校に明確な刑罰を確立せよ

  すでに繰返し論じたので再論を避けるが、ルール違反に対する処罰が明確でない組織は規律を維持出来ない。もちろん、上記の「風」も維持出来ない。あらゆる、校訓もルールもあって無きがごとくになるであろう。学校も同じである。内閣法制局長官の解釈が出て、子どもに対するあらゆる物理的強制を禁じた学校教育法第11条は改正すべきである。これを論じないことは教育行政の学校に対する怠慢であり、背信である。
  厳しい状況で指導に邁進している教師を見捨ててもいいのか?子どもが、屈辱と怒りに耐えている教師に向かって「家庭があるんだろう」、「首になってもいいのかよ?」とうそぶいているのは周知の事実である。そうした状況で授業ができるというのなら行政のトップは最も荒れた学校の教室を引き受けて指導に入るべきである。お手並みを拝見したい!!!
  教育の成果は現場で証明し、子どもの変容をもって社会を説得して欲しい。現行の行政も学校も行動が少なく、理屈が多く、結果は出ていない。理屈と批判だけで、自分を棚に上げた無責任なマスコミにやられ放題にやられて学校は口惜しくはないのか?情けなくはないのか?

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